第8話 父親の剣
【二周目 Day4・朝】
北倉が焼けた翌朝、麦穂亭の朝食から白いパンが消えた。
代わりは黒麦と潰した豆の平たい焼き物だ。かむほど酸っぱく、あごが疲れる。ハンナは客に事情を説明し、代金を銅貨一枚下げた。文句を言った行商人も、窓の外で配給袋を縫う子供を見ると黙った。
「おかわり」
俺が皿を出すと、ミアがまゆを上げた。
「三枚目」
「働く分は食う」
「そうやって去年の収穫祭でも、豆焼きを五――」
彼女は途中で口を閉じた。去年ここにいなかったはずの俺も、聞こえなかったふりをした。
北倉から使える釘とちょうつがいを回収するため、ガルドのかじ場は朝から炉が赤かった。俺は焦げた金具のすすを落とす。曲がった留め具は熱して叩き直し、まだ使えるものと分けた。
「端を先にあぶれ。真ん中からやると割れる」
ガルドに言われる前にそうしていた。
「手が知ってる」
「知るわけねえ」
「教えたことがある顔だな」
金づちの音が一つ遅れた。
「口より手ぇ動かせ」
北倉の大扉に使うちょうつがいを、二人で打ち直す。
俺は赤くなった鉄を挟みから外し、台の中央に置いた。ガルドが金づちを振るうより先に、裏返す。
「まだだ!」
怒鳴り声と同時に、鉄が挟みから滑った。
右手が一瞬遅れた。熱いちょうつがいが床へ落ち、敷いてあった砂を焦がす。反射的に拾おうとした手を、ガルドの火ばさみが叩いた。
「赤い鉄を素手で追う馬鹿があるか!」
「前は、この拍で返した気がした」
「前のてめえがどうだろうが、今の右手は遅れてる」
ガルドはちょうつがいを炉へ戻した。鉄の端には、落とした時のゆがみが増えている。
「やり直しだ」
「時間が」
「急いで割れたちょうつがいを、ヨアクに渡す気か」
返す言葉がない。
二度目は、ガルドが「今」と言うまで待った。俺が裏返し、彼が打つ。三打目で形が戻り、五打目で軸穴がそろう。
「今度は?」
「使える」
「俺が昔の手順を知っていたから?」
「俺の今を聞いたからだ」
ガルドは水おけへ鉄を入れた。蒸気で顔が隠れる。
「勝手に先を知った顔をするな。誰に何を習ったか知らねえが、ここの炉は今日の温度で打つ」
冷えたちょうつがいを測る仕事を渡された。腕力のいらない仕事へ回されたのが悔しく、少しだけありがたかった。
昼までに三枚できた。
一本目は俺が落とした跡で少し厚い。捨てようとすると、ガルドが修繕箱へ戻した。
「失敗したちょうつがいも、荷の軽い戸なら使える」
「何でも直すんだな」
「直せる物はな。直したふりをして、壊れる場所へ戻すのが一番悪い」
その言葉が、鉄の話だけには聞こえなかった。
昼前、ガルドは壁から長剣を外した。飾り気のない革さや。柄だけが使い込まれているように馴染んだ色をしている。
「持て」
手の中に収まった瞬間、指の位置が決まった。重心はつばから指二本先。俺の腕が今より少し太くなっても使える余白がある。
「客に貸す剣じゃない」
「気に入らねえ若造に頼まれて打った。受け取る前にいなくなりやがった」
「俺に似ていた?」
「ちっとも」
迷いがなさすぎる。
「なら、俺が持っていいのか」
「いいとは言ってねえ。合うか見ろと言った」
「合ったら?」
「考える」
ガルドは剣から手を離さない。俺も無理に引かなかった。
この剣を待っていた誰かがいる。その男と同じ顔だからといって、俺が受け取る権利まで生まれるわけではない。
それでも、返したくないと思った。
ミアもガルドも、俺の向こうにいる誰かを見て泣く。その誰かには、この家で待たれる剣まであった。名も知らない男に居場所を先に使われているようで、胸の奥に小さなさびが浮いた。調査が必要だ、と言い換えればきれいになる感情ではなかった。
「振ってみろ。ただし十息だ。それ以上は昨日の腕が裂ける」
構えを習った記憶はない。足は考えるより先に半歩開き、左の踵が浮く。剣を横へ運ぶと、空気が薄く鳴った。かじ場の隅のまきが、遅れて六本だけ滑り落ちる。
十息目で止めた。右肩の奥が熱い。強さを見せつけるより、剣を落とさずさやへ戻すほうが難しかった。
俺は、手になじんだ剣をガルドへ示した。
「名前は?」
「ねえ」
「名剣には名前があるものだろ」
「ベルンの剣は、最初だけ情けねえ名を付ける。鉄の精に妬まれねえためだ。初陣から帰ったら、まともなのへ変える」
「本当にある風習か?」
「かじ場で疑う奴には、柄を一割増しで売る風習もある」
入口の弟子が、壁に並んだ札を指した。『さびさじ』『姑の咳』『家賃三月』。どれも魔剣の名には見えない。
「てめえで付けろ」
刃はよく切れ、幅は包丁より少し広い。台所の骨付き肉にも使えそうだ。
「台所二号」
ガルドの金づちが床へ落ちた。
入口で見ていたミアは、口元を両手で押さえた。息を吸ったまま吐けず、ひざから床へ崩れる。涙が指の間を通り、止めようとするほど次々に落ちた。
ハンナは壁へ片手をついた。何が戻ったのか、自分でも分からない顔をしていた。それでも頬はもう濡れている。もう片方の手で涙をぬぐっても、すぐ同じ場所を流れた。
誰も、なぜその名で二人が泣いたのかを説明しなかった。
「一号は何だ」
「知らない。でも二号のほうが落ち着く」
弟子が真顔で新しい札へ書き始めた。ガルドは金づちより先に、その炭筆を叩き落とした。
「同じだ」
ガルドが言った。
ミアが濡れた顔を上げた。ハンナはまだ、壁から手を離せない。
「前の収穫祭の夜も、お前はその名をつけた。ハンナが焼いた玉ねぎ包みを三つ食って、辛すぎる赤酒を水で割って――」
ガルドの胸を黒い亀裂が走った。
金づちより重い体が作業台にぶつかる。俺が支えると、ガルドは獣のようにのどを鳴らした。亀裂の奥で、紙が焼ける匂いがした。
ハンナが声を上げ、駆け寄る。
「それ以上、言わないで!」
ガルドのほおを両手で挟んだ。
黒い筋は数秒で消えた。ガルドは荒い息をつき、周囲を見た。
「……なんだ。何を騒いでやがる」
「この杯の四つ目。誰に渡した?」
ハンナが戸棚から欠けた陶杯を出した。底にガルドの字で、四人分の印が刻まれている。
ガルドは四つの印を数え、笑おうとして笑えなかった。
「四人?」
「俺とお前とミアだ。三人だろ」
ガルドは自分の印を指でなぞる。それでも思い出せない。ハンナが顔をのぞき込む。
「焦げた玉ねぎの匂いは?」
「知らねえ。俺は焼いた玉ねぎが嫌いだ」
ミアが口を押さえた。ハンナは泣かなかった。ただ陶杯を胸に抱き、空いた一人分を見つめた。
芝居でこんな顔はできない。家族と囲んだ夕食一回分の記憶が、ガルドの中から本当に抜け落ちている。
ハンナは陶杯を持つ指に力を込めた。
「いつの食事かも、誰が笑ったかも出てこない。ただ四つ並べる手と、焦げた鍋を灰で磨く順番だけが残ってる」
「鍋は磨いた。理由は……知らねえ」
「この杯も四つ作った」
「作った覚えはある。四つ目を誰に渡したかだけ、ない」
ガルドは空いた印へ鼻を近づけた。焦げた玉ねぎの匂いさえ、そこには戻らなかった。
ガルドは陶杯を作業台に置き、炉へこぶしを振り下ろしかけた。寸前で止めたこぶしを、今度は自分の腿へ落とした。
「言った俺が悪いのか」
「悪いのは奪った仕掛けだよ」
ハンナはそう答え、夫のすすけたこぶしに濡れ布を巻いた。
それから、焦げてもいない鍋を炉端へ運び、灰で磨き始めた。底をこする音が、金づちより鋭くかじ場に響く。ガルドが止めても手を離さない。指先が割れて、鍋肌へ赤い筋がついた。
俺が布を差し出すと、ハンナは受け取らなかった。代わりに、俺の顔をまっすぐ見た。
「今、優しい顔をしないでおくれ」
俺が布を引くと、ハンナは今度は「置いときな」と怒鳴った。濡れ布だけが、俺たちの間の台に残った。
湯の沸く音だけがした。
ガルドは棚から杯を取る。
一つ。二つ。三つ。
手が迷い、四つ目も卓に置いた。
「なぜ四つだ」
誰へともなく尋ねる。
もう一度、全部戻してやり直す。
一つ。二つ。三つ。やはり四つ目を取る。
体に残った手順が、理由のない空席を作っていた。
ハンナは「昔から」と答えなかった。
「今日は四人いるからだよ」
自分、ガルド、ミア、そして俺を順に指す。
ガルドが俺を見る。知っている息子ではなく、今ここで鉄を落とし、ちょうつがいを打ち直した若造を見る目だった。
「なら、今日は四つでいい」
四つ目へ湯を注ぐ。
「これから俺の過去を話しそうになったら、止める。代わりに、今日起きたことを教えてくれ」
ハンナの手が止まった。布は受け取らないまま、鍋を伏せた。
ミアがうなずく。
「好きなものを当てるのは?」
「過去の事実に入る可能性がある」
「じゃあ、今食べた皿を見て当てる」
ガルドが卓の四つの杯を見た。
「それなら普通に観察してくれ」
ガルドは空白の陶杯を戸棚へ戻さず、炉の前に置いた。理由を尋ねると、「そこが空いてた」とだけ言った。
「俺のことを話すと、記憶を取られるのか」
誰も答えなかった。答えること自体が、次の代価になる。
ガルドは額の汗をぬぐい、何が起きたか分からないまま剣を俺に押しつけた。
「持ってけ、台所二号」
「でも」
「次は、受け取る前にいなくなるな」
その言葉だけは忘れていなかった。
俺は剣を腰に差した。
同じ顔の男が、同じ剣へ、同じ間抜けな名をつけていた。
笑うべき一致なのに笑えない。剣を返せば、あいつの後釜ではないと言える気がした。だが柄から指を離すと、もっと負けた気がした。俺は台所二号を腰へ押しつけ、誰にも見えないところで一度だけ舌打ちした。
かじ場の床、黒い亀裂が落としたすすの一粒が風もないのに動き、北の壁の隙間へ消えた。




