第4話 勘がよすぎる妹役
【二周目 Day3・朝】
ベルンへ来て三日目の朝、俺は「三日目」と数えた自分に腹が立った。暮らし始めたわけではない。帰る方法が見つかるまで足止めされているだけだ。
そのはずなのに、朝食代と部屋代は待ってくれない。鑑定所では名前が消え、名前がなければ役所の記録も探せないと言われた。次の手掛かりを待つ間、宿で働くことになり、俺は宿屋の仕事が赤角獣より手強いと知った。
まきは太さで三段、寝具は日向へ出す順番が決まり、食堂の長椅子は奥からふく。逆にすると常連の漁師が濡れた席に座るらしい。
最初の失敗は、洗った敷布だった。
白い布を大きさでそろえ、端から干した。半分終えたところで、ハンナが物干し場へ来て頭を抱える。
「客用、台所用、怪我人用が全部混ざってる」
「白さも大きさも同じだ」
「縫い目が違うよ。客用は一本、台所は二本、怪我人は赤糸」
見ると、確かに端へ細い印がある。俺は昔から知っていたようにまきや皿の場所を当てるのに、今日教わる三本の糸は見落とした。
全部外し、最初から干し直す。
手を動かしている間だけは、和歌山の時刻も、紬が今ごろ何を考えているかも数えずに済んだ。だから一枚ずつやり直せばいい仕事へ、必要以上に夢中になった。
「手伝う?」
ミアが洗濯かごを抱えて現れた。
「自分でやる」
「じゃあ私は次の仕事をする。終わったら呼んで」
手を出さず、失敗も取り上げない。だが十五分後、風で一枚飛んだ時だけ、向かいの屋根から洗濯挟みを投げて留めた。
「今のは手伝いでは」
「宿の財産を守ったの」
言い方まで、俺が礼を言わずに済む形だった。
「次、二階の三号室。客を起こさないで水差しだけ替えて」
ミアが洗濯かごを抱えたまま指示する。
「鍵がかかってる」
「窓が開いてる。ひさしから入れる」
「宿屋の正規手順か?」
「ベルン式よ」
俺がひさしへ足をかけると、彼女は背後から腰帯をつかんだ。
「その右足、滑る。先に左」
言われた場所だけこけが薄い。実際に滑りかけた。腕で窓枠を取り、音を立てず部屋へ入る。
「どうして俺が右から行くと分かった」
「人は利き足から出すでしょう」
「森では左に避けろと言った」
「獣のひづめを見たの」
どちらも筋は通る。俺の癖に、今見えるこけやひづめの証拠を重ねている。だから余計に隙がなかった。
朝食では俺が口を開く前に塩を渡された。
「今日は何杯食べると思う」
「三杯」
「二杯にする」
「遠慮して夜に焼き豆をつまむから、最初から三杯」
反抗して二杯で止めた。昼前には腹が鳴った。ミアは勝ち誇った顔で、小さなチーズを半分よこした。
「はちみつを入れれば、二杯でも腹持ちしたのに」
隣卓の漁師がさじを止めた。
「麦の煮込みへはちみつを入れるのは南門の食い方だ。ベルンじゃ赤酒だ」
向かいの行商人がはちみつつぼを抱えて立ち上がる。そこから、味の話だったはずの言い争いに、川向こうの婚礼料理と二十年前の魚市の場所まで加わった。ハンナが二人のおわんを台所へ下げると、議論は腹の音で終わった。
ミアは俺の耳元でささやく。
「宿で三番目に長い戦争よ」
「一番は?」
「窓際の席」
二番目を尋ねる前に、空室札を持たされた。
町の掲示板に宿の空室札を貼りに行く。
途中、薬屋のサナ婆さんに孫の便りを渡した。ミアはいつものように封を切らず、椅子を窓際に寄せる。
「読もうか?」
「いらないよ」
サナは分厚い眼鏡をかけ、自分で便りを開いた。
「先月から字を習ってる。孫の愚痴くらい、自分で読む」
ミアの手が少し止まる。
「ごめん。前と同じだと思った」
「謝る暇があったら、ここの字を教えな」
指されたのは『海』だった。ミアは答えを言わず、横に波の絵を描く。サナは唇を動かし、二度間違え、三度目に読んだ。
「海辺の町で、薬草屋を継ぐってさ。帰ってこないらしい」
「寂しい?」
「寂しいよ。だから帰れとは書かない」
サナは自分で返事を書く。曲がった字で、『店は私が閉める。お前はそこで店を開け』。
ミアはその紙を急がせず、乾くまで待った。
次に北門の兵へ水路修理の日程を伝える。途中、市場の婆さんがかばんからのぞく赤札を見つけ、甲高い声を上げた。
「まあ、ミアちゃんにもとうとう恋文が」
「これは水路の緊急札!」
否定するほど魚屋とろうそく屋まで寄ってきた。赤札の結び目を見れば公用だと分かるはずなのに、誰も見ようとしない。ミアは三軒分の冷やかしを浴び、俺を婚約者候補から借金取り、最後には遠縁の兄へ降格させて、ようやく市場を抜けた。
「伝令札を恋文にも使うのか」
「町の人は、色のない紙からだって恋を見つけるの」
北門の兵は昨日と勤務が替わっており、ミアが覚えていた受取人ではなかった。彼女は一度引き返し、責任者の署名を取り直す。
「町じゅうを知っていても、毎日変わるんだな」
「あの婆さんのうわさだけは、毎日速くなるけどね」
伝令かばんには、町の誰かが誰かへ宛てた紙片が色別に束ねてある。
「宿屋より配達屋になりたいのか」
「麦穂亭を、どんな種族でも『帰った』って言える宿にしたい。そのためには道がいるでしょう。人の道と、知らせの道」
ミアは掲示板の隅に新しい紙を貼った。文字の読めない旅人用に、麦穂と矢印だけを描いた案内図だ。
「だから、町じゅうの顔と財布を覚えてるのか」
「財布は大事よ。善意だけじゃ冬のまきは買えないもの」
俺が笑うと、彼女も笑った。掲示板の矢印を見上げる顔には、俺の知らない夢があった。それがなぜか、ほっとした。
「日本に妹がいる」
俺は歩きながら、妹のことを話した。
「紬。俺より二つ下。母さんが死んでから、俺が大学を休むことも、家をどうするかも先に全部決めた。あいつのためのつもりだった」
「相談は?」
「事後報告」
「最悪ね」
即答だった。
「反省してる」
「本当に?」
「たぶん」
「紬さんは、何を作りたいの」
ミアの問いに、足が止まった。
「製品デザインを学んでる。地元の工房で奨学実習をしたいと言ってた」
「だから、何を作りたいの」
「……聞いてない」
覚えているのは、工房までの交通費。帰宅時刻。母の入院で残った支払い。給付金が入るまでの三か月。
申込書に描かれていた小さな図を思い出す。太い取っ手のついた糸巻き器。母の指が弱ってから、細い軸を回しにくそうにしていた。
あれを作りたいのかと、一度も聞かなかった。
「危険と費用は全部数えた。あいつが行きたい理由だけ、数えてない」
ミアは慰めなかった。
「帰ったら聞ける?」
「帰る方法も分からない」
「じゃあ、聞きたいことを忘れないで。答えは勝手に作らないで」
彼女は伝令かばんから小さな白紙を一枚出した。
俺は『紬は何を作りたい』と書く。紙を折り、麻服の胸元へ入れた。送れない手紙にもならない。ただ、自分が次に聞くべきことを、今度は消さないための札だった。
道の端で、車輪の外れた玩具を持つ男の子が泣いていた。外れ方が気になり、受け取るより先に車輪を抜く。床板を黙って直して怒られたことを思い出したのは、軸を手のひらへ転がした後だった。
「外して見てもいいか」
男の子は鼻をすすった。
「もう外してる」
俺は軸と車輪をいったん返し、男の子が押しつけ直してくるまで待った。
軸を戻すだけならすぐだった。だが車輪を締めると回らない。男の子が「少しがたがたするほうが速い」と教える。言われたとおり一段緩めると、玩具は石畳を走り、豆売りのかごへ頭から突っ込んだ。
「まっすぐ走るとは言ってない」
男の子は散った豆を拾いながら胸を張った。俺も拾う。ミアは助けず、笑いながら十三粒まで数えた。
「修理代、豆十三粒」
「十二だ」
「一粒、靴の下」
踏んでいた。
ミアは俺の額を指で弾いた。
「妹がいたら、こんな感じか」
口にした途端、彼女の足が止まった。
「……妹役なら、得意よ」
「役?」
「宿屋の娘は、年上の客をお兄ちゃん扱いすると追加の菓子代が取れるの」
「善意だけじゃ冬のまきを買えない、と言ったばかりだろ。妹役でも菓子代を取るのか」
「商売熱心と呼んで」
笑っているのに、目元が濡れていた。
掲示板から戻る途中、北倉に寄った。ミアは責任者の帳面と袋の封を照合し、鼠にかじられた二袋を別へ出す。俺はきしむ滑車を見つけ、返事を聞く前に軸へ木片を打ち込んだ。
空の吊り鉤では遊びが消え、滑らかに回った。ところが麦袋を吊るした途端、軸が膨らんで止まる。もともとの隙間は、重さがかかった時の逃げだった。
「誰が締めた!」
ヨアクが駆けつけ、二人がかりでくさびを抜いた。袋が三つ、予定より遅れて床へ下りる。
「直ったように見えた」
「使う重さを聞いた?」とミア。
「聞いてない」
「昨日は廊下を歩いて、音が消えたから直ったと思った。今日は空の吊り鉤を回して、動いたから直ったと思った。用心したつもりでも、実際の使い方を聞かなかったら同じよ」
抜いた木片を捨てようとすると、ヨアクが修繕箱へ放った。
「それ、次にお前の手を叩く棒にする。荷を吊ってから触れ」
「修理屋だったの?」
「趣味だ。母さんが、壊れても買い替えない人だった」
古い扇風機、音の鳴らない目覚まし、ふたの閉じない炊飯器。母が亡くなった後も、捨てれば記憶までなくなる気がして直し続けた。
「直すか捨てるか、紬には聞いた?」
「……聞いてない」
ミアは「そっか」とだけ言い、かじられた麦を一握り、家畜飼料のかごへ移した。二つ先の袋へ入れるはずが、恋文騒ぎでまだ腹を立てていたらしい。食用のかごへ放り込み、ヨアクに無言で戻された。
「今のは見なかったことに」
「町じゅうへ配達するか?」
「兄役を解雇するわよ」
胸元の『紬は何を作りたい』という紙が、笑った拍子に擦れた。俺は取り出さなかった。
北倉の屋根には消火用の砂のたるが四つ。入口の水おけは満杯。何か起きても備えはある――そのときは、そう思った。
町の鐘が三度鳴る。周囲のハトが一斉に飛び、露店の主人たちが北へ顔を向けた。
「魔獣警報だ!」
「赤角獣の群れ! 北門まで半刻もない!」
俺たちは城壁へ駆けた。石段を上るほど、足裏へ低い振動が届く。
平原の向こうが赤く揺れていた。十、二十と数えるうちに百を超えた角の火が、土煙の中で波打っている。その進路上には、町へ来た日に見た北倉と、荷を運ぶ人々がいた。
灰色の髪を短く切った女の守備隊長が、青ざめながら号令する。
「火矢を並べろ! 倉へ届く前に焼け!」
俺は群れの背後を見た。先頭の獣は何度も後ろを振り返り、小さな個体を内側に押している。傷ついた個体を挟み、全体が崩れない速度へ落としていた。
「待ってくれ。襲撃の隊形じゃない」
「なら、あれは何だ」
ミアが遠眼鏡をのぞき、森の上を指した。黒い煙。町へ来た日にはなかった。
「追われてる」
群れの先には町。横には冬の麦。背後には、何かへの恐怖。
守備隊長が弓兵へ手を上げた。
「門前で止められなければ、北倉ごと焼く」
「止める」
「百頭だぞ」
「だから殺さない。死体の山は、もっと止めにくい」
俺の言葉を聞き、ミアが懐かしいものを見るように笑った。
「やっぱり、そこから考えるのね」
守備隊長は弓兵の手を、まだ下ろさない。
城門のそばにある水時計で、最初の一滴が落ちた。
矢を放つまで、十五分だけ待つと言った。




