第13話 誰も斬らない救出
【二周目 Day5・午後――夕】
くわが頭上から落ちる。
刃が風を切るより先に、半歩入った。柄だけを肩へ乗せ、手首を返す。くわは俺の背中を外れ、振り下ろした本人だけが一歩前へ出た。
「剣!」
守備隊長が、さやごと台所二号を滑らせる。
右手で柄を取る。さやが床を滑る音と、刃が抜ける音が重なった。
サーラの腕にある黒い文字は二層。表は『町を襲え』。その下から、イヴァンの心臓へ細い線が伸びている。
命令だけを切る。
腕へ触れたのは刃ではなく、冷たい風だけだった。
サーラのくわが床へ落ちる。
同時に、切れた黒い線がイヴァンの腕へ移った。彼の短剣が、右隣の老人ではなく俺へ向く。
「次は俺だ!」
イヴァン自身が叫ぶ。
輪は、反時計回りに命令を逃がしている。順番を飛ばせば、負担が右隣に重なる。
「全員、今の位置から動くな!」
守備隊長の部下が小屋へ入ろうとする。
「近づくな!」
俺は短剣をさやで受ける。
「人が増えれば輪の外へ新しい標的を作る。契約が並び順を変えるかもしれない!」
兵は足を止めた。助けるために入ることが、今は危険になる。
イヴァンの文字を一つ切る。
次は老人。
老人は自分のつえを握り、俺の脚へ振る。力は弱い。だが避ければ、その先にドーマの娘がいる。
左腿で受け、腕を引き寄せる。
老人は両手をひざへついたまま、頭を下げた。
「すまん」
「謝るのは動けるようになってから」
三人目。
四人目。
一人切るたび、次の隣人へ殺害命令が移る。輪の根をまとめて壊せば早い。だが二十人分の反動が、最も弱い子供へ落ちる可能性がある。
だから順番どおり、一人ずつ。
五人目は、十三歳ほどの少年だった。
くわを持てず、両手で石を抱えている。
「投げろ!」
隣の父親が叫んだ。
「俺へ投げればいい!」
「いやだ!」
少年が拒むと、父親の胸の線が締まった。息が止まり、顔が紫になる。
少年は泣いて石を持ち上げる。
「俺へ」
前へ出る。
石は頭ではなく足元へ投げられた。少年が最後まで狙いを外したのだ。
俺は踏み越え、文字を切る。
父親の呼吸が戻った。
「今のは誰が助けた?」
少年が尋ねる。
「お前だ」
六人目と七人目が同時に来た。
輪の順番は一人ずつなのに、黒い文字が床の水車へ入って歯車を回した。二人の足場が近づき、次とその次の攻撃が重なる。
「ミア!」
「見えてる!」
ミアの矢が水車の留め木に刺さる。
止まるはずの歯車が、逆に速くなった。
「外した!」
彼女が初めて叫ぶ。
狙ったのは制動木ではなく、古い粉送りの軸だった。床の板が持ち上がり、二人の踏み込みが同時に深くなる。
一人目の腕を取る。二人目の短剣は、振り向くより早く背へ来た。
サーラが動いた。
契約を切られたばかりの腕で、粉袋を短剣へ投げる。袋が裂け、白い粉が刃と床に広がった。
「火を使うな!」
自分たちを脅すはずだった粉が、今度は黒い火を封じる。
ミアは失敗した矢を悔やまず、水車の反対側へ走った。手で制動綱を引く。
「こっちだった!」
歯車が止まる。
水車が止まった瞬間、二人の間を一本の刃が通った。
皮膚には触れず、黒い文字だけが一つずつ遅れて裂けた。
九人。
十人。
右腕の小指から感覚が消える。
鑑定師の言葉を思い出す。三十秒を越えて使うな。
「何秒!」
「十七!」
ミアが答える。
十一人目の女は短剣を逆手に持っていた。俺を刺すふりをし、自分の太ももへ落とそうとしている。自分を傷つければ隣を殺さずに済むと思ったのだ。
「自分も人数へ入れろ!」
柄を押し、刃を床へ向ける。黒い文字だけを切る。
「あんたに言われたくない!」
自由になった最初の言葉がそれだった。
「正しい」
十二。
十三。
十二人目の棒が床へ落ちる前に、十三人目の短剣も指から抜けた。二つの音は重ならず、少し遅れて続けて鳴った。
小屋の入口で、守備兵が剣を抜いたまま立ち尽くしていた。十七秒で十三人が襲いかかり、落ちたのは武器だけだった。腕にも首にも刃傷はない。兵が一度まばたきする間にも、黒い文字が二つ消えた。
「あれに援護を入れろと言うのか」
古参兵の声に、隣の若い兵は自分の剣を見た。
「いつ斬ったんです」
「俺に聞くな。三人目から見失った」
十一人目の女が、自分の太ももをなでる。短剣を止めた刃は服の上を通ったはずなのに、布糸一本ほつれていない。
古参兵は落ちた矢と俺の足跡を見比べていた。
「速いだけじゃない」
その目が、落ちた武器と傷のない腕を交互に追った。
「あの速さで、全部外してる」
守備隊長が二人の前へ腕を出した。
「見えないなら入るな。あいつの助けまで邪魔する」
俺自身にも、次の刃がどこから来るかを考える時間はない。体だけが、二十人全員を傷つけずに抜ける線を選び続けていた。
十四人目で、剣先が文字の表面を滑った。
切れない。
右手が角度を保てなくなっている。
もう一度振れば、腕ではなく皮膚を斬る。
「止めて!」
ミアが言う。
「あと六人」
「時間の話!」
「二十四秒」
まだ六秒ある。
俺は台所二号を左手に持ち替えた。握りが合わず、つばが手のひらに当たる。
「十四人目、右から来る!」
ミアの声に従い、左手で刃を置く。
今度は切れた。
十五。
十六。
床の粉で足が滑る。ひざをつき、十七人目のくわを下から受けた。力では押し返せない。柄へ沿って立ち上がり、腕の文字へ届く。
「二十六秒!」
十八。
十九。
最後はイヴァンの右隣にいた幼い少女だった。武器を持っていない。代わりに、黒い文字が彼女の体をドーマの娘へ走らせる。
ミアが二人の間へ入った。
「来るな!」
契約の壊れた残りが黒い刃に変わる。
標的はドーマの娘。
言いつけに従った全員を解放された時、人質を殺す最後の仕掛け。
俺は左手の剣では間に合わず、動かない右腕を二人の間へ出した。
黒い刃が手のひらへ入る。
肉の痛みはない。代わりに『娘を消す』という意味が骨を冷やした。
刃の前提を探す。
娘本人ではなく、契約が押しつけた『門を開ける鍵』という役割へつながっている。
その役割だけを切った。
二十八秒。
最後の黒文字が消える。命令を失った少女を、ミアが抱き止めた。
入口の若い兵が、床の武器を数えようとして途中でやめた。代わりに、立っている二十人を一人ずつ見る。
「全員、生きてる」
「……すごい」
若い兵は今度は誰にも尋ねず、子供のような顔で言った。
古参兵は答えず、抜いていた剣をさやへ戻した。一度目は口を外し、二度目でようやく収まった。
右腕が完全に動かなくなった。肩から下が他人のもののようにぶら下がる。
台所二号を左手で床に置いたところに、ミアのこぶしが胸へ来た。
「馬鹿!」
「傷はない」
「限界まで使った! 指が動いてない!」
「一人を盾にするよりは」
「自分だけ人数から外すな!」
小屋に、その声だけが残った。
サーラが俺の前にひざをつく。
「契約に従った手で、触れていい?」
「あなたの手が悪いわけじゃない」
ミアが答えかけ、止まる。
「……カナタが決めて」
「頼む」
サーラは温めた石を肩に当て、右腕を板に固定した。治療する手は震えている。震えが止まるまで、最初の結び目を作らなかった。
ミアが、水車に刺さった自分の矢を抜いてきた。
「私、外した」
「見てた」
「制動木だと思って、粉送りを動かした。二人同時にカナタのほうへ行った」
「でも粉袋が落ちて、私は動けた」
サーラが包帯を巻きながら言う。
「粉袋が落ちなきゃ、二人ともカナタのほうへ行ってた」
「うん。外した」
ミアは伝令紙に『制動木を誤認』と書いた。隅へ『でも粉袋で助かった』と足し、狭すぎて最後の字が潰れた。
「次は、軸へ色を塗る」
製粉小屋の少年が口を挟んだ。
「文字が読めない人もいる。制動は赤、粉送りは白」
イヴァンが首を横へ振る。
「暗いと赤は黒に見える。みぞの数も変えろ」
「一本と二本?」
「手袋でも分かるよう、一本と三本」
少年は返事を待たず、すすで軸へ一本と三本のみぞを描き始めた。イヴァンに「すすは落ちる」と叱られ、今度は小刀を要求した。
俺は自分の右腕にも、同じことが必要だと思った。昔できた動きへ戻るのを待つのではなく、今動く左手でできる方法を覚える。
「剣の柄も、左用に巻き直さないとな」
「まず三日は剣を持たない」
サーラが即答する。
「一日」
「五日」
「増えた」
「患者が交渉したから」
ミアが、少しだけ笑った。
小屋の奥には、金庫から消えた金が封も切らず置かれていた。黒衣の書記から食料を買う金だと言われたが、避難民たちは一枚も使っていない。近くの農家から盗む代わり、森のきのことまきを交換して食いつないでいた。
「腹が減れば、森から採る。あの金は気味が悪い」
イヴァンが言う。
「金を使えば、契約がもう一つ増える気がした」
「町へ入る気は?」
守備隊長が改めて尋ねる。
サーラは首を横へ振った。
「ない」
子供を抱く父親は、迷っている。イヴァンは森と町を交互に見た。
「俺は町へ行く」
子供を抱いた父親が言った。
「俺は嫌だ」
イヴァンが即答する。二人の間で、サーラが額を押さえた。
「二十人で一つの口を使うの、もうやめない?」
守備隊長は地図を出し、城壁外の古い染物小屋を指した。
「今夜はここを使え。屋根と井戸はある。床が紫だが、毒ではない」
「なぜ最初にそれを言う」
「北から来た者は毎回、床で騒ぐ」
「床が紫なら騒ぐでしょう」
サーラと隊長がにらみ合う。父親の腕で、子供が腹を鳴らした。
「武器は外。扉のかんぬきは内側だ。朝になって嫌なら出ろ」
「朝、追い出したくなったら?」
「たぶん町の誰かは言う。そいつより先に俺へ怒鳴れ」
「頼りない」
「一晩より先は、今ここで約束できん」
サーラは長く息を吐いた。
「門まで行く。紙も床も見てから決める。子供を診る時は私もいる」
「好きにしろ」
イヴァンが皆を見回した。
「門までは二十人で行く。俺は紫の床を見てから逃げる」
ドーマは娘を抱き締めた後、避難民の前にひざをつく。
「門を開け、獣を追ったのは私だ。町へ戻り、裁きを受ける」
「俺たちが脅したことにしてもいい」
イヴァンが言う。
「あなたたちに脅された。私は娘を助けたくて門を開けた。勝手に私だけ善人にするな」
ドーマが言い返した。
ドーマの娘が、俺の動かない右手に小さな木彫りを押し込んだ。
眼鏡をかけた父親の隣に、剣を持つ棒人間が増えている。
「斬らなかった人」
握れないため、ミアが包帯の下に挟んだ。
「二十人、斬りかけたけどな」
「斬らなかった」
ドーマの娘は譲らなかった。
夕方、町へ向かう列ができた。
先頭は守備隊長。次にドーマ親子。少し離れ、イヴァンとサーラを含む二十人が固まって歩く。武器は別の荷車に積み、誰の物か分かる札を本人たちで結んだ。
同じ場所へ帰ると決めた列ではない。
それでも門までは、同じ道を歩いた。
木彫りは包帯の下で、動かない指に当たり続けていた。




