第6話 怪物は腹を空かせていた
【二周目 Day3・昼】
黒い火は、北倉の屋根へ落ちた。
水を含ませた布が一瞬だけ耐える。次の瞬間、炎は布の水分を黒い蒸気に変え、乾いた麦殻に潜った。
町の鐘が狂ったように鳴る。
「倉だ!」
ミアが城門へ走りかけ、振り返った。
古川では、百頭の赤角獣が水のない泥を進んでいる。煙は風にほどけ始めていた。俺が離れれば、群れはまた門前へ戻る。
俺も北倉を見る。
森で獣の火を消したように、あの黒い炎も切れるかもしれない。今走れば間に合うかもしれない。
だが、走れば群れの前から人が消える。
どちらも守ると言った口が、急に重くなった。
「カナタ」
ミアは自分の火矢を下ろした。さっき俺が「町へ戻れ」と命じた時の怒りが、まだ口元に残っている。
「倉へ行ってくれ」
「一緒に、とは言わないの」
「俺はここを終わらせる。消火の指揮を頼む。ヨアクは屋根、ハンナは炊き出し、ガルドははりを落とす位置が分かる」
役目を渡す。
「絶対、川から出ないで」
「水が来なければ?」
「来るまで、そこにいて」
「無理なら?」
ミアは一度、言葉を飲んだ。
「無理だって伝えて。勝手に死ぬほうに変えないで」
「分かった」
彼女は今度こそ小門へ走った。行ってくれ、と言った俺を一度も見なかった。
ベルドとナムが煙の残りをつなぐ。ナムの顔はすすで黒く、最初に油をこぼした手がまだ震えていた。
「俺が油をこぼしたせいで、煙の壁に穴ができた」
俺はナムが見ている煙の切れ目を指した。
「その切れ目を見てろ。次にどこを煙でふさぐべきか、一番早く分かる」
言い終える前に、ナムが叫んだ。
「右、三頭!」
煙の切れ目から親子三頭が外れる。
俺は一頭目の火だけを消し、角を鉄棒で外へ向けた。二頭目はベルドの投げた濡れ網へ角を取られ、速度を落とす。三頭目は小さい。止めようと手を出すと、親獣が俺と子の間へ入った。
俺は一歩下がり、鉄棒を地面に置く。親獣に進路を選ばせる。
親は煙と俺をかぎ比べ、子の首を鼻で押した。二頭で古川へ戻っていく。
「今の、何をした?」
ベルドが尋ねる。
「何もしなかった」
「それで戻るなら、最初から俺たちの弓はいらなかったかもしれんな」
「煙がなければ、選べる道もなかった」
ベルドは返事の代わりに、煙で真っ黒になった鼻をそでで擦った。余計に広がった。
水門の鐘が二度鳴った。
一度目は開門。
二度目は、故障。
遠くから水が走る音はしない。
古川の先頭が浅い曲がりに着く。水がなければ、斜面を上り麦畑へ出る。
「泥を掘る!」
俺は鉄棒を川底に突き立てた。
ベルドとナムが意味を聞かず、隣へ猟刀を入れる。三人で細いみぞを掘り、残っていた水たまりを曲がりへ流す。量はおけ二杯にもならない。
だが先頭の赤角獣が泥の匂いをかいだ。鼻先をつけ、舌で一度なめる。
後ろの一頭も立ち止まる。
水場がここにある、と群れに伝わるまでの時間を稼げる。
俺たちは川底を掘った。
右手の感覚が薄れ、鉄棒を二度落とす。三度目に左へ持ち替えた。ナムが拾おうとしたが、俺は止めなかった。少年が鉄棒を渡し、俺は受け取る。
一人でやった形を守る余裕は、もうなかった。
【ミア視点/北倉】
北倉では、火が屋根裏を走っていた。
私が着いた時、ヨアクははしごの上にいた。濡れ布を炎に押しつけ、顔の左半分をすすで黒くしている。
「下りて!」と私。
「ここを外せば二階へ落ちる!」
「屋根は捨てる。南列の袋を出す!」
「屋根を落とせば全部濡れるぞ!」
「燃えれば全部灰!」
ヨアクは納得しなかった。それでもはしごを下りた。命令されたからではない。火の音を聞き、残せる量を自分で数え直したからだ。
ガルドがはりの接合へ金づちを入れる。
「三本目を落とす! 下から離れろ!」
はりが折れ、屋根の一部が内側へ崩れた。火の道を切る。代わりに積み上げた麦袋へ瓦と水が落ちる。
私は消火列を二つに分けた。火へ水を運ぶ列と、無事な袋を外へ出す列。
最初は全員が火へ向かった。
「袋も!」
声を張っても、燃えている場所へ水をかけるほうが助けている実感がある。泥の袋を運ぶ仕事は地味で、重い。
私は自分で一袋を背負った。持ち上がらない。
腰を入れ直しても、袋は床から指二本しか浮かなかった。
ヨアクが反対側を持つ。
「指揮役が潰れるな」とヨアク。
「手が空いてる人に、地味なほうを見せたかったの」
「口で言え」
「聞かなかったでしょう!」
二人で外へ運ぶ。それを見た町人が、袋の列へ三人、四人と移った。
【カナタ視点/古川】
水門の鐘が、三度鳴った。
故障解除。
南から地面をはう音が来る。
濁った水が古川へ入り、掘った細みぞを一瞬で飲んだ。赤角獣たちは水の冷たさに身を震わせ、次々に流れに鼻先を入れる。
最後の一頭が城門の正面を離れた。
城壁の弓兵は、矢をつがえたまま動かなかった。煙の穴を抜けた九頭が、どれにも傷を増やさず群れへ戻っている。守備隊長が弓を下げるまで、誰も自分から弦を緩められなかった。
誰も死ななかった。
獣も人も、一頭一人として。
だが北倉の屋根は落ちた。
俺が消火列へ加わった時、冬越し用の麦の半分と乾燥豆の三分の一が黒い泥になっていた。
ヨアクは焦げた袋の前に座っている。無事な分を数える指が、途中で何度も同じ袋へ戻った。
「これで冬を越す村が、三つあった」とヨアク。
「すまない」
「謝って麦が戻るなら、百回言わせる」
顔を上げる。
「群れを焼けばよかったとも、今は言えん。子を背負った獣を見た。だが、お前に礼も言えん」とヨアク。
「言わなくていい」
「それを決めるのは俺だ」
「……そうだな」
ヨアクは目を落とし、焼けずに残った麦袋をまた一つずつ数え始めた。
午後、東のセナ村から荷車が来た。
御者はマレルという若い女だった。荷台には空の麦箱が六つと、眠ってしまった子供が二人。冬越し分を受け取る日だった。
崩れた北倉を見ても、女はすぐ怒らなかった。
「うちの分は?」
ヨアクが帳面を開く。
「六箱の予定が、今渡せるのは二箱。残りを平等に割れば、一箱半まで下がる」とヨアク。
「いつ次が来る」
「分からん」
マレルは荷台の子を見た。小さいほうが目を覚まし、「パン」と寝言を言う。
俺は自分へ配られた黒麦の袋を外そうとした。
「これを」
マレルは受け取らなかった。
「あんた一人の三日分をもらって、村の冬が越せる?」
「越せない」
「なら、自分を格好よく減らす前に、次の荷がどこから来るか考えて」
差し出した手が止まる。格好をつけたつもりはなかった、と言い返したかった。荷台の子がもう一度「パン」と寝言を言い、袋を腰へ戻した。
「子供へ今夜食べさせる分は欲しい。でも、うちだけ特別に六箱もらえば、次の村が空になる。何箱ずつ減るか、全村に同じ日に知らせて」
ヨアクが帳面へ新しい欄を作る。
予定量。
現在量。
減る理由。
次の相談日。
「二箱を持って帰る。半箱は共同炊き出しへ回す。うちの村だけで隠したら、最後の三日で奪い合いになる」
マレルは自分で受取印を押した。許した印ではない。足りない量を全員に見せるための印だった。
荷車が帰る時、目を覚ました子供が、古川の方角にいる赤角獣を見つけた。
「あれが麦を食べたの?」
「食べてない」
マレルが答える。
「腹が減って、水を探してただけ」
「じゃあ、ぼくと同じ?」
「冬になる前に、同じじゃない方法を考えるの」
子供は分かった顔をしなかった。それでよかった。
荷車の空箱四つが、石畳で乾いた音を立てながら遠ざかった。
日が落ちるまで、町の女たちが端野菜の汁と固い黒麦を配った。ヨアクはおわんを受け取らず働き続け、ミアに帳面を取り上げられた。
「倒れたら、残った袋の場所を知る人がいなくなる。食べるのも仕事」
ヨアクはようやく汁を一口すすった。
俺も隣に座る。全員を救ったと胸を張るには、焦げた麦の臭いが近すぎた。
「次は、燃やさない」
独り言に、ミアが新しい帳面を差し出した。
「書いて。寝て。自分を殴るのは、明日まだ腹が立ってたらにして」
火の飛来方向、風、足りなかったたる、動かなかった水門。ナムが油をこぼしたことだけでなく、その後に穴を見つけたことも書く。
翌日から減る食事の量も。
俺は黒く濡れた麦を一粒拾った。
赤角獣の傷と同じ黒い文字が、表面でほどける。
偶然の火ではない。
誰かが、全員を救うという俺たちの判断に、最初から値段をつけていた。




