4.
水の女神ハルシアの森の水源地は、大小百以上の泉とその間を流れる清流、その周辺の湿地帯も含めた広大な聖域で、たくさんの生き物たちの楽園でした。ところが魔王軍が侵攻し、ここに一匹の魔物を放つと、ひと月と経たないうちに水は黒く濁り、生き物たちが死に絶える毒の沼地となったのです。
その水を吸い上げた木々は黒々とした瘴気を放ち、森を暗闇の中に閉ざしてしまいました。沼地には何千、何万という数の毒蛇が巣食っているように見えますが、実はこの蛇たちはすべて網の目のようにつながった一匹の魔物、大毒蛇ルドラなのです。私たちはこの無数の蛇の頭の中からたった一つの本体を見つけ出し、倒さなければなりません。
「こんなにたくさんいるのに、どうやって本体を探したら……」
「簡単だ。この森で一番でかい蛇を見つけたら、そいつがルドラの本体だ」
自信満々に教えてくれたバッシュさんでしたが、そう簡単ではありませんでした。沼地の奥には、おそらくこの森で一番大きいと思われる……大体同じような大きさの蛇が六匹。いえ七匹?八匹かも……
頭は私たちをひと呑みにできそうなほど大きく、鎌首をもたげると森の木々に並ぶような高さです。しかも尻尾は水中なので正確な体長は分かりません。
「バッシュさん!一番大きいのはどれですか!?」
「右の……いや、真ん中のか?…………まあいい。全部倒せばどれかは当たりだ。噛み付いてきた頭を潰せ!」
そんな大雑把な……でも確かにそれしか無さそうです。私は皆さんの前に立って大蛇の攻撃を誘います。
「気をつけろ、毒を吐いてくるぞ!」
「大丈夫です!私、猛毒に耐える訓練も積んでいるので!」
「どんな訓練だそれは……」
バッシュさんの警告通り、大蛇の頭が一斉に毒々しい紫色の粘液を吐きかけてきました。後に飛び散らないように慎重に盾で受け止めますが、一部は防ぎ切れず服にかかってしまいます。肌に直接かかったわけでもないし、目や口の中に入らなければ大丈夫……と思ったら、急に体が痺れてガクッと水の中に膝をついてしまいました。
「マルゴ!!」
「女神様!!!」
背後でバッシュさんやロレックさんたちが驚いた声を上げます。私も驚きました。服にかかった粘液の臭気でしょうか?まさか匂いを吸っただけで体が動かなくなるなんて……
「大丈夫!足が滑っただけです!」
少しだけ呼吸を整えるとなんとか脚に感覚が戻ってきて、急いで立ち上がります。私は勝利の女神……と皆さんが信じている以上は、決して倒れるわけにはいかないんです!
毒が効かないとみた大蛇の頭たちは、次々と私に噛みついてきました。剣と盾で交互に受け止めますが、まだ毒でふらついている足では踏みとどまれず、ヨロヨロと後退してしまいます。
「今だ!頭を潰せ!女神様をお守りしろ!!」
ロレックさんの部隊が反撃し、頭の一つを斬り落としました。でも本体ではなかったらしく、まだ蛇たちの動きは止まりません。
「大丈夫かマルゴ!……お前、なんて顔色だ」
隣にやってきたバッシュさんが私の顔を覗き込んで絶句しました。そんなに酷い顔になってしまってるんでしょうか……
「全然平気れす!……わ、私が全部止めますから、バッシュさんは本体を見つけてくらさい!」
ろれつが回っていないことにも気付かず、私はまた大蛇たちの前に立ちます。最後まで立ってさえいられたら、皆さんが本体を仕留めてくれるはずです。私は立っているだけでいいんです。また一つ、騎士さんたちが頭を潰してくれました。あと二つ?三つ?いくつあったでしょうか?視界がぼやけてよくわからない……
その時、ビリビリと空気を震わせるような獣の雄叫びが聞こえました。この声は……
「こレ以上モタモタしてらレるカ!まとめてブッ潰してやル!!」
目の前に躍り出た銀毛の狼獣人が、私を狙ってきた蛇の頭を鋭い爪の一撃で吹き飛ばしました。
「バッシュさん、また獣人の姿に……!?」
「ぐルルルルルルルルァァァああああああっ!!!」
まだ動いている頭に飛びかかり、引きずり倒しては力任せに叩き潰します。動かなくなるまでなおも徹底的に爪を突き立てる姿は、魔王と戦った時よりずっと荒々しく、まるで本当に獣になってしまったようで怖くなります。
「バッシュさん、今のが本体みたいれす!蛇たちの動きが止まりました」
「ガァァッ!はァァッ!はァッ、はぁっ、はぁっ……」
荒い呼吸を静めながらこちらを向いたバッシュさんの銀色の目は、まだ理性と凶暴性が入り混じって、なんとか自分をコントロールしようと葛藤しているみたいでした。だから気付けなかったのでしょう。背後の水中からもう一つの蛇の頭が忍び寄っていたことに。
「バッシュさん後ろっ!!!」
その影に気付いた瞬間、私は無我夢中でバッシュさんに飛びついていました。
「っ!!?」
バッシュさんを狙った蛇の牙は私の鎧の胸当てと肩当ての間に突き刺さり、そこからゾッとするほど冷たい何かが体の中に流れ込んでくるのが分かりました。激痛を感じたのは一瞬で、その後は全身が一切何も感じなくなって、自分が水の中に倒れ込んだことにも気がつきませんでした。
「マルゴ!!おいマルゴ!!こっちを見ろ!!マルゴ!!!」
少しの間ぼんやりと意識だけは残っていて、バッシュさんが私を呼んでくれている声がずっと聞こえていました。ルドラの本体は倒せたんでしょうか?ごめんなさい、私、全然体が動かなくて……このまま意識が無くなったらもう戻ってこれない気がします。約束……守れなかったらごめんなさい。でもあなたを守れてよかった。この国で生きろって言ってくれて、嬉しかったです…………
*
「いやいやいやちょっと待って。何やり遂げたみたいな顔してさっさといなくなろうとしてんの?」
「…………?」
ぼんやりとまどろんだような意識の中で、キンキン甲高い誰かの声が響きます。相変わらず体は動かせず、目も開けられないけど、その声の主は私の心の中にいて、私の思ったことがそのまま伝わるみたいです。
「…………あなたは?」
「質問してるのはこっち。あんたの魂が本気で戻ろうとしないと、あたしがいくら引っ張っても蘇生できないの!そうやってすぐ諦めて自分を納得させようとするの、癖になってない?」
「べ、別に諦めてなんか……」
「そう言いながらどんどん離れて行こうとしてる。魔王を倒したら用済みになって追い出されたから?また今度もそうなると思ってる?」
「そっ……そんなこと!」
「自分がいなくなってもどうせ誰も悲しまないし?みんなを守って役目は果たしたからもういいかなって?このままひっそり逝きますから、私のことは忘れてくださいって?」
「そんな……こと…………」
思ってない。思ってないはずですけど、その言葉にどこか納得してしまう自分もいました。私が何かを望んでもきっと叶わないから…………あんな幸せも、こんな幸せも、きっと私のものではないから…………せめて誰かの幸せを守れたら、それで満足しなくちゃって…………
「ふざけんな」
「えっ?」
少しずつ遠ざかっていた声が急にグッと近づいて、強引に私をどこかに連れて行こうとしています。
「あんたは絶対に死なせない。エーテルランドのクソ王子とうちのバッシュ兄を一緒にすんな!自分が死んでも誰も悲しまない?そんな寝言はこの顔を見てから言え!!」
「!!!?」
*
うっすら目を開けると、誰かの顔がすぐ近くにありました。逆光がまぶしくてよく見えないけど、抱きしめられた時にバッシュさんの匂いがして、それがすごく心を落ち着かせてくれました。
「バッシュ……さん?」
「…………よく戻ってきてくれた。必ず目を開けてくれると信じていた」
「ごめんなさい、私……ご心配をおかけして……」
「そんなことはどうでもいい。お前が生きていてくれたらそれでいい。言いたいことが山ほどあるのに、お前が目を覚まさなきゃ何も伝えられないだろう」
抱擁が離れてやっとバッシュさんの顔が見えました。それで「この顔を見てから」の意味が分かりました。ひどく疲れ切った血の気の無い顔に、放心したような安堵の笑み。一体どれほど私は眠っていたんでしょう?その間ずっと側にいてくれたんでしょうか?こんな顔色になるまで。
「わかったでしょ?あんたは生きなきゃダメだって」
バッシュさんの後から、同じ銀色の髪の女の子が顔を出してフンと鼻を鳴らしました。その勝ち気な仕草が似合っていて、すごく可愛らしい少女です。
「私に呼びかけてくれたあの声……」
バッシュさんが彼女の髪をクシャッと撫でながら紹介してくれました。
「水の女神ハルシアの巫女、フィナンシュ・ベルフローゼン。俺の腹違いの妹だ」
「聖域の森の巫女姫様…………あなたが…………」
ベルファリアのフィナンシュ王女は、シャルロットに勝るとも劣らない癒しの魔法の天才として有名です。彼女の蘇生魔法が私を死の淵から連れ戻してくれたみたいです。
「あんたの魂に直接触れて呼びかけたから、嫌な記憶とかも覗いちゃったし……その、キツい言い方もしちゃったかもしれないけど……悪く思わないでよね」
「そんな…………あの言葉が無かったら私、自分の殻に閉じこもったまま戻れなかったかもしれません。本当にありがとうございます、フィナンシュ様」
「フィーナでいい」
プイッと横を向いてツンとした顔を取り繕っています。なんて可愛らしい方でしょうか。王女様らしからぬお転婆な口調もすごく似合っていて微笑ましく感じられます。
「本当にありがとうございます、フィーナ様」
私は半月近くも眠り込んだまま、生死の境を彷徨っていたそうです。幸い、フィーナ様とハルシア神殿の皆さんが沼地のすぐ近くまで負傷者の救護のために来てくれていたおかげで、辛うじて解毒と蘇生が間に合いました。
「お前を絶対に死なせないと誓ったのに……結局は俺のせいでお前を死なせるところだった。マルゴ…………お前にはどれだけ感謝しても足りない。この国を救ってくれたことも、俺を救ってくれたことも、生きて戻ってくれたことも」
「バッシュさん……」
こんなにも私を心配してくれていたことが申し訳ないけど嬉しくて、またじぃんとして涙ぐんでしまいます。恥ずかしいから我慢しますけど。
「そういえばあの時、また獣人の姿に……」
「ああ。呪いは完全に消えたわけじゃない。魔王に負けた時のように自分の無力さに怒り、なりふり構わず力を求めた時、あの姿に戻れるのは分かっていた。力を制御できるか自信は無かったが、あれ以上時間をかけるとお前が危ないと思ったからな」
「そんな!私のために危険を冒して……」
「お前が言うな。お互い様だ」
バッシュさんは苦笑しながら少し横を向き、銀色の長髪をかき上げて首の後ろの方を見せます。そこには髪と同じ色の獣人の体毛がまだうっすらと残っています。
「だが、なんとか使いこなせそうだと分かった。この先まだ残りの魔物どもを森から一掃しなきゃならないが……もうお前に無理をさせることもない。ここでフィーナと茶でも飲んでてくれ」
「ダメです!私がいなかったらバッシュさん一人で無理するじゃないですか」
「じゃあ一緒に戦ってくれ、でも無理はするなよって言ったらお前は無理をしないのか?」
「そんなの……場合によります」
「だよな」
言い合う私たちを見てフィーナ様が呆れたように笑います。
「なんか二人って似た者同士だよね」
そう言われて私たちは思わず顔を見合わせたのでした。




