第9話 最強は群れを殺さない
【二周目 Day5・朝】
三日間走らされた獣は、腹を満たしてもすぐには眠れなかった。
古川の浅瀬で、赤角獣たちは立ったまま体を揺らしている。目を閉じれば黒い命令にむち打たれるのだろう。背中の文字が脈打つたび、傷ついた脚まで前へ出ようとした。
俺たちは翌朝、日が高くなる前に水場へ戻った。同行はミア、守備隊長、猟師二人。火を恐れる馬は遠くへつないだ。
猟師は一昨日のベルドとナムだった。
ナムは油をこぼしたことを、誰にも言われないうちに守備隊長に報告した。隊長は記録に残し、罰はあとで決めるとだけ答えた。
ベルドは弓を背負ったまま、眠れない群れを見た。
「命令を取った後、どうする」
「森へ帰す」
「北の森は追われた場所だ。ここに残れば、畑の水を百頭が飲む」
「だから殺す?」
「それを決める前に聞いてる」
ベルドの親指には、土を洗っても落ちない緑が爪の際まで詰まっていた。
「上流に昔の水場がもう一つある」
ミアが地図を開く。
「岩で細くなってるけど、人が少し広げれば百頭でも飲める。群れが選ぶかは分からない」
「その水場を広げるのは誰だ」
ベルドは地図ではなく、ミアを見た。
「今は群れを助ける。上流へ移ったのを確かめてから、恒久的な水場の整備を町に相談する」
「助ける前に費用まで決めろとは言わん。ただ、救えば終わりにするな」
俺はうなずいた。
「分かった」
「百頭の術を、また一人で切るつもり?」
ミアが包帯を俺の手首に巻く。北倉が焼けた日から、右手の小指に薄いしびれが残っている。
「痛い」
「なら、今の痛みを覚えて。次に無理を止める合図にして」
「どの程度で止まればいい」
結び目をもう一段きつくされ、痛みで息が詰まった。それ以上は聞けなかった。
「同じ命令なら、根を一つ切れば済む」
「違ったら?」
「途中で止める」
「それができる顔に見えない」
反論材料がない。
一頭へゆっくり近づく。台所二号には触れず、空の手を見せた。獣は角の火を強めたが、子を背後に隠すだけで突っ込んではこない。
黒い文字に指を当てる。
走れ。人の匂いへ。止まるな。
その下にもう一行あった。
眠れば、群れの幼子を焼け。
「こいつらが暴れたんじゃない。眠らせてもらえなかった」
指の届く範囲だけ、一頭分の二行目を断つ。獣はひざから崩れ、鼻先を水につける前に猟師がわら束を差し込んだ。寝息がすぐ聞こえた。
残り九十九頭。背の文字から伸びる黒い糸を目で追うと、群れの中央に置かれた小さな骨札に集まっていた。百頭を一本の札が動かしている。
「あれを取る。だが子連れが囲んでる」
ミアは風へ濡れた指を立て、青葉の束を猟師に渡した。
「煙を川下から。眠ってる一頭の匂いを混ぜれば、敵じゃないと分かるはず」
「根拠は?」
「一昨日、群れが水を飲む前、子が親の寝床をかいでから座った。赤角獣は群れの匂いで安全を決める」
よく見ている。
青葉の煙が低く流れると、中央の獣が鼻を鳴らし、一歩だけ道を空けた。俺は走らず歩いた。剣を抜けば敵に見える。骨札へ腕が届く距離まで入り、そこで初めて台所二号を抜く。
札から群れ全体に命令を配る、そのつながりだけに刃を置いた。
一つの留め具へ負荷が集まっているなら、そこを外せば全体を止められる。水門や滑車と同じように見えた。骨札が命令より前に何を支えていたかは、確かめなかった。
切る。
黒い糸が一斉に張った。百頭分の恐怖が腕を通り、肺へ流れ込む。視界の隅で数える。十秒。十五。まだ切れない。前提の奥に、北倉へ飛んだ火と同じ命令が絡んでいる。
そのまま力を入れる。
群れの奥で、子獣が一頭鳴いた。
親の角から火が噴き、子を囲むように地面を焼く。一本が輪の内側に巻き、子獣の耳先を焦がした。命令が消えるどころか、守るための群れの印まで裂け始めている。
「違う!」
剣を止めた。
完全には抜かない。途中で離せば、ほどけた命令が最も弱い幼子へ落ちる。
右腕は前に押し、左腕は引く。切るでも戻すでもない位置で、百頭分の糸を保つ。
二十秒。
ミアの指が、刃を支える俺の右腕へ食い込む。
「何が違うの!」
「骨札そのものが群れの記録だ。上から刻んだ異物だけをはがす」
「深さは?」
「見えない」
二十五秒。
「カナタ、止めて!」
筋がきしむ。ここで刃を抜けば、半分だけほどけた命令が幼子へ落ちる可能性がある。
「札へ水を!」
ミアが迷わずおけを蹴った。川水が骨札を濡らし、刻線の一部が浮く。黒い命令と元の群れの印が、別々の深さで彫られていた。
「上の傷だけだ!」
三十秒になる直前、手首を髪一本ぶん返した。
刃は骨札を割らず、表面へ食い込んだ異物の刻線だけを一周する。百本の黒い糸が一斉に震え、次の瞬間には、命令だけが薄い殻になって宙へ浮いた。
俺が一度息を吐く間に、百の文字が端から灰になった。
剣を収めようとして、右手が開いた。台所二号が水へ落ちる。腕の内側に紫色の筋が浮き、肘から先の感覚がない。
「大丈夫だ」
「その台詞、使用禁止」
ミアが水へ入り、剣を拾った。革さやへ入れる前に、布で刃の泥を丁寧にぬぐった。俺が守った剣を、今は彼女が守っている。
赤角獣たちは一頭ずつ横たわった。炎を角に残したまま、幼子が親の腹に潜る。百頭を斬ったのに、流れた血は一滴もなかった。
ベルドが一番近い獣の脚を持ち上げ、腹、首、角の根元を順に調べた。次の一頭も、その次も見る。五頭目で、弓を背負い直す手が止まった。
「矢傷が一つも増えてねえ」
「札は一枚だった」
「命令だけならな。群れが元から持ってた印まで残して、百頭まとめてだ」
ナムが骨札と眠る群れを見比べた。
「これ、町の兵に説明して信じますか」
「俺が見てなきゃ信じねえ」
「俺は見てても、まだ信じられません。……すごかったです」
ナムは最後だけ、俺を見て言った。
ベルドは、俺の動かない右手を見ていた。驚きより先に、猟師の顔へ警戒が戻る。
ただ一頭、耳先を焦がした子が小さく鳴いていた。命令が消えても火傷は戻らない。助けるために急いだ俺がつけた傷だった。
俺が近づくと親獣が火を吐いた。前髪の先が縮れ、焦げ臭さが鼻へ入る。ミアにえりを引かれ、俺は三歩下がった。
親獣は子の耳をなめた。ミアは何も言わず、子獣の絵を骨札の端へ描き、片耳だけ黒く塗った。
ナムが眠る子獣へ近づこうとし、親獣の鼻息で尻餅をついた。ベルドは助け起こさず、笑った。
守備隊と猟師たちは水場の下流に座り、弓を地面に置いた。赤角獣が眠る間、近づかずに待つ。
昼になり、最初の親獣がまぶたを上げた。俺の右手は使えず、剣もミアが持っている。獣はゆっくり立ち、焦げた角をこちらに寄せた。
猟師たちが弓に手をかける。
「待って」
ミアが先に一歩出た。親獣は彼女のかばんをかぎ、次に俺の包帯をかいだ。鼻先が肩に触れる。突進の力はなく、群れの匂いを覚える仕草だった。
子獣が真似をして、俺の靴ひもをかむ。
「懐かれた?」
「腹が空いて革を食ってる」
「情緒を返して」
猟師が干し草を差し出すと、子はあっさり靴を離した。周囲の緊張がほどける。
親獣は干し草を食べなかった。上流から来る水の匂いをかぎ、ゆっくり北西へ歩き出す。
一頭、二頭と後に続く。町へ戻る道ではない。ミアが示した、岩で細くなった水場の方角だった。
「地図を読んだのか?」
ナムが目を丸くする。
「水の匂いだろ」
「情緒を返して」
今度はミアが言い、俺たちは少し笑った。
ベルドは群れが見えなくなるまで弓を取らなかった。
「上流の岩は、猟師組合で見に行く。畑へ来た時の決まりも町で作る」
一頭だけ、群れを追えず浅瀬に残っていた。
最初の日に会った、後ろ脚に鉄わなの傷がある獣だ。眠りから覚めても立てず、角の火を弱く明滅させている。
ナムが濡れた布を持って近づく。獣はうなった。少年は布を置き、三歩下がる。
しばらくして、獣が鼻先で布を引き寄せた。前脚で踏み、次に蹴り飛ばし、最後はなぜかナムの靴へ巻きつけた。
「俺の靴を直したのか?」
ベルドが腹を抱えて笑う。ナムが布をほどいている間に、獣は自分で傷口をなめ、立ち上がった。
夕方までに立てるようになり、群れの匂いを追って上流へ消えた。
骨札を調べる。北倉へ飛んだ火の刻線だけが、群れを走らせた命令とは別の筆圧だった。術者の線は北東へ伸びるが、途中でいくつにも割れ、正確な場所を隠している。代わりに刻線の底から、税務院が荷箱に使う赤い封ろうが出た。
守備隊長が税吏ドーマの名を叫び、剣へ手をかけた。
「その人、二日前から娘と消えてる」
ミアが先に言った。
「逃げたのか、連れていかれたのかもまだ分からない」
隊長の手は柄に残った。下ろしたわけではない。それでも、ドーマの家へ向かうまで剣を抜かなかった。
守備隊長が割れた黒い刻線を布に包む。
「これだけの術者なら、なぜ直接町を焼かなかった」
「人と獣に互いを殺させたかったんだ。北倉の火は、俺たちが拒んだときの代案」
森の境には荷車の跡があった。左車輪だけ金具が欠け、一定間隔で土を深く削っている。泥の中から王国税務院の封ろう片が見つかった。
「税吏ドーマの車だ」
隊長の顔が険しくなる。
「今朝、二日前から本人も娘も見ていないと届けが出た」
荷車の横には、大人の靴跡に重なる小さな足跡があった。途中から消え、代わりに荷台が深く沈んでいる。
逃亡者が荷物を増やす理由はない。
「連れていかれたんだ」
ミアが土から細い赤ひもを拾った。宿の伝令札を束ねる色で、意味は一つ。
「助けを呼んでる」




