第3話 無能力者が魔法を消す
【二周目 Day2・朝】
翌朝、透明板を持って鑑定所へ行く前に、ハンナから二階の廊下に呼び出された。
「夜中に、ここの床を触ったかい」
「鳴る板なら直した。釘が浮いていた」
昨夜、和歌山を考えないために机を直したあと、廊下のきしみも気になった。浮いた釘を戻し、板の下へ薄い木片を入れた。歩いても音はしない。
廊下を見たハンナが、あきれた声を出した。
「そこは、酔った客が断りなく台所へ下りると分かるよう、わざと鳴らしてたんだよ」
「床の故障では?」
「宿の警報さ。おかげでトムルが夜中に干物を二枚つまんでも、誰も気づかなかった」
階下から「一枚だ!」と声が飛んだ。二枚らしい。
ハンナは怒鳴らず、木のさじと糸を俺に渡した。廊下を踏めばさじが鳴る仮の警報を、朝食までに作れという。
「直す前に、使ってる人に聞く。宿の一つ目の決まりだよ」
「修理禁止ではなく?」
「聞けばいい。そこまで手を縛ったら、あんたは夜中に爆発するだろ」
否定できなかった。
木のさじは鳴るようになった。トムルの干物二枚分は、俺の宿代へ加算された。
その後、俺はまきを二十本割った。
宿代の前払いだ、とガルドにおのを渡されたからである。おのの柄は手のどこに力を集めればいいか、妙によく知っていた。十二本目までは小気味よく割れた。十三本目で右腕が止まり、おのが土に刺さる。
「昨日の無茶だね」
ハンナが布越しに腕を押す。筋肉の奥へ熱い針が何本も入った。
「獣とやり合ったのは十秒だ」
「時間じゃないよ。できる動きと、筋肉の腫れ方が合ってないんだ」
布越しに腫れを探っただけで、ハンナは濃い薬草膏を塗り、口を結んだ。
鑑定所の白髪の老人は、透明板を三枚替え、眼鏡も二度替えた。
「名前なし。律文なし。魔力なし」
「板は俺に恨みでも?」
「板に好かれる顔でもあるまい」
初対面にしては遠慮がない。
「でもこの人、赤角獣の火を消したの」
ミアが卓へ身を乗り出す。
「魔力のない者に術は使えん。角が湿っておったのじゃろう」
「木を半分焼いてたわ」
「木の気のせいじゃ」
老人は文句を言いながら、卓上に指ほどの灯具を置いた。
「魔力が見えると言うなら、火をつけてみい」
透明な筒の底に、銀の輪と三つの記号がある。俺は一番火に近い形を指で押した。
何も起きない。
もう一つ押す。青い煙だけが出て、老人の眼鏡を曇らせた。
「火ではなく消臭じゃ」
「臭かったのか」
「おぬしがな」
ミアが笑いをかみ殺す。
三つ目は触らなかった。筒の中に見える文章は、どれも読めない。森で火を消した時だけ、意味だけが頭に入った。
「できないな」
自分で認めると、肩から力が抜けた。何でもできる怪物ではない。その安心と、では森で動いた体は誰のものなのかという気味悪さが、同時に残る。
隣室から、赤毛の少年が顔を出した。
「先生、制御環の最終確認をお願いします。明日の試験で使うので」
「リオ、自分で点検したか」
「三回」
少年は胸を張った。右のそで口に、銀を磨いた黒い汚れがついている。俺と目が合うと、透明板の空白をのぞき込み、すぐ気まずそうに逸らした。
「名前がないって、どう呼ぶんです」
「カナタでいい」
「板に出ないのに?」
「口で呼ぶぶんには困らないらしい」
リオは納得しきれない顔で隣室へ戻った。
隣室で破裂音がした。
扉が内側から外れ、床を滑った。熱風が紙を巻き上げ、鑑定板の一枚が黒くひび割れる。
隣室の中央で、リオが両手の間に膨らむ火球へ飲まれかけていた。火はもう少年の体より大きい。天井の乾いた梁が音を立て、壁際の薬棚から白い煙が上がる。床の銀輪が一か所欠け、術式の光がそこから少年の腕へ逆流していた。
「制御環から離れろ!」
鑑定師がつえを上げる。つえの先から銀色の輪が広がったが、火球へ触れた端から赤く染まった。
「だめじゃ、術者を敵に含んでおる! 外から押さえれば、この子へ戻る!」
リオは恐怖で手を固めているのではなかった。赤い光が指へ巻きつき、制御環から離れられない。
俺には火の中へ細い文章が見えた。
火よ。術者の敵を焼け。
欠けた銀輪が「敵」の範囲を閉じられず、少年自身まで含めている。このまま膨らめば、最初に焼くのはリオだ。その次は、木造の鑑定所ごと燃える。
「カナタ、外側! 右の継ぎ目!」
ミアの声が飛ぶ。俺が見ていた場所と同じだった。
鑑定師の輪を押し返した火が、部屋の入口まで迫る。
俺は火の中へ踏み込んだ。
熱を覚悟したのに、俺が進む幅だけ炎が左右へ分かれた。体が、燃えない細い道を先に知っている。そのことを考えれば止まりそうで、考えなかった。
燃えているはずの火球へ指を差し入れる。皮膚は焼けない。代わりに頭の奥へ、他人の筆で文字を書かれるような嫌な感触が流れた。
「そこか」
敵を指定する一行だけを摘み、切る。
部屋いっぱいの火が、一瞬だけ止まった。
炎の表面に赤い文字の列が浮かび、切った場所から左右へほどけていく。火球は爆発せず、細い帯になって俺とリオの周囲を一周し、割れた銀輪へ吸い戻された。最後の一筋が消えた途端、熱で膨らんだ窓がまとめて外へ開いた。
天井は焼けていない。薬棚も、リオの服も、俺のそでも残っている。少年の前髪だけが先端を少し焦がしていた。
リオが尻餅をつく。俺は二歩下がって壁へ肩をついた。右手の指先から肘まで感覚が薄い。
「立てるか」
リオへ左手を出す。
少年はつかもうとして、俺の右手が垂れたままなのに気づいた。自分で床に手をつき、立つ。
「……すみません」
「俺に?」
「隣室にも。割れたの、知ってた」
声が小さくなる。助かった直後でも、叱られる恐怖は消えないらしい。
老人はつえを下ろし、先に火の残りがないか床、壁、天井を確かめた。それからリオの肩を両手で触り、火傷がないと分かって初めてまゆを吊り上げる。
「礼と説教は、全員の無事を確かめてからじゃ」
「傷は?」
ミアが手を取る。火傷はない。だが小指を曲げろと言われても、わずかに遅れた。
鑑定師は割れた銀輪を調べ、俺の手と何度も見比べた。
「火を消したのではない。暴れておった火から、焼く相手だけを抜いた。わしが十人いても、外から押さえれば火をこの子へ戻すだけじゃった」
「一つだけ?」
「一つだけじゃ。だから誰も焼かなかった。だが別の行を取れば、火球ではなく術者の魔力路を断ったかもしれん。見えても、意味を誤れば人を壊す」
軽く振ったつもりの枝で獣の首を折りかけたことを思い出す。強い、という言葉より先に、怖いと思った。
「今のは、本当に魔法なのか」
尋ねた直後、自分でも何を確認したいのか分からなくなった。二つの月も、獣の火も見た。それでも誰かに「違う」と言ってほしかったらしい。
鑑定師が焼け残った床をつえでたたく。
「ほかに何に見える」
俺は答えを探して焼けた床を見た。
「昨日まで、魔法は作り話だった」
鑑定師は焦げ跡をつえの先で押す。
「昨日までの話は、わしには分からん」
正しい返事だった。だから腹が立った。
「俺だって分からない。起きたら森で、知らない体が勝手に戦えて、今度は火の中へ手を入れた。全員、説明より先に次の予定を決めるな」
最後は鑑定師ではなく、ミアへ向いていた。
部屋が静かになる。リオが焦げた前髪を握ったまま、俺とミアを交互に見た。言ってから、助けた少年の前でする話ではなかったと気づく。十九歳にもなって、止める順番まで遅い。
「……悪い。今のは、誰に怒ってるのか自分でも分からない」
ミアは慰めなかった。ただ俺の右手から半歩離れ、触れずに見られる位置へ座った。
黙っていると、今度は考えが和歌山へ戻る。耐えきれず、俺は焼け残った銀輪を見た。
「もう一度、同じ火を出せるか」
「馬鹿を言うな」
鑑定師はリオを背中に隠した。
「試すなら、まず三十秒を越えて使うな。おぬしの筋は、その動きをした年月を持っておらん」
俺の右手の甲に細い光が浮かんだ。一本、二本。六本の糸が、別々の方角へ伸びてすぐ消える。
ミアは胸元を押さえていた。指の隙間から、同じ色が一瞬漏れた。
さっき彼女は、俺より先に炎の継ぎ目を指した。初めて見る力に驚いた声ではない。知っているやり方が、もう一度できるか確かめる声だった。
助けられた安心より先に、知らない誰かの答え合わせをさせられたような腹立たしさが残った。
「あれは何だ」
「知らない」
「俺の名を知っていた。はちみつを避けることも、炎の継ぎ目も知っていた」
「最後のは床の銀輪を見たの。欠けてたでしょう」
振り返ると、確かに右側だけ焦げ、金属片が三つ飛んでいた。炎の継ぎ目を読めた理由は分かった。だが、俺の名と、俺がはちみつを避けることを知っていた理由は残った。
「好物は?」
「焦がし玉ねぎ。昨日、当てたでしょう」
「俺が食べる前に言った」
「宿屋なら客の顔を見るの」
「食べる前の顔だけで、好物まで分かるのか」
「……あなた、細かいわね」
リオが堪えきれず笑った。
「笑う前に、制御環を直す」
俺は床へ散った銀片を拾った。三片の割れ方を合わせると、一つだけ縁が古く黒ずんでいる。ひびは今日より前のものだ。
「昨日、掃除のときに気づいてた。でも先生に言えば練習を止められると思って」
リオがうつむく。
「失敗を隠して続けると、自分だけじゃなく隣室まで燃やす。俺も覚えておく」
「兄ちゃんも隠してることがあるの?」
「隠してることが何か分からない、という面倒な状態だ」
鑑定師はかけらをろうで仮留めし、リオ自身に交換記録を書かせた。リオは最初、『本日破損』と書いた。老人は紙を破らず、その前へ『昨日発見、本日申告』と追記させる。
「隠した時間も道具の履歴じゃ。消せば、次の者が同じ床で燃える」
練習禁止の罰は科さず、壊れた道具を最後まで直させる。その手つきを見て、俺は日本で壊れた炊飯器や時計を分解した感覚を思い出した。
作業が終わる頃には、右手で水杯を持てなくなっていた。
左手へ替えようとして、杯を机の縁から落とす。リオが両手で受け止めた。さっきまで助けられていた少年が、今度は俺に水を差し出す。
「火を消せるのに、杯は落とすんですね」
「得意分野の配分がおかしい」
「俺も、火球は大きくできるのに、ひび一つ言えなかった」
リオは焦げた前髪を触る。
「明日の試験は受けません。先生と環を直してから、自分で次の日を決めます」
老人は聞こえないふりをしていたが、交換用の銀輪を二枚、棚から出した。
できないことが判明して終わるのではない。次に試す日を、自分で置き直せる。
「銀輪の留め金、左右で高さが違う」
指摘すると、老人が目を細める。木片を一枚かませて高さをそろえると、輪はがたつかなくなった。
「術はなくても、道具を見る目はあるらしい」
何者でもない、という鑑定の中に、初めて自分で確かめられるものが一つ増えた。
鑑定師は新しい板に、俺の血を一滴落とした。年齢と種族は出る。名前を置く場所だけ、文字が滑って空白へ落ちた。
「占いも契約も、まず名を世界の中から探す。何者でもない者は指定できん。便利なこともあろうが――」
老人は窓を閉め、声を低くした。
「家も権利も墓も、名がなければ残せん。世界からすれば、おぬしは存在しないのと同じじゃ」
ミアの指が俺のそでをつかんだ。
その反応だけで分かった。
ミアは今の話を、前にも聞いている。




