第10話 税吏(ぜいり)は逃げていない
【二周目 Day5・昼】
税吏ドーマは、子供に泣かれる種類の男だった。
水場で見つけた赤ひもから先は石道で、荷車も親子の足跡も消えていた。方角だけで森を捜せば、助けを求めた印から遠ざかる。まず、二人が最後にいた家と持ち出した物を確かめることにした。
「笑わない。まけない。納期は一日も待たない」
ミアは彼の家の錠を針金で開けながら、指を三本折った。
「宿屋の娘がそれをしていいのか」
「本人から緊急時用の鍵を預かってるの」
「針金に見える」
「鍵をなくしたのよ」
「誰が」
「私」
守備隊長は針金とミアを二度見し、帳面の『使用した鍵』を空欄にした。
扉が開く。
室内は荒らされていた。引き出しは開き、床に帳簿。金庫は空。食卓の椅子が一脚、横倒しになっている。
「金庫は鍵で開いている。金はない」
隊長はそこで口を閉じた。聞き取り紙へ『逃亡』と書きかけ、筆の腹で墨を潰す。『持ち出された物』『残された物』の二欄へ書き直した跡だけが黒く残った。
玄関には日常用の短靴がない。奥には底の厚い旅靴がそろっている。娘の薬も旅用のかばんも棚にある。逃げる支度としては、残し方がおかしい。
「急に出たから、選べなかったのかもしれない」
ミアが旅靴の泥を確かめる。棚の下へ顔を入れすぎ、鼻先に綿ほこりをつけた。
「それなら、金庫を開ける時間だけはあったことになる」
隊長は薬と旅靴を『残された物』に書いた。逃げたかどうかは、まだどちらの欄にも記さなかった。
帳簿を拾う。徴税額は規定どおり。期日は厳しいが、冬に払えなかった家には『家畜病』『屋根破損』と猶予規則が細かく適用されていた。
「帳面の中だけ善人に見せた可能性は」
「ある」
ミアの答えが少し硬い。
「知ってる相手だから、いいほうへ決めたくなってる?」
「嫌いよ。宿帳の一字違いで朝食代まで追徴したもの」
「質問の答えは」
「だから今、黒幕の顔に見えてる。悪い?」
鼻のほこりを教えると、ミアは俺のそででふこうとした。避けると、ますます機嫌を悪くした。
戸口で、紙袋が鳴った。
パン屋のロザが腕を組んでいる。北倉の火で共同かまの燃料まで減り、徹夜で黒パンを焼いた顔だった。
「ドーマが逃げたって?」
「まだ決めてない」
隊長が答える。
「決めるなら、都合よくいい人にするんじゃないよ」
ロザは帳簿の一ページを開いた。自分の店の名がある。
「妹が肺を悪くした冬、あいつは納期どおり税を取りに来た。払えないと言っても、顔色一つ変えなかった」
「猶予は?」
「申請書を七枚書かされた。妹の診断印、かまの修繕記録、売上の不足。夜中までかかって、間違いを三回突き返された」
帳簿には、最後に猶予が認められた記録がある。
「助けたんじゃ?」
「最初から制度を教えれば一回で済んだ。あいつは規則を守っただけ。私が泣こうが、妹が咳をしようが、優しい言葉は一つもなかった」
ロザはドーマを善人にする証人ではなかった。
「でも、申請が通った翌朝、店の前に新しいかま網があった。差出人なし。あいつが置いた証拠もない」
「どう思ってる」
「嫌いだよ。かま網の借りと、嫌いなのは別」
ロザは持ってきた黒パンを机に置く。
「娘がいるなら、腹は減る。見つけたら食べさせな」
礼を待たず帰った。
奥の小部屋は、普段使われていない。寝台だけが新しく整えられ、枕元へ子供用の薬さじがある。娘が町へ来た日のための部屋らしい。
棚には、眼鏡の留め金を直す細い針金と、赤い糸。途中まで編んだ眼鏡ひもが置かれていた。
父に渡す前だったのかもしれない。
机の紙には『お父さんは、笑うと』まで書き、後が消されている。別の紙では『税金をとる人でも』と書き直されていた。
隣家のエダ婆さんは、尋ねる前から赤いひもを握って待っていた。
「あの子が落としたと思って、拾っちまった。道端に結んでたんだよ」
「荷車へは、自分で乗った?」
「男にいったん持ち上げられた。すぐ下りて、そのひもを垣根に結んでから、自分で戻ったよ。ドーマは隣で黙ってた」
連れ去られた者が自分の足で荷台へ戻る。その一場面だけ見れば逃亡にも見える。だがひもを残すために一度下りたなら、反対の意味になる。
ミアが結び目を確かめた。左へ二つ、右へ一つ。町の子供が使う伝令印で、『声を出せない。後を追って』。
「私の配達を手伝った子なら知ってる」
隊長が『荷台から下り、ひもを結んだ』と一文へまとめると、エダがつえで紙を叩いた。
「違うよ。持ち上げられたのが先だ。年寄りを勝手に早口にするな」
持ち上げられた、下りた、ひもを結んだ、自分で戻った、と四行に直す。
「年寄りの話を長くする気かい」
「短くして、意味を逆にしたくない」
「なら耳の遠さも書いときな。荷車の中で何を話したかは聞こえなかった」
エダはそこでようやくつえを下ろした。
北門へ行くと、門番はドーマの荷車が一昨日通ったと証言した。少女は荷台に座り、父親の上着を抱いていた。止められた様子はない。
門外のわだちは北へ続いている。隊長が追おうとしたところに、共同牧場の少年が水車部品を抱えて割り込んだ。
「それ、うちの車です。左の金輪が一つないから、七歩ごとに深くなる」
水場で見たドーマの跡は、もっと短い間隔だった。少年は毎日その車を押している。泥の傷を、俺より先に音と歩幅で知っていた。
「税吏の車は?」
「門を出てないよ。東の古道へ曲がった。眼鏡のおじさんが、門番に見える所まで来てから戻ったんだ」
逃げたように見せるため、門前まで姿だけを見せたらしい。隊長は少年の名を聞き、北へ追うはずだった時間と一緒に記録した。
「助かった。私たちだけなら、よく似たわだちを追っていた」
「水車は明日までに直してください。荷を運べません」
救出とは別の仕事をきっちり渡され、隊長は修繕担当の名まで書いた。
家へ戻り、台所を調べる。
食事の皿が二枚、洗わず残っていた。大人用と子供用。薄焼き卵は端だけ食べられ、乾き方は一昨日の昼。獣を放った時刻より前だ。
保存棚には旅用の乾燥肉が残り、娘の薬も三日分ある。
「遠出するなら、薬は持つ」
「あの子は自分で荷台へ戻った。でも、行き先を選べたわけじゃない」
隊長は紙の上の『逃亡者』を三本線で消した。横へ『捜索対象――親子二人』と書く。墨が乾く前に紙を閉じ、反対のページへ黒い跡が移った。
次は、ドーマが娘を人質にされ、町を脅した可能性。
市場で聞き取りをする。
縄屋のモリスは、八日前にドーマへ青葉と縄を売っていた。
「獣を追う準備だ」
隊長の声が低くなる。
「長さを聞いた時、何と答えた?」
モリスは鼻の横をかいた。
「荷車を直す分と、子供が自分でほどける結び目を練習する分、と」
「変だと思わなかったのか」
「税吏の家じゃ、縄の結び方まで税を取るのかと思った」
「思うな」
ミアが即座に返した。
机の下に、子供の絵が落ちていた。眼鏡の男と赤い髪の少女が、北倉の前で手をつないでいる。
裏には、覚えたての字。
『お父さんへ。税金をとるひとでも、わたしのお父さん』
守備隊長が目を伏せる。
「娘の顔を町で見ない理由を、病弱だからと聞いていた」
「人質にされないよう、外に預けたのかもしれない」
「そのせいで、会う日が限られた」
守ろうとした方法が、人質にできる日を相手に知らせてしまった。
善人と決めるには、まだ早い。脅されても、町へ獣を向けた責任は消えない。
だが、金を持って逃げた男の部屋ではなかった。
壁紙の継ぎ目に、黒いすすがある。
台所二号の刃先を近づける。触れずに読む。
『門を開け。獣を追え。さもなくば娘の名を消す』
娘の名は書かれていない。それでもドーマには、自分の娘のことだと分かるように作られていた。
ミアが反射的に壁紙へ手を伸ばし、指一本手前で止めた。
「触ったら?」
「条件が動くかもしれない」
彼女はこぶしを握り、胸へ戻す。
守備隊長は部下を呼びかけ、やめた。人数を増やせば、脅迫した側に捜索開始を知らせる可能性がある。
「町には、逃亡と断定するなとだけ伝える。誘拐もまだ公表しない」
「ドーマをかばうと思われる」
「もう嫌われてる。今夜だけ増えても同じだ」
強がった声のくせに、封へ押す印を一度上下逆にした。はがしてやり直す間、誰も見ていないふりをした。
隊長は自分で戸口へ封を張った。二枚目は正しい向きだった。
机に置かれたロザの黒パンを、布に包む。硬い端を娘へ、さらに硬い耳をドーマへ、とミアが勝手に分けた。




