第15話 泊める理由
【二周目 Day5・夜――Day7・夜】
会議が終わっても、寝床は出来上がらなかった。
使われていない共同浴場には、湯船と石床しかない。大人二十人と子供を横にするには、湿気を抜き、わらを敷き、衝立を立てる必要がある。
「そのはりは持つな」
俺が浴場の入口で丸太に左手を掛けると、ガルドに後頭部を叩かれた。
「右腕は動かないだけで、骨は折れてない」
「動かねえ腕をぶら下げて足場へ上がる奴を、世間じゃ役立たずって呼ぶんだ」
「ずいぶん範囲が狭い世間だな」
「俺の工房から半径五歩だ」
腕力で数えれば、俺は戦力外だった。
代わりに巻尺を押しつけられた。石床の幅を測り、モリスが運んできた縄を同じ長さへ切る。片手で結び目を作ろうとして二度ほどき、三度目に歯を使ったら、サーラが露骨に顔をしかめた。
「患者に使う縄をかまないで」
「患者が寝る衝立用だ」
「病人は何でもなめるの?」
「俺は病人じゃない」
「二十八秒も腕を酷使した人が?」
返す言葉がなくなった。
サーラは俺から縄を取り、輪を作って左手だけでも締められる結び方を見せた。一度目は速すぎて見えず、頼むと半分の速さで繰り返す。
「町の人間に教えるのは屈辱じゃないのか」
「聞かれたから教えた。それだけ」
彼女は結び目を引き、俺の指へ食い込ませた。
「次に余計なことを聞いたら、もっと固くする」
湯船の端では、ミアが寝床の割り当てをしていた。
浴場の壁には十二枚の獣絵が埋め込まれていた。ベルンでは生まれ月の獣で洗い場の順が決まるという。なぜか魚の月が二つあり、鼠の月はない。避難民の子供たちは寝床の場所までその順だと言い張り、魚二組が湯船際を巡ってもめた。
「今は風呂じゃない」と言っても聞かない。最後は、どちらの魚が長く息を止められるかという勝負になった。水のない浴槽でほおを膨らませるだけなので、誰も止めなかった。
夫の隣でなければ眠れない女がいる一方、夫の右隣だけは嫌だという女もいた。理由を尋ねた夫は一晩中むくれ、最後は魚の月の子供二人に挟まれて寝ることになった。ミアは黙って空き札を一枚渡した。
イヴァンは入口の一番寒い場所を選んだ。
「見張りなら隊が置く」
「出られないよう見張る者と、入ってこないよう見張る者は違う」
「なら二人置く。外に一人、中にお前。朝に交代だ」
イヴァンは承諾の代わりに、開閉を妨げていた戸のゆがみを直し始めた。
直し終えたイヴァンは、戸を内から三度、外から二度開けた。守備隊長が「疑い深い」と言うと、「一回少ないそっちよりは」と返した。
寝床を十組作ったところで、ミアが俺の列を見て鼻で笑った。
「遅い」
「縄の長さは全部そろってる」
「寝る人は長さを測らない。先に十人寝かせたほうが勝ち」
勝負だとは誰も言っていない。だが、言われた瞬間に負けたくなくなった。
俺はわらの厚みをそろえ、石床の傾きに合わせて枕側を一寸上げた。ミアはわら束を放り、毛布を広げ、子供に「寒かったら奪って」と言って次へ行く。
五分後、ミアの列には十人いた。俺の列には、寝心地を試しているガルド一人だけだった。
「速さは私の勝ちね」
ミアが胸を張る。ガルドは俺の寝床へ腰を沈めた。
「こっちは腰が沈まねえ」
「寝心地なら俺の勝ちだ」
「父さん一人の感想でしょう」
ガルドは俺の寝床で一度寝返りを打ち、勝手に二つ目の判定を作った。
「寝心地の勝負は今夜だ。先にいびきをかいた列の勝ち」
判定役まで勝手だった。
その夜、泣き疲れた子供を背負ったまま寝床を作っていると、その子が俺の背中で最初のいびきをかいた。ミアは「背中でも寝かせたなら、寝心地はカナタの勝ち」と判定した。俺は「寝床で寝ていない」と無効を主張した。サーラは、勝負に夢中で作業を遅らせた俺たち二人を負けにした。
世界は一つも救われなかった。寝床だけが二十組できた。
*
翌朝、北倉ではヨアクが焦げたはりに白墨で線を引いていた。
「こっちを切る。残すのは三本だ」
ガルドが金づちで確かめる。
「二本だ。真ん中は芯まで炭になってる」
「三本残さなきゃ、仮屋根が狭くなる」
「三本残したら、屋根ごと狭くなるぞ。人間の厚みまでな」
二人とも譲らない。
俺は白墨を受け取り、はりの焦げていない部分を一寸ごとに測った。叩いた音も書く。見た目ではなく、使える長さを並べると、ヨアクが諦めたように真ん中に×をつけた。
「明日の麦袋、置く場所が減る」
「明日置く奴が生きてるほうがいい」
ガルドは×の位置へのこぎりを入れた。
ヨアクの手が、切り落とされるはりに一度だけ触れた。自分が守れなかった倉の一部をとむらうような触れ方だった。
ドーマはその横で、家ごとの備蓄申告表を作っている。眼鏡がないため紙に鼻がつきそうだ。
「この欄は何だ」
ヨアクが問う。
「申告できない理由」
「理由まで書かせるのか」
「違う。書きたくない者は印だけでいい。その家にはミアか、町から選ばれた同席人と行く。役人一人へ戸棚を見せたくない家もある」
嫌われ者の細かさが、今度は町の逃げ道を作っていた。
それを見ても、ヨアクの顔は柔らかくならない。
「これで倉が焼けなかったことにはならん」
「分かっている」
「なら、明日も来い」
ドーマは紙から顔を上げた。
「承知した」
それだけだった。
ロザの差し入れた黒パンを、すすだらけの手で分けた。ドーマの娘は父の分を半分に割り、先に大きいほうを渡す。ドーマは入れ替えようとし、娘も戻す。無言の押し合いが三往復して、最後は同じ大きさにちぎれた。
俺の右手も、少しだけ動いた。
包帯の下に挟まれた木彫りを落とさない程度に、小指が曲がる。
「戻るのが早い」
サーラに見せると叱られた。
「喜ぶところじゃないのか」
「明日また使う顔をしている人には喜ばない」
包帯を巻き直される。結び目は、さっき俺に教えたものと同じだった。
その次の日も、町は同じ仕事を続けた。
イヴァンたちは東畑へ北方の根菜を三うねだけ植えた。全部を賭けず、育つか試せる量。モリスは避難民用の寝縄を張り直し、製粉小屋で見た男と一度も目を合わせなかった。それでも二人で同じ端を引いた。
ドーマは申告表を持って十七軒を回り、三軒で戸を閉められた。四軒目へ行く前、閉められた理由を一つずつ書いた。怒鳴られた、娘が怖がった、役人に食料を見せたくない。失敗を飛ばさなかった。
黒い文字も獣も来なかった。代わりに根菜を植えた三人が、うねを南北に切るか東西に切るかで昼まで口を利かなくなった。
*
ベルンへ来て七日目。麦穂亭へ帰った頃には、夜も深くなっていた。
食堂の長卓には、明日の仕事が並んでいる。水路職人の名簿、配給表、北倉の寸法図。ハンナは余った汁を鍋から小さな器へ移し、朝の煮込みに足すためふたをした。
「食べる?」
「浴場で食べた」
「三枚?」
「二枚半」
「病気だね」
本気で額に手を当てられた。
笑った後、部屋へ上がった。
借りた服を、木箱へ詰める。
二日分しかない。台所二号、干し肉、水筒。荷造りは片手でもすぐ終わった。
黒衣の書記は俺の存在を知っている。ガルドから夕食一回分の記憶を奪い、ドーマの娘を人質にし、北倉を焼いた。次に失われるのが、ミアの伝令路かもしれない。ハンナの宿かもしれない。
俺が町にいるほど、狙う場所を教える。
それは筋の通った考えに見えた。
「どこへ行くの」
扉にミアが立っていた。
声が静かすぎた。
「黒い書記を追う。ここを拠点にすれば、また町が狙われる」
「町にいなくても、追うために戻ってくるでしょう」
「戻らない方法を探す」
「また勝手に決めた」
「何を」
「私と父さんと母さんが、兄さんのいないほうがましだって、また勝手に決めた」
兄さん。
市場で「妹役」と笑った時とは違う。ミアは、呼び間違えた顔さえしなかった。
ミアは怒っていた。服を握る指だけが震えている。怖いのか、と聞きかけた俺の荷袋を、彼女は先に蹴った。
木箱に置いた服を、ミアが一枚持ち上げる。
そでから、焦げたちょうつがいの軸、曲がった留め金、片側だけのびょうが七つ、寝台へ転がった。北倉と製粉小屋で拾ったものだ。
「旅立つ荷に必要?」
「軸は細い戸なら使える。留め金は削れば針になる」
廊下の暗がりから、ハンナの声がした。
「その破材まで泊めるなら、追加の宿代だよ。金具一個につき、まき半本を割ってもらう」
「俺の荷物だ。寝床を一つ増やすわけじゃない」
「同じ部屋なら、鼠も無料で泊めることになるね」
捨てろとは言わず、小袋を一つ投げてくる。俺は金具を用途ごとに分けて入れた。出ていくと決めた夜にも、使う日を決めていない部品だけは持っていこうとしていた。
「洗濯物まで畳めるようになったのね」
「そこを褒める場面か」
「裏返しだけど」
そでが内側へ入り込んでいた。俺が取り返そうとすると、動かない右手をちらりと見られ、服ごと背中に隠される。
「迷惑をかける前に出たい」
ハンナが姿を見せた。聞き耳を立てていたことを隠す気はないらしい。
「もう迷惑だよ」
言い切られ、返事に詰まる。
「夜中に出ていこうとして、娘を泣かせて、洗濯物は裏返し。十分だね」
「なら――」
「だから何だい。迷惑な客を寝かせるのも宿屋だよ。嫌になったら、その時は追い出す」
「あんたは町の人を一人も見捨てなかった。私らが旅人一人を泊めたって、罰は当たらない」
「俺が守ったから、返すのか」
「違うね」
ハンナは木箱を持ち上げ、寝台へ戻した。
「泊めたいから泊める。それじゃ宿屋の理由として足りないかい」
階段が鳴り、最後にガルドが顔を出した。
「出てくなら、たまった宿代と剣代を働いて払え」
「金はない」
「なら、まき割り百日分だ」
「昨日までは、一泊につきまき八本を割ればいい話だっただろ。百日分にはならない」
「剣代を足した」
「台所二号は贈ったんじゃ?」とミアが口を挟む。
「誰が言った」
ミアが宿帳を引き寄せ、指を折った。
「黒い文字の目撃記録を集めるのに七日。宿の伝令網も使う。その間はここにいて」
ガルドが腕を組んだ。
「七日では短い。宿代と剣代を返すなら、五十日働け」
俺は左手を上げ、二人の数字を止めた。
「十日残る。七日で記録を集め、残り三日で――」
ガルドが鼻を鳴らし、ハンナが肩を震わせた。
ミアは「十日」の部分だけ聞き取って、宿帳の十日後の日付を丸で囲んだ。力を入れすぎ、筆先が紙を破る。
「はいはい。十日だけの客ね」
「最後まで聞け。残り三日で出発の準備をして、その後は町を離れる」
「出ていく人の説明は、だいたい最後だけ立派なの」
帳面を閉じる音がした。もう一度話す、と言う前に、ハンナが廊下の鼠を追うほうきを俺へ押しつけた。
「家族ゲンカはあと。そいつ、今あんたの金具袋をくわえたよ」
鼠を追っている間に、出発の話は棚上げになった。宿帳には、十日後の日付を囲んだ丸だけが残った。
ミアは服を棚へ戻し始めた。裏返しだった一枚だけ、俺の頭へかぶせる。視界が布でふさがれたところで、窓の外から音がした。
ご、と重い物を引きずる音。
裏庭を見下ろすと、さっきまで廊下にいたガルドが、子供一人分ほどの布包みをかじ場から運んでいた。
「父さん?」
ミアの顔から、笑いが消えた。
月光の下で布がずれ、白い石の角が出た。
刻まれていたのは、俺の名だった。




