第5話 百頭を殺さない十五分
【二周目 Day3・昼前】
使える時間は十五分だった。
城壁の外には、干上がった古い川筋がある。その先に刈り取り前の麦畑。赤角獣が目指している昔の水場に、後から町と壁が割り込んだ形だった。
「南水門を開ければ、古い川へ水を戻せる」
俺が地図を指すと、守備隊長は首を振った。
「開門輪は三年動かしていない。さびて回らん」と守備隊長。
「油と人手を」
「回っても、水がここに着くまで四半刻。群れが先だ」
「その間だけ進路を曲げる」
北倉の責任者ヨアクが卓を叩いた。
「どこへだ。南は麦畑、東は町だぞ」とヨアク。
「畑の手前で古川へ入れる」
「失敗したら?」
「俺が止める」
「百頭を、一人で?」
ヨアクの声に、責める響きはなかった。できない約束を聞き分けようとしている。
答える前に、ミアが地図に指を置いた。
「一人じゃない。赤角獣は青葉の煙を嫌う。猟師に煙の壁を作ってもらう。水門は町の職人、川へ曲げる合図は私」
「お前は町へ戻れ」
俺が言うと、ミアの指が止まった。
「……そう。私は荷物ね」
「荷物とは言ってない。昨日、妹みたいだと言ったせいで、勝手に守る側のつもりになった。俺はお前の兄でもないのに」
「そこだけは、はっきり言うのね」
地図を押さえていた指が離れた。言い直そうとした時には、ミアは火矢の束を数え始めていた。
「怖いか」
「怖いわよ。あと、今はあなたの聞き方が嫌い」
俺は息を吐いた。
「火矢を三本。合図まで射つな。風が変わったら、俺ではなく煙を見る」
「最初からそう言えばいいのよ」
許した声ではなかった。何を言い足せばいいか分からず、俺は地図へ顔を戻した。
役割を紙に書く。
猟師ベルドと弟子のナムは青葉の煙。ミアは火矢と全体の合図。守備隊長は門内の避難。俺は曲がれない個体だけを川へ返す。
ヨアクには北倉を任せた。
「倉の屋根へ水布を。火の粉が来るかもしれない」
「群れを止める話じゃなかったのか」
「失敗した時の話もする」
ヨアクはしばらく俺を見た後、復唱した。
「屋根へ水布。荷役人を半分外へ。残りは麦袋を南口に寄せる」とヨアク。
「全部運び出さないのか」
「十五分で全部へ手を出せば、何も終わらん」
その判断を、俺は覚えておくことにした。
荷車から空のたるを集め、青葉と台所油を詰める。
七つ必要だった。集まったのは六つ。
「麦穂亭の油を使う」
ミアが言う。
「夕食は?」とベルド。
「焦げてない物を食べる」
「宿屋の娘が一番乱暴だな」とベルドが笑った。
最後のたるへ油を移す途中、ナムが手を滑らせた。半分が土へ吸われる。
「すみません!」
ナムは青ざめ、残ったつぼを抱える。
ベルドの舌打ちに、ナムの肩が耳まで上がった。
「たる一つ分、煙が薄くなる。予定を変える。ベルド、間隔を狭めろ。ナムは風下で予備の葉を足す」
「俺を外さないんですか」
「外れて泣くのは夜にしろ。今は風下だ」
ナムは唇を結び、葉束を背負った。
残り九分。
さびた水門から伝令が来る。
『輪、動かず』と水門側から届く。
「油は?」
『差した。軸の内側で折れてる』
伝令札を運んだのは、十二歳のルウだった。兄のお下がりの長靴で、右の踵が半分はがれている。走るたびぱくぱく開き、泥を跳ね上げた。
「職人が、替えの軸歯が要るって!」
ヨアクが北倉の鍵束を握る。
「南扉のちょうつがいに同じ太さの鉄芯がある」とヨアク。
「外せば倉が閉まらない」
俺が言う。
「群れが町へ入れば、扉があっても同じだ。それに、群れの背を見ろ。赤い角火とは違う、黒い火が一つまとわりついている。あれが飛んでくるかもしれない」
ヨアクの顔がゆがむ。
水門を直すため、倉を弱くする。どちらも守る部品は、今ここにはない。
ルウが息を整えながら口を挟んだ。
「古い荷車の車軸じゃ、だめ?」とルウ。
「太さが半分だ」
「二本重ねたら?」
ヨアクが少年を見る。地図のわきに置いてあった炭棒を二本重ね、指で回した。
「がたつくが、一度だけなら壊れずに開けられる」
正規の修理ではない。次にも使える方法でもない。
「それで行く。水門へは『開いた後、二度目を回すな』と伝えて」
ルウが札を受け取り、また走り出す。
「靴ひも、結び直して!」
ミアが叫ぶ。
ルウは五歩で止まり、地面を一度蹴ってからひもを締めた。はがれた踵が、今度は黙った。
水が来なかった場合も、地図の上で確かめる。
「群れを古川へ入れても、水がなければ?」
ミアが尋ねる。
「底の泥は町道より柔らかい。速度は落ちる。その間に門を閉じ、次を考える」
「勝つ案じゃないわね」
「全滅しない案だ」
地面の振動が、卓の豆を跳ねさせた。
城壁へ上る。平原の向こうで、百を超える角の火が波打っている。先頭の獣は後ろを何度も振り返り、小さな個体を内側に押していた。
先頭は牙を町へ向けず、何度も鼻先で幼子を列の内へ戻していた。
残り五分。
俺とミア、ベルド、ナムだけが門外へ出る。背後で木と鉄がかみ合う重い音がした。
ベルドが火打石を鳴らす。一度目は湿った葉が白く煙るだけ。二度目、油へ火が移った。
「一番、二番――今!」
ミアの矢が最初のたるに刺さる。
二本目は外れた。
たるの縁に当たり、地面へ落ちる。薄くなるはずだった場所に、穴が二つできた。
赤角獣が煙の切れ目へ殺到する。
「ごめん!」
「謝るのは後! ナム!」
ナムが予備の青葉を抱え、火のついていないたるへ走った。獣の角が届く距離だ。ベルドがナムのえりをつかみ、二人で葉束だけを滑らせる。
葉が煙を出すまで、三呼吸はかかる。
煙の穴から、九頭が並んで抜けた。先頭の火がナムへ向く。城壁で弓弦が一斉に鳴った。
俺は九頭とナムの間へ踏み込んだ。
先頭のひづめが地面へ落ちる。その音が届く前に、俺の鉄棒は角へ触れていた。
一頭目の『前を焼け』だけをなぞり、消えた角を支点に体を横へ流す。振りかぶらない。受け止めない。二頭目の前脚へ棒を添え、突進の力を隣へ逃がす。三頭目の懐へ入り、背の子が傾くより小さく親の首を返す。
そこで、ようやく最初のひづめの音が鳴った。
四頭目から先は、名前のない一本の動きになった。火の文だけを消し、角と角の幅より細い隙間を抜ける。骨が折れる場所には触れず、群れへ戻れる向きへ肩を一度ずつ置いた。
九つの火が、走ってきた順に消える。
城壁の兵には、俺が九か所へ同時に立ったように見えたらしい。九頭へ向けられた矢は、狙いを定めた時にはもう行き先を失っていた。一本も弦を離れない。
「今、何頭通った」
城壁の若い兵が、矢をつがえたまま尋ねた。
「九頭だ」
守備隊長が答える。
「見えたんですか」
「火が九つ消えた。それしか見えん」
「……すげえ」
若い兵の口から、考えるより先に声が漏れた。
ベルドはナムのえりをつかんだまま、俺の手にある鉄棒を見た。
「剣も抜いてねえぞ」
「見とれるな、煙を切らすな!」
隊長に怒鳴られ、兵たちは遅れて弓を下ろした。
最後の一頭が俺の背後で向きを変えた時、最初の一頭はもう古川へ戻っていた。傷ついた獣はいない。鉄棒にも、俺の服にも、血はついていなかった。
三呼吸。
ミアは残る一本をすぐ射たない。風を見て三歩横へ移り、今度はたるの中央を射抜いた。
青白い煙がつながる。
群れが右の古川へ曲がり始めた。
中央の大きな一頭だけが曲がれない。後ろ脚を傷め、背には子を乗せている。急に向きを変えれば子が落ちる。
俺は正面へ走った。
「カナタ!」
赤熱する角に、ガルドから借りた鉄棒を添える。
細い文章が見えた。
火よ、前をふさぐ者を焼け。
火だけを切る。
熱が消えた。突進の重さは消えない。肩と腰へ受け流し、体を半回転させる。子が親の背から滑り、左腕へ落ちた。
重い。
受け止めきれず、俺もひざをつく。子の脚が泥に触れる寸前、ミアの矢筒が下へ入った。
「矢筒は、そう使う道具じゃないだろ」
俺が言うと、ミアは子の脚を支えたまま顔をしかめた。
「でも、助かったでしょ」
二人で子を押し戻す。親獣は一度こちらを見て、古川へ入った。
その直後、俺の背後でたるが破裂した。
煙を作る火が、こぼれた台所油を伝ってナムの足元へ走る。少年は青葉を抱えたまま固まった。
「葉を捨てろ!」
ベルドが体当たりし、二人で泥へ転がる。俺は火へ手を伸ばしかけ、止めた。普通の油火に、切るべき文章はない。
上着で叩けば広がる。ミアが砂のたるを蹴り倒し、ベルドと三人で火を覆った。
「何でも消せるわけじゃないのね」
ミアが息を切らす。
「今、それを喜んでいいのか」
「一人に任せなくていい火もあるってこと」
ナムのすそは焦げたが、皮膚までは届かなかった。少年は捨てた青葉を拾い、使える分と焼けた分へ自分で分けた。
右腕がしびれている。まだ二十秒も使っていない。それでも指が鉄棒を離さない。
水門の鐘が一つ。
開かない合図。
水時計の最後の滴が落ちた。
十五分は終わった。城壁から矢を構える音が戻る。それでも守備兵はすぐ放たず、古川へ入った群れと、まだ乾いた川底を見比べていた。
「待つ時間は使い切ったぞ!」
隊長の声に、ミアが赤布を一度振る。
「水門失敗。群れは減速。北門は閉鎖のまま!」
成功したふりをせず、現在の状況を城壁に伝える。矢筒を下ろす兵が二人、上げたままの兵が三人。決断はそろわない。
隊長は矢を下ろせと命じなかった。
「射つ条件を言え!」
「町道へ一頭でも戻った時!」と一人。
「子を背負った個体は外す!」と別の兵。
三人目の兵は何も言わず、子を背負った獣から矢じりをそらした。
古川へ入った群れは、乾いた泥を蹴り上げながら先へ進む。このままでは再び町道へ戻る。
「次の手は?」
ミアが問う。
俺は答えを持っていなかった。
その時、群れの背から黒い火の粉が一つ離れた。
風に逆らい、俺たちの頭上を越える。
城壁の内側。
冬越しの麦を積んだ、北倉へ向かっていた。




