第16話 前より弱くなった
【二周目 Day7・夜】
裏庭の布包みに俺の名を見つけたあと、ミアは俺を二階へ押し戻した。
二日前、誰も斬らずに二十人を救ってから、俺はまだ自分の剣を持てなかった。
右手の指が、柄の形を忘れたように開かない。
麦穂亭の二階で、ミアが湯を張ったおけを足元へ押した。
「手を入れて」
「火傷ではない」
「知ってる。温度が分かるか確かめるの」
左手を先に入れる。熱い。
右手は、水に触れたことだけが遅れて来た。
「ぬるい」
「左は?」
「熱い」
ミアは何も言わず、水差しから冷たい水を足した。量を測る手が一度だけ滑る。
「怖いか」
「その聞き方、嫌い」
「知ってる」
「知ってるなら聞き直して」
何が正しいか考えている間に、階下で椅子を引く音がした。
宿の客は全員、共同浴場へ移ったはずだ。
ミアが灯りを消す。
二人で廊下へ出る。食堂は暗く、炉の残り火だけが卓の脚を赤くしていた。
椅子が一脚、中央へ引かれている。
誰も座っていない。
卓の上には、昼の配給札が一枚あった。使い終わった札で、片面に麦二杯、もう片面に受取人の名を書く。今は裏返しになっている。
黒い文字が、紙の裏からにじんだ。
『二十八秒』
救出にかかった時間だった。
俺は台所二号へ左手を伸ばす。ミアがさやを押さえた。
「今の手で抜くの?」
「文字だけ読む」
「剣を抜く人は皆そう言う」
黒い数字の下へ、新しい一文が増えた。
『前より遅い』
ミアの爪がさやを鳴らす。
「誰だ」
返事は紙からではなかった。
空の椅子が、わずかにきしんだ。
『前より慎重になった』
男の声が、耳を通らず頭の内側へ直接触れた。
低くも高くもない。怒っていない。俺を責めるより、記録された二十八秒を確かめている声だった。
『弱くなった、とも言える』
「前の俺を知っているのか」
ミアが俺のそでを引いた。
「答えを渡さないで」
『彼女は、前の君なら二十秒で終えたと知っている』
「黙れ」
ミアの声だった。
黒い文字は一度止まった。
笑った気配がした。
『今の君は、止められるのですね』
何を。
敵を斬る手か。質問か。ミアの言葉か。
「二十秒なら、誰かが怪我をしたか」
『しました』
即答だった。
「死んだか」
『君は救出に成功しました』と男の声。
「聞いたことに答えろ」
『成功の定義を狭くするのは、今の君の悪い癖です』と男の声が返した。
正しい答えを一つも渡さず、事実らしい形だけを置く。
それでも、胸の奥に小さな安堵が生まれた。
前の俺は失敗した。
二十秒で誰かを傷つけた。
俺は二十八秒で全員を生かした。
勝った。
そう思った瞬間、右手の感覚より先に吐き気が来た。
知らない男の失敗を、俺は喜んだ。その男を失って泣いた少女が、隣にいるのに。
『嬉しいでしょう』
「違う」
『何が』
答えられない。
ミアは俺を見なかった。配給札だけを見ている。
「前の兄さんは、速かった」
自分から言った。
「速くて、後から謝った。謝れば戻ると思ってた。戻らないものもあった」
「それでも会いたいか」
ミアの顔が上がる。
黒い文字が増えるより先に、問いが口から出ていた。
「今、それを聞くの?」
「事実確認だ」
「うそ」
ミアは椅子を蹴った。
空の椅子が倒れ、配給札が床へ舞う。
「勝ったって言ってほしい顔してる」
「言ってない」
「顔が言った」
「俺の顔を知りすぎだ」
「知ってるのは悪いこと?」
今度は胸に亀裂が出なかった。
答えられる現在の質問だからだ。
それなのに、俺は言葉を選べなかった。
知っていてほしい。知らない男と同じに扱ってほしくない。俺だけを見てほしい。
全部言えば、ひどく幼く聞こえる。
「便利だ」
最悪の一語だけが出た。
ミアは怒鳴らなかった。
「そう」
倒れた椅子を起こし、俺ではなく壁際へ戻した。
黒い声が、また笑った。
『前の君は、もう少し分かりやすかった』
俺は左手で剣を抜いた。
配給札を斬らない。椅子も床も傷つけない。
文字がどこへつながっているかを見る。
黒い線は紙から卓へ、卓から床板へ、床板から宿の基礎へ潜っていた。さらに裏庭の方角へ伸びている。
「あれを追ってる」
ミアがつぶやいた。
「何を」
「言えない」
黒い線が一瞬だけ太くなる。
『言えないのではありません。言えば失う。彼女はいつも、失わないほうを選ぶ』と正体の分からない男の声。
「お前は何を失った」
初めて、声が止まった。
炉の残り火が弾ける。
焦げた豆の匂いがした。今夜の鍋に豆は入っていない。
椅子の向こうで、誰かが立ち上がる気配がする。右ひざを一度、手で押すような衣擦れ。
続いて、薄い紙を二つに折り、胸元へしまうような音がした。
そこには誰もいない。
『質問が上手になった』
声が遠ざかる。
『やはり、少し弱くなった』
配給札の文字が裏へ沈んだ。
紙はただの紙へ戻る。
外で重い物を引きずる音がした。
裏口を開けると、ガルドがかじ場から布包みを運んでいる。子供一人分ほどの長さ。石の角だけが布を押し上げていた。
ミアが先に庭へ出た。
「家の下に置いたままのほうがいい」
「黒いのが床をかいでる」
「庭なら見つかる」
「家ごと焼かれるよりましだ」
「私に言わず決めた」
「今、言った」
「運んだ後でしょ!」
二人とも、俺が戸口にいることへ気づいた。
ガルドは布包みを背で隠そうとした。隠れる大きさではない。
「古いかじ道具だ」
「そのうそはミアから聞いた」
ミアがガルドをにらむ。ガルドは俺をにらみ返した。責任の押しつけ先が決まらない顔だった。
「今夜は聞くな」
「聞いたら、また忘れるのか」
ガルドののどが動く。
「分からん」
分からない、と言った。
俺は左手の剣をさやへ戻した。
「なら、今夜は聞かない」
ガルドの肩が落ちる。
「明日は見る」
「聞き分けのいいふりをするな」
「ふりじゃない。土は掘れる」
ミアが額を押さえた。
ガルドは布包みを裏庭へ運ぶ。くわを入れる場所を決めるまで、ミアと三度けんかした。一度目は台所の窓から見える。二度目は雨どいに近い。三度目は春の豆畑を潰す。
結局、どこからも少しだけ見える場所に穴を掘った。
隠したい人間と、見つけてほしい人間が同じ穴を決めたようだった。
布包みを下ろす時、ガルドは右側だけを自分で持った。左へ回ろうとしたミアを追い払い、石の角が土へ当たる寸前に目を閉じる。
「欠けた?」
「見りゃ分かる」
「暗いから見えない」
「なら朝見ろ」
二人とも、朝まで俺に見せないつもりだったことを忘れたらしい。
穴の深さでももめた。ガルドは雨で浮かない深さ、ミアは一人で掘り返せる深さを主張する。なぜ掘り返すのかと聞くと、ミアは「豆を植えるから」と答えた。石の上に植える豆はない。
最後まで、どちらも譲らなかった。
ミアが吹き出し、すぐ黙った。ガルドは怒鳴る代わりにくわを持ち直す。笑っていい夜かどうかも、二人には決められなかった。
俺は二階へ戻る。
右手を湯へ入れると、今度は熱さが少し分かった。
紙片を一枚取り、左手で書く。
『前の俺は二十秒。誰かが傷ついた』
その下へ、『俺は二十八秒。全員生存』と書きかけた。
勝敗表に見えた。
二行目だけ破り、炉へ入れる。
一行目は捨てられなかった。
裏庭で、石に土が当たる音が夜明け前まで続いた。




