第7話 英雄から逃げた子供
【二周目 Day3・夕――夜】
赤角獣を一頭も殺さなかった男を、ベルンの町は三通りに呼んだ。
英雄。化け物。北倉を燃やしたよそ者。
どれも俺の耳へ届く距離で言われた。
火が消えたのは、日が城壁の向こうへ落ちた頃だった。
北倉は屋根と二階を失い、残った麦袋は広場へ並べられている。濡れた袋、焦げた袋、外側だけ熱を持った袋。ハンナが三本のさじを突き刺し、匂いをかいだ。
「これは今夜。こっちは粉にして三日。黒いのは家畜へも出さない」
ヨアクは帳面に丸と三角と大きな罰印をつけた。俺がのぞくと、肘で隠す。
「数字を見たって麦は増えん」
「次の荷を探すには要る」
「分かってる。今は、お前に見せたくない」
礼を言えないと告げた男だ。今度は怒っている理由まで説明しなかった。
俺も謝らなかった。謝れば、ヨアクが慰める側へ回る気がした。
守備隊長は焼け跡より先に、俺の歩幅を測っていた。
「古川の端から端まで、何歩だった」
「覚えていない」
「百頭の間を抜けた回数は」
「数えてない」
「では次から数える者をつける」
隊長の横では、兵が新しい配置図を描いている。町の内側へ向く槍が二本増えていた。
「俺を見張るのか」
「町を守る。お前が町にいる間は、お前から守る場合も含む」
正直だった。
「反対はしない」
「許可を取っていない」
隊長はそれだけ言い、図の上で俺を示す駒を城壁から離した。英雄の駒ではない。火薬庫や壊れた水門と同じ、赤い三角だった。
ガルドは別の場所を見ていた。
「右手を出せ」
ガルドに指を一本ずつ握られる。小指は動いた。薬指も。人差し指は曲げるまで半拍遅れた。
「百頭止めた手が、さじを落とすぞ」
「さじなら左で持てる」
「そういう話じゃねえ」
褒められるとは思っていなかった。だが、百頭のことへ一言も触れられないと、胸のどこかが勝手に待った。
「前の俺も、こうなったのか」
ガルドの親指が止まる。
すぐ離れた。
「今のてめえの指を見てる」
答えになっていない。けれど、それ以上聞けば黒い亀裂が来る。
俺は手を引いた。
広場の端で、マレルが二人の子供へ薄いパンを割っていた。北倉から持ち帰る予定だった六箱は二箱になった。小さいほうの子は、荷車で「パン」と寝言を言っていた少年だ。
焼けた匂いに顔をしかめながら、渡された半分を両手で持っている。
俺の腰袋には、昼から残していた干し肉があった。
「これも食べるか」
しゃがんで差し出す。
荷車が着いてから、城壁の兵は何度も同じ話をした。煙を抜けた九頭の火が三呼吸で消え、一頭も血を流さず古川へ戻された、と。少年は母親の陰で、その話を聞いていた。
少年は肉ではなく、俺の右手を見た。
古川で赤角獣の角を押さえた手。黒い命令を引きはがした手。今は、人差し指だけが少し遅れている。
少年が一歩下がった。
踵が麦袋に当たり、さらに後ろへ逃げる。
「いらない」
「嫌いか」
首を横に振る。干し肉が嫌いなのではないらしい。
「じゃあ――」
「近づかないで」
広場の音が、一度だけ遠くなった。
少年は泣いていない。大声も出さない。ただ、俺が一歩動けば同じだけ下がれるよう、ひざを曲げていた。
赤角獣と同じ構えだった。
殺されないと分かっても、すぐには眠れなかった群れ。
俺は干し肉を袋へ戻した。
「分かった」
立ち上がらず、先に二歩下がる。
少年のひざから少し力が抜けた。
マレルは子供を自分の後ろへ隠さなかった。俺へ謝らせもしない。
少年が古川を指した。
「あの子たちを、どうしたの」
「水場へ返した」
「手で?」
「一頭だけ、角を押さえた」
「あんな大きいのを?」
「押さえられた」
また一歩下がった。
言い方を間違えたらしい。何が正しかったのかは分からない。
「怖いなら、見なくていい」
少年は返事をしなかった。
代わりに母親の上着をつかみ、古川の方角だけを見た。
ミアが俺の隣へ来た。近づく前に、靴底を石へ二度鳴らした。いることを知らせる癖らしい。
「強いところを見せれば、安心すると思った?」
「見せようとはしてない」
「でも、隠しもしなかった」
「隠せる大きさじゃない」
古川の向こうで、百頭の赤い角が夕日に光っている。
ミアは強さには驚かなかった。
「前は、子供に好かれようとして変な顔をした」
「前?」
「……前に来た、別のお客」
下手な言い直しだった。
別の客。俺と同じ顔で、俺より子供の扱いがうまかった男。
「どんな顔だ」
「忘れた」
「うそだな」
「今は、その顔をしてほしくない」
「できないからか」
「比べたくなるから」
ミアは自分で言ってから、唇をかんだ。
胸の奥に浮いたさびが、少し広がった。
俺は、少年を怖がらせたことより、知らない男に負けたことを先に考えた。そんな自分が一番、気に入らなかった。
「皿を運んで」
ハンナが広場の炊き出し台から怒鳴った。
「百頭を止めた英雄だろうが何だろうが、手が二本あるなら二枚持てる」
「右はしびれてる」
「なら左で一枚。威張る数が減ってちょうどいい」
木皿を左手で持つ。
最初の一枚はヨアクへ。次は守備隊長。三枚目をマレルへ渡そうとして、少年がまた身を固くした。
皿を地面へ置き、俺が離れてからマレルが拾った。
それで食事は渡せた。
仲良くはならなかった。
炊き出しが終わると、すすだらけの男たちは共同浴場へ流れた。俺もハンナに首根っこをつかまれ、裏口から放り込まれる。
「その顔で宿の寝具を黒くしたら、英雄料金を取るよ」
浴場では、俺が入った瞬間に話が止まった。
守備兵が二人、湯から上がった。逃げたのではなく、脱衣棚に立てた槍の近くへ移っただけだ。染物屋の老人は動かなかった。背中へ石けんを塗ったまま、長い柄の刷毛を俺へ差し出す。
「肩甲骨の間を頼む」
「俺でいいのか」
「自分じゃ届かん。お前の事情は知らん」
力を入れすぎないよう、左手でこする。
「弱い」と染物屋の老人。
「右手はしびれてる」
「英雄のくせに使えん」
「化け物らしいぞ」
「なら背中くらい上手に洗え」
何をすれば合格なのか分からない。老人の指示どおり、上、右、もう少し下と刷毛を動かす。最後まで礼は言われなかった。
隣の湯船では、北倉の見張りが火事の始末を愚痴っている。
「百頭を殺してりゃ肉が冬じゅう食えた」
「赤角獣の肉は三日で舌がしびれるぞ」
「二日なら食える」
「倉が焼けなきゃな」
議論は俺の正しさではなく、塩のたるがいくつ要るかへずれた。俺に結論を聞く者はいない。
湯から出る時、さっきの老人が自分の木札と間違えて俺の札を持っていった。追いかけると裸のまま逆上し、俺が名前を書かなかったのが悪いと言った。
百頭を一人で止めた男は、下着を返してもらうのに半刻かかった。
老人の木札には、俺より大きな字で名前があった。
しかも、派手な朱色だった。
夜、麦穂亭へ戻る道で、町人が俺を指した。
「百頭の英雄だ」
隣の女が言い返す。
「英雄じゃないよ。北倉を燃やした危険物って意味の、赤三角だ」
二人は俺が振り向く前に、どちらが豆袋を持つかでけんかを始めた。
宿の戸口でミアが待っている。
「おかえり」
今度は言葉のあやだと説明しなかった。
俺も、ただいまとは返さなかった。
広場の向こうで、マレルの子が赤角獣へ小さく手を振っていた。
俺のほうは、一度も見なかった。




