第1話 泣いている初対面
【二周目 Day1・昼】
少女は、初対面の俺を見て、失ったものがあり得ない形で戻ったように泣いた。
その涙の理由を考える余裕はなかった。少女の背後で、濡れた落葉が盛り上がったからだ。
「伏せろ!」
俺は栗色の髪を抱き込んで斜面へ転がった。土の冷たさが麻の服を抜け、肩甲骨を石が殴る。直前まで少女の頭があった場所を、赤熱した角がないだ。こけのついた樹が半ばから焦げ折れる。
猪に似た獣だった。ただし軽自動車ほど大きく、鼻から火の粉を吐いている。左角の付け根に縦の割れ。右前脚だけ土の沈みが浅い。壊れたものを見た時と同じ順番で、目がひとりでに負荷の逃げ場を拾った。
俺は少女の肩を支えたまま聞いた。
「走れるか」
「う、うん。でも、あなた……」
「話はあとだ」
最後に覚えているのは、雨の横断歩道だ。青に変わる信号。指に残っていた機械油の匂い。昨日、母の四十九日を終えた。十七歳の妹へ返していない言葉が一つある。
そこから先がない。
見知らぬ森。月は白昼なのに二つ。制服でも寝間着でもない粗い服。夢と決めるには、口の中の血も、獣の焦げた毛の臭いも具体的すぎた。
帰らなければならない。
謝る言葉の続きを思い出しかけ、今は切った。赤熱した角がもう一度土をかいている。帰るためにも、まずここで死なない。
足元の枝を拾う。雨を吸った、先の曲がった枝だった。少女が息を飲んだ。
「だめ! 赤角獣の火は鉄の盾だって焼くの」
「助かる」
「お礼を言ってる場合じゃないでしょ!」
獣が前脚で土をかいた。右のひづめがわずかに沈む。なら踏み切りは左、角は俺の右わきから入る。
考え終えるより早く、体が半歩ずれた。
赤い角が白く燃え、獣の前方へ火が噴き出した。炎は俺の背丈を越え、濡れた地面から一斉に蒸気が立つ。三歩後ろの少女が腕で顔をかばった。逃げ道だった細い獣道まで、赤くふさがれる。
その炎の中に、一本だけ黒い継ぎ目が見えた。
火を起こす場所。広げる向き。焼く相手。幾つもの意味が重なった中で、そこだけが獣の角と炎をつないでいる。
俺は燃えているはずの場所へ踏み込み、角の根元に枝を添えた。剣を振るのではない。文章の間違いに横線を引くように、その継ぎ目だけをなぞる。
ごうごうという音が、途中で切れた。
頭上まで膨らんでいた炎が、風に消されるのではなく、一枚の布を引き抜かれたように崩れる。赤い光が無数の火の粉へ割れ、俺の肩を避けて地面へ落ちた。火の粉は落葉を焦がす前に暗くなった。
残ったのは、先端さえ燃えていない枝と、急に戻った森の薄暗さだけだった。
「……え?」
少女だけでなく、俺も同じ声を出しかけた。
だが、火が消えても軽自動車ほどの巨体は止まらない。
俺は角を肩で受け流し、流れた勢いの下へ枝を差し込んだ。湿った土が円く沈み、獣の前脚が二本ともひざをつく。首筋へ枝を置いた瞬間、この角度、この体重なら、あと指一本押せば首の骨を断てると分かった。
やったことなどないのに、体だけが知っていた。
獣の腹はあばら骨が数えられるほど痩せていた。後ろ脚には鉄わなの傷。そこに墨で書いたような細い線が食い込んでいる。
「殺さないの?」
少女の声は、驚いているというより確かめるようだった。
「腹を空かせて、何かから逃げてる。今ここで殺す理由にはならない」
少女の唇が動く。
「戦い方だけじゃない。そこまで……」
「何と同じなんだ」
彼女は首を横に振った。
俺は獣へ向き直る。
「森へ帰れ」
枝を離すと、赤角獣は倒れかけた。俺たちを見もせず、北を恐れるように振り返る。それから足を引きずって木々へ消えた。
追おうとして、一歩目で転んだ。
さっきまで獣の突進を読んでいた脚が、濡れた根一本に負けた。手のひらを泥へつく。右の太ももが細かくけいれんし、肺は遅れて恐怖を思い出したように息を拒んだ。
「待って。立たないで」
少女が俺の肩へ手を伸ばし、触れる直前で止める。
「……腕を引かれるの、嫌いだったよね」
「だった?」
「嫌いそうな顔って意味!」
言い直しが速すぎた。
彼女は手を引っ込め、代わりに平たい石を俺の足元に置いた。自分で体を起こすための段差。立つか休むかを、こちらに残す置き方だった。
俺は石を使わず立とうとし、もう一度ひざをついた。
「使って」
「……借りる」
二度目は石に左手を置いた。立てたことより、最初の意地が見抜かれたことのほうが痛かった。
静けさが戻った途端、ひざが笑った。右腕には、長距離を全力で泳いだ後のような重さがある。枝を握っていたのは十秒ほどだ。なのに指がうまく開かない。
「なんなんだ、今の」
「やっぱり……」
背後の声に振り向く。
少女は十六歳くらいだった。泥だらけの短靴は、右のひもが赤、左が青だった。擦り切れた伝令かばんを下げ、栗色の髪を乱している。大きな緑の目から、涙が止めどなく落ちていた。
伝令かばんの左留め具は一度折れ、針金で仮留めされていた。腕ひももあと数日で切れる。泣いている理由より先に、そんな場所を数えている自分が嫌になった。
「カナタ」
心臓が一度、強く打った。
「どうして俺の名前を」
「い、今、あなたが言ったから」
「言ってない」
「言ったわよ。すごく小さく」
「獣に名乗る趣味はない」
うそが下手だった。少女は濡れたそでで目元を乱暴にこすり、泥の筋を増やした。
「私はミア。ミア・ベルン。町の宿で働いてる。あなた、森のどこから来たの?」
答えようとして、何も持っていないことに気づく。財布もスマートフォンも、返すはずだった言葉もない。
「日本だ。少なくとも、さっきまでは」
「ニホン……」
ミアは知らない地名を確かめるように繰り返した。だが驚きは薄かった。そのことを尋ねる前に、俺の腹が大きく鳴る。
彼女は泣き顔のまま吹き出した。
「笑うところか」
「ごめん。前も――」
ミアは言葉を切り、伝令かばんへ両手を入れた。麦パン、乾燥リンゴ、薬草、赤と青の札。中身を全部出した末に、最初に触れていた麦パンへ戻る。
「固いけど、食べる?」
「食べる」
「水を先に。のどへ詰まるから」
初対面の旅人にする注意にしては、順番まで迷いがなかった。
水筒を受け取り、言われたとおり一口飲む。パンは本当に固く、前歯でかんだ瞬間、ミアが少しだけ安心した顔をした。
俺がどう食べるかまで、答え合わせをしているようだった。
パンを食べながら、俺は折れた樹へ戻った。角が触れた焦げ目から、樹皮の内側へ細い線が走っている。文字に見えたが、指で触れると炭のように崩れた。
「赤角獣は、いつも人を襲うのか」
「森の奥にいる獣よ。子育ての時期でも、町の道までは来ない」
「なら、あれは普通じゃない」
ミアは獣が消えた北を見た。涙をそででぬぐい終えるより先に伝令かばんから紙片を出し、時刻と場所、脚の傷を書きつける。恐怖を仕事に変える手が速かった。
「町に知らせる。ほかにも下りてくるかもしれないから」
「俺のことは?」
「森で道に迷った旅人。変な枝術を使う」
「枝術という分類があるのか」
「今できた」
「町へ行く前に、俺が倒れていた場所へ戻りたい」
ミアは俺の足元を見た。
「ここよ。私が見つけた時、あなたはその木の根元にいた」
俺はしゃがみ込み、落葉をどけた。ぬかるんだ土。折れた草。自分の背中の形にくぼんだ地面。それだけだった。
スマートフォン。財布。横断歩道の白線。アスファルトの欠片。帰る方向を示すものなら何でもよかった。感覚の鈍い右手まで使って土を掘り、爪の間を黒くした。
「何を探してるの」
「帰り道だ」
「カナタ」
「俺の名前を知ってるなら、帰し方も知ってるんじゃないのか」
声が思ったより強くなった。ミアの肩が揺れる。助けてもらった相手へぶつける言葉ではないと分かっても、すぐには引っ込められなかった。
「……今すぐ帰す方法は、知らない」
「そこだけは、迷わず言うんだな」
嫌な言い方だった。謝ればいいのに、口が動かない。ミアも「ごめん」とは言わなかった。
俺は黒い炭のかけらを葉で包んだ。少女が俺を知っている謎より、獣を森から追い出した理由のほうが、今は人の命に近い。
歩き出すと、右腿にも遅れて痛みが出た。ミアは何も言わず速度を落とし、平らな道を選んだ。助けると言わず、助けられていると意識させないやり方まで、俺の性格を知っているようだった。
十歩目で右ひざが抜けた。
ミアは腕を取ろうとして、途中で止める。
「肩、貸していい?」
「歩ける」
「歩けるかじゃなく、借りるか聞いたの」
断れば先へ行ける速さではなかった。左肩だけを借りる。彼女は俺の体重を全部持とうとせず、足を置く間だけ合わせた。
「前も、こうしたのか」
ミアの歩幅が一度乱れた。
「今日は初対面」
うそではない言い方だった。俺も、それ以上は聞かなかった。
支えられた十五歩目で、自分から肩を離す。右腿の痛みは残ったが、次に崩れる前の感覚だけは覚えた。
最初の分かれ道で、俺は明るい右を選んだ。
「町は左」
「川の音は右からする。町は水の近くにできる」
「右の音は崖下。行ったら町より先に滝に着くわ」
葉の隙間から二つの月が見えた。片方は昼の空に薄く残り、もう片方は地平近くで青い。川がどちらへ流れるかも、鳥の鳴く方角も、日本で知っていた規則と同じとは限らない。
戦い方だけ知っていて、帰る道一つ分からない。
それが急に怖くなった。
「左で頼む」
ミアは勝った顔をせず、先に左へ入った。十歩進んだところで水筒を後ろ手に差し出す。
「口はつけてないから」
「そこは気にしない」
「前は――若い男の人は気にするかと思って」
また、前という音だけが落ちた。
「そこは変わらないんだ」
「何が?」
「若い男の人って、危ない目に遭ってもお腹は空くのね」
また言い直した。俺は追及しなかった。追及すれば、今度は笑顔まで壊れそうだった。
ミアはかばんから固い麦パンを出し、半分に割った。大きいほうを俺に寄越す。表面には彼女の指の温度が少しだけ残っていた。
「近くにベルンって町があるの。怪しい旅人を無料で泊める宿も」
「怪しいのに泊めるのか」
「あとで皿洗いさせれば損しないから」
差し出された右手は震えていた。
「天城カナタ」
改めて名乗ると、ミアは目を閉じた。ずっと待っていた音を、ようやく耳にできたような顔だった。
「初めまして、カナタ」
握った手に、痛いほど力がこもる。
「……おかえりなさい」




