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――その言葉が風となって、エレノアの頭の中を、胸の中を、体の中を通り抜ける。
祖父との思い出が、雨粒のように吹きつけて、弾けていく。
初めてダンスを教わった日。
高いヒールの靴をはいて、ちょっとだけ背が高くなったのに胸がドキドキした。
厳格な祖父が、まだ小さかった自分を優しく抱き上げてくれて――言われるがまま、手足をうんと伸ばして。
地面から離れて、体の重ささえ忘れて。
回る天井を見ていたら、鳥になったみたいだと思った。
くるくる回ればスカートが丸く浮かんで、ひらひらふわふわするのが好きだった。大きくふくらんで見えるスカートは、絵本の中のお姫様のよう。自分が特別になったみたいで、楽しかった。
きっと祖父も、孫がダンス嫌いにならないよう、楽しいところから始めてくれたのだろう。
そして自分も――楽しい以上に、普段多忙な祖父をひとりじめできることが嬉しかった。
だから飽きもせず、何度も稽古をねだった。その頃は毎日のように、回って、跳ねて――。
こけて足を痛めた。
踊れない日常の、なんと退屈であったこと。
それが治ったら治ったで調子に乗って、歩く代わりにステップを踏んだりくるくる回っていたりしたら、はしたないとそれはもうきつくきつく叱られた。淑女たるもの、日々の生活で他人に足を見せてはならない。日常はつぼみであれ、と。
フォリーにもぐった。
海の底のようなあの空間で、祖父が口遊んでいた音色とリズムを同じように口遊んで、覚えたばかりのステップを練習して。
ひらひら、ふわふわ。
つぼみではない、花のお姫様になった。
だが……時は無情にも過ぎていく。
フォリーにも入れなくなり、祖父にも抱き上げられないくらい体が大きくなってしまったとき、不安になった。
もし振り付けを忘れてしまったらどうしよう。
――その頃にはきっと、おじいちゃんより大好きで、おじいちゃんよりたくましい若者が隣にいるかもしれないよ。
相談したとき、祖父は少し苦く笑った。もしそんな日が訪れたなら、おじいちゃんが二人一緒にびしばし指導してやろうと。
けれど、おじいちゃんより大好きな――そんな日は、なかなか訪れなかった。
そのまま十八になってしまった日の夜、祖父に呼び出された。
いまだ残されたまま、閉ざされていた父の作業部屋。
誰かの追憶が象られたような、セピア色の部屋。古城の中にあってなお、刻の底泥に沈んだ部屋。
かたくなにそこへは近付こうとしなかった祖父が、慣れたように部屋に灯りをともし、どこに何がしまわれているのかすべてを承知のように、並ぶチェストの中からひとつの箱を取り上げる。
テーブルの上で静かに紐解かれる、父の遺した夢の形。
――成人の儀で、それを着てダンスホールに立つ娘を見るのだと、エレノア様が乳飲み子の頃から――。
それを目の当たりにして――どういうものか、瞬時に理解した。
古城トルテュフォレの、家令という役割を拒み続けていた父。しかし父もまた――歴史と伝統を重んじる、レコンフォール家の血を受け継いだレコンフォール家の一人息子であったのだ。
夢を受け取った。
けれどもその夢は今……自室のクローゼットの奥で、対なるものとともに静かに眠っている。
結局父も祖父も、その夢が叶う前に――死んでしまった。それをともに叶えてくれるはずの、たくましい若者もエレノアの隣にはいない。
いないけれど――。
光がすべる。闇がにじむ。
輪郭がぼやける。
虹が出そう――と思いながら、エレノアはふと笑った。
「――ねえヘンドリック。あなたもしかして、踊れる?」
「はい」
ヘンドリックはエレノアの意を解し、数歩を下がる。
「トルテュフォレの執事たるもの、ダンスのひとつもお相手できぬようでは務まりません」
そして、ゆっくりと姿勢を正す。
それに向き合うように、エレノアも振り返る。
長い廊下の奥行きのせいか、実際よりも距離があるように錯覚する。白を基調にした床や壁紙が、淡く光を宿してまばゆい。体中に、光の泡が宿っているように感じた。
深呼吸。
体の力を抜き……誰かに導かれるように、ゆっくりと一歩を進む。
常とは異なる足の踏み出し方に、スカートも常とは異なる形の空気を孕んで、しなる。
二歩。
三歩。
ヘンドリックとの距離を数歩残し、お辞儀をするように腰を落とす。
数秒――同じようにヘンドリックが近付き、両手をふうわりとエレノアの頭の上に持ち上げる。
「ああ――そうです! それです! あのとき私が見たものは――! なんてことだ――精霊王よ、精霊妃よ――感謝いたします――。今日の日の今この時に、祝福を――」
そのわずかな動きだけで、ピーター・パッターは感激に顔をくしゃりと歪め、両手を広げ劇的に祈りの言葉をつむいだ。エレノアも姿勢を元に戻し、朗らかに笑う。
「わたくしの方こそ感謝いたします、ピーター・パッター様。ここしばらくの不測の事態に、むりやり溜めこんでいた心の淀が流れ、洗われた気分ですわ。雨粒のように弾けるあなた様の声と、それを借りた祖父の言葉……たしかに、わたくしの心に染み入りました」
「エレノア様――」
胸元に手をやれば、指先がブローチに触れる。レコンフォール家の紋章である花樹鹿をモチーフにした、数少ない自分の装飾品。
エレノアは目を伏せるように、両親の愛のしるしである中央の花蜜石を見、顔を上げる。
「――ルイスさん」
「はい」
諦観を含ませたまなざしで一部始終を見つめていたルイスもまた、承知のように恭しく礼を取る。
「落ち着いたら、ブライアおば様にお伝えください。今回頂戴したお話、たしかにお受けいたしますと。お相手の選定も、どうぞおば様の一存で――今日までずっと、二人目の母としてあってくださったおば様がお認めになった殿方ならば、わたくしにとっても不信はありません。しかしながら――」
「はい」
「生半可な殿方では、おそらくわたくしの前に立つことすら叶わないかと存じます。そしてわたくしも、わたくしの前に立つにふさわしいお姿の方でなければ、一切のお相手はいたしません。それがどんな富豪であろうと、貴族であろうと。そして」
「……」
「もしも――もしもわたくしが認める殿方がいらしてくださったら。そのときはおば様が仰るよう、いっときをその方にお預けしてみようかと思います。ただそのときのために必ずや、ピーター・パッター様と彼が必要とする人や物を、ご用意いただけますよう。どうか、これだけは」
「エレノア様……!」
「……承りました。おそらく奥様も、ご了承なさるかと思います」
「ありがとう」
ルイスの目は、記憶の中の幼い少女を見る目から、自らのあるじと並び立つ――あるいはそれ以上の家の当主に対する、侮りのない眼光を宿すものへと変化していた。
「では――ピーター・パッター様。ともに夢を叶えられる夜が訪れることを、楽しみにしておりますわ」
「はい……はい! ありがたきお言葉……!」
深く頭を垂れる老人にほほえみ、エレノアは脇の階段を上る。ヘンドリックもまた一礼を返すと、その後に続いた。
そのまま控えの間に入ったエレノアは、扉が閉められるとふうと息をつく。
「……ちょっと言い過ぎたかしら?」
「いえ。トルテュフォレの家令として、またレコンフォール家の当主として――お見事なお振る舞いでございました」
「そう? でもこれで結婚が遠のいたらお父さんとおじいちゃんのせいだからね。他のことは……また、考えます」
「それでよろしいかと。我々は、常にお側に」
何やら愉しそうなヘンドリックに、エレノアもつられて笑う。
「頼りにしてます。それじゃあ――まずは今日を、乗り越えましょうか」




