第2話 好物を当てる宿屋
【二周目 Day1・午後――夜】
「おかえり、とは?」
森を抜けるまでに三度尋ねた。
「言葉のあや」
「初対面の相手に使う言葉か」
「うちの宿は、帰ってきたみたいに安心できるって評判なの」
「まだ着いてもいない」
「細かい男は皿洗いで嫌われるわよ」
ミアは先へ行った。耳まで赤い。
石壁に囲まれたベルンは、夕食の匂いに満ちていた。荷車の車輪が石畳を鳴らし、魚のような耳をした女が干物を売り、すすけた煙突の向こうに二つの月が昇りかけている。異世界、という馬鹿げた単語が、ほかのどんな説明よりましに思えた。
北門から石畳の大通りが、町の中央に立つ鐘塔まで伸びている。鐘塔の足元が市場で、その先は緩い坂になって南門へ続く。左右の路地には共同浴場の湯気と鍛冶場の煙が上がり、門の横にある大倉庫には荷車が列を作っていた。麦穂を描いた宿の看板は、大通りの中ほどで風に揺れている。城壁の中に仕事と食事と寝床を詰め込んだ、小さな町だった。
そう考えた自分に腹が立ち、門の内側で足を止めた。
「駅はどこだ」
「えき?」
「役所でも警察でもいい。人が突然ここへ来た記録を調べる場所。召喚した人間がいるなら、そいつでも」
ミアは、知らない単語が増えるたび困った顔になった。俺は二つの月を見ないよう、石畳へ目を落とす。
「何も分からないまま宿へ行って、飯を食って、ここで暮らし始めるつもりはない」
「うん」
言い返されると思っていた。ミアは伝令かばんから紙を出す。
「役所は明日の朝に開く。でも異邦人の記録は、まず鑑定所で名前を調べないと探せない。召喚って言葉は、私も聞いてみる。今夜は、帰る方法を探すために宿へ来て」
手際がよすぎて、また疑いたくなる。それでも、森へ戻って土を掘り続けるよりはましだった。
さっき見た大きなレンガ倉庫には、荷札のついた麦袋が次々に運び込まれていた。
「ずいぶん貯めるんだな」
「北倉は町の冬越し用。雪の季節は街道が二月も閉じるから、麦と乾燥豆を今日から数えるの」
ミアは荷札を見ただけで、足りない袋を二つ言い当てた。門番が帳面を確認して舌を巻く。宿屋の娘というより、町じゅうの財布を把握しているようだ。
麦の穂を描いた看板の下で、ミアが両開きの扉を押した。
「ただいま!」
鍋のふたが鳴り、台所からふくよかな女性が現れた。俺を見た瞬間、木べらが床へ落ちる。
「カナ――」
「森で拾った旅人のカナタ!」
ミアの声がかぶった。
女性は一度だけ目を伏せ、木べらを拾った。エプロンで両手を何度もふいてから、俺の手を包む。
「ハンナだよ。寒かったろう。まず座りな」
「なぜ空腹より先に寒さを?」
「指先が白い。見りゃ分かるさ」
湯を入れた陶器を抱かされる。手のしびれが、遅れて痛みに変わった。
知らない家で、知らない人から湯を渡されている。陶器を落とさないことだけに集中しないと、ここが現実だと認めるほうへ考えが進みそうだった。
奥から熊のような男が出てきた。太い腕に古い火傷。俺を見るなり、まゆ間のしわが深くなる。
「……幽霊じゃねえな」
「父さん」
「顔色の話だ。死にかけみてえな面してやがる」
ガルドと名乗った男の手は、鉄やすりのように硬かった。握手が終わらない。
「親父、痛い」
口から出た呼び名に、自分で固まった。
ガルドの指も震えた。
「誰が親父だ。俺にはミアみてえな出来の悪い娘しかいねえ」
「聞き捨てならないんだけど」
三人が笑う。どれも少しだけ泣き声に似ていた。
その空気を壊したのは、玄関から入ってきた水だった。
「ハンナ! 床を借りるぞ!」
濡れた網を肩に巻いた男が、長靴のまま食堂へ踏み込む。魚のひれに似た耳からもしずくが落ちていた。
「トムル、床は貸すもんじゃないよ。外で泥を落としな」
「腹が落ちるほうが先だ」
「なら自分でふきな」
ハンナは布と湯を同時に投げた。男は布だけ受け、湯は俺が反射的に取る。
「新しい奉公人か」
「森で拾った怪しい旅人」とミア。
「拾ったなら首輪に名札をつけとけ。去年、お前が拾った犬は俺の干物を全部食った」
「カナタは干物を食べても代金を働かせるから大丈夫」
「まだ食べてない」
俺はトムルの卓へ湯を置こうとした。手が一番奥の席だけを避ける。理由を考えた瞬間、足元の床板が鳴った。
驚いて陶器を傾け、湯を自分のそでへ半分かける。
「熱っ」
トムルが大声で笑った。
「客にかけないところだけは見込みがある!」
「初日に求める水準が低い」
ミアは布を持ってきたが、ふいてはくれなかった。俺の左手に渡し、右腕を見た。
「森で痛めたほう、動かさないで」
「どちらを痛めたか話したか」
「今、湯を受けた時に遅れたでしょう」
説明は通る。
トムルは濡れた上着を窓際の釘に掛けようとし、ハンナに叩き落とされた。
「そこは乾いた客用。漁師は炉の横」
「昨日までは窓だった」
「今日から変えた」
宿には、昨日と同じ決まりばかりではないらしい。俺の手が昔の置き場所を知っているように動いても、今日の正解とは限らない。
そのことに少しだけ安心した。
食堂の窓際に座ると、ハンナはおわんを四つ並べた。
自分とガルドとミア。それから、空いていた俺の前。
数を間違えたような顔で四つ目へ手を伸ばし、途中で止める。結局、引っ込めずに豆と鶏肉のシチューをよそった。俺の皿だけ、焦がした玉ねぎがひとさじ多い。
「焦がし玉ねぎ、好きでしょう」
ミアが言った。
「まだ一口も食べてない」
「匂いをかいだ時の顔で分かるわ」
試しに口へ入れる。表面の脂と鶏肉の塩気に、焦げる寸前まで焼いた玉ねぎの甘さが混じった。初めて食べたはずなのに、もう一口欲しくなる。
「……好きだな」
ミアは喜ぶより先に、しまったという顔をした。
理由を尋ねる前に、俺は卓のはちみつのつぼを避けている自分に気づいた。
「はちみつは入れないのか」
「今日は切らしててね」
ハンナが即答する。台所の棚には、つぼが三つある。隣の卓の皿からは甘い香りがした。
俺は何も言わず口へ運んだ。塩気のある湯気が鼻へ抜ける。懐かしいはずがないのに、張っていた腹の奥がほどけた。
「うまい」
三人が同時に息を吐いた。
その後、ハンナに浴室へ追い込まれた。石造りの小部屋には湯を張った木のおけと、かんきつの皮を煮た洗い水がある。脱いだ麻服は森の泥と自分の血で固まっていた。
扉の外からガルドが替えの服を投げ込む。
「丈は合うはずだ」
「なぜ?」
「若い男は大体同じだ」
そでも肩も、不自然なほど合った。右のそで口だけ二度縫い直してあり、俺が手を洗うときに折る幅と同じ位置で癖がついている。急ごしらえの新品には見えない。
湯に腕を沈めると、森で使った筋肉が焼けるように痛んだ。強い動きができても、今の体は代金をあとから請求してくるらしい。おけの縁には、誰かが刃物で刻んだ小さな線が六本あった。部屋の木箱と同じ数だ。
「ミア。この宿、何でも六つずつ傷をつける習慣が?」
扉の向こうで洗濯物を畳む音が止まった。
「虫除けのおまじない」
「風呂おけにも?」
「湯虫が出るの」
「見たくない生き物だな」
彼女は扉越しに笑った。うそを見抜いても、まだはがさない。傷の数だけは覚えておく。
食後、空いた皿を台所へ運ぶと、ミアに止められた。
「右の棚。欠けた皿は下」
「まだ何も聞いてない」
「置き場所を探す顔だった」
俺が右に置くと、皿は寸分違わず収まった。前から手順を知っていたような自分の手が気味悪い。
次の皿も同じ棚へ入れようとすると、今度は縁が引っかかった。
「それは昨日買った新しい皿。左」
ミアが言う。
「知らないものもあるんだな」
「当たり前でしょう」
胸を張った彼女の顔に、ほんの少し安堵があった。
「部屋は二階の奥だ」
ガルドが真ちゅうの鍵を置いた。
「一番広い部屋じゃないか」
「雨漏りする」
「天井は乾いてる」
「昨日直した」
「俺が来るまで、この部屋はずっと空室だ」
ミアが宿帳を閉じた。全員、うそが下手だった。
部屋には新しい水差しと、使い込まれた木箱があった。箱の角だけ、何度も指でなでたように丸い。開けると空だったが、底に細い傷が六本刻まれている。
「俺は別の世界から来たと思う。帰る方法を探す」
夕食の残りを運んできたミアの足が止まる。
「帰るの」
「帰らなければならない人がいる。何も言わず消えたままにはできない」
ミアは皿を置き、いつもの調子を作った。
「なら、見つかるまで働いて。食費は一日銅貨三枚、部屋代は五枚。壊した窓は別料金」
「窓は壊してない」
「先払いで積み立てるの」
階下からハンナが笑った。
机に薄い透明板を置き、ミアは使い方だけ説明した。名前、年齢、種族、律文を調べる鑑定具らしい。
「名前が出たら、質問に一つ答えてくれ」
「何を聞くの」
「それを先に言ったら、逃げ道を作るだろ」
ミアは板ではなく、俺の顔を見た。
「……名前が、残ったらね」
「明日、鑑定所でも見てもらう。今夜は寝て」
「善処する」
「寝ない人の返事ね」
扉が閉まった。
宿へ来てから初めて、本当に一人になった。
靴を脱ぎ、寝台へ入る。粗い毛布をあごまで上げ、頭を枕につけるまで、自分を森で拾われた事件の調査員にしていられた。
借りた部屋なのに、枕の高さが合った。寝返りを打てば右手が落ちる側にだけ、寝台の縁が丸く削れている。俺の寸法で誰かが長く暮らした後へ、事情を知らない俺だけが入れられたようだった。昼には手掛かりだった一致が、夜になると居場所を先に使われた気味悪さへ変わる。
階下の鍋、常連客の笑い、ガルドのつち。昼の音が一つずつ遠のく。静かになった途端、森でも食堂でも追いつけなかった和歌山が戻ってきた。
昨日は母の四十九日だった。
翌日の午後五時十二分。雨の横断歩道へ出る前、止まったままの足踏みミシンを分解した。母が弱った指でも使っていた古い機械だ。革帯のひびを継ぎ、軸に油を差した。持ち主はもう踏まないのに、動けば失っていないことにできる気がした。
指に残った機械油の匂い。紬から来た連絡。
――工房の申込書、どこへやったの。進路のこと、一人で決めないで。
妹は十七歳だ。俺は危険と費用を先に数え、申込書を母の書類箱へ移した。守るためだと思っていた。返事を書けないまま、ここへ来た。
帰りたい、では足りなかった。和歌山へ帰る。紬に謝り、今度こそ最後まで話を聞く。
けれど、帰還方法は分からない。森を逆へ歩いても横断歩道はない。財布も携帯もなく、この世界の地図さえ読めない。一方でミアたちは、俺の名、食べ方、服の寸法まで知っているらしい。俺がここへ来た理由か、帰る手掛かりを持っている可能性がある。
だから、まずベルンに留まる。
鑑定所で自分を調べる。町とミアたちから情報を集める。食費と部屋代を働いて返し、動ける足場を作る。留まるのは帰還を諦めることではない。帰る道が見えない今、最初に打てるくいだった。
そう決めても、胸の奥は軽くならなかった。
考えるのを止めるため、机の引き出しに手をかけた。閉めるたび右だけ半寸浮く。底板が湿気で反り、留め木が摩耗している。木箱の隅にあった薄い木片を削り、勝手にかませる。二度引いて、遊びが消えたことを確かめた。
直せるものへ逃げた自覚はあった。
透明板に触れると、青白い文字が浮かんだ。
どの欄も一度は「天城カナタ」を示した。次の瞬間、濡れた紙の墨のように名だけが消える。
扉の外で、まだ立ち去っていなかったミアが息を飲んだ。
消えた文字を追うように透明板を指で擦る。青い光は戻らず、爪先だけが白くなった。
透明板の上には、年齢十九、種族・人間と残っていた。
ただ名前と律文だけが、最初から世界になかったように空白だった。
答えるはずだった質問ごと、ミアは扉の向こうで黙っていた。




