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少し湿り気を帯びた風が頬をなでていく。雲の動きも早い。空はまだ青いが、さあっと一雨来るかもしれない。
諸々の話し合いを終え、一足早くエレノアが薔薇園を抜けると、ちょうどヘンドリックが正面玄関から出てくるところだった。
「――ヘンドリック」
エレノアの姿を認めたヘンドリックは、少し安心したように顔の筋肉をゆるめた。心配して探しに来てくれたのだろうと、エレノアも小走りに駆け寄る。
「至急、話したいことがあるの。あまり時間もないけれど……とにかく、今日を乗り切りたい」
「承知いたしました。――何かあったのですね」
「ええ、それはもう。いろいろありすぎて、さすがにここでは話せないけれど……」
「参りましょう」
真剣な表情で答えれば、ヘンドリックはそれ以上を問わず、初日に通された控えの間へと促してくれた。
(とりあえず、これからやらなければならないことはわかったけれど……)
――正直なところ、不安はある。
「――なんだよ、やっぱり匿ってたんじゃねえか」
「あの状態なら保護するのは当然です。特にリリアン様の方はひどく体調を崩していらしたのですよ。もし城に辿り着けなければ、命に関わる事態でした」
互いに洗いざらいを話したあとの、ラヴィルの判断は迅速だった。
「双方の事情は、理解しました。まず目的を共有します。大目標は大臣の〝無血の謀反〟の阻止、そのために今回の調停をトルテュフォレ優位のまま、双方の心からの和解で終わらせること、もしくは合法的に無きものにすることを、最初の小目標に定めます」
「つまり、そもそもの武器を無効化しちまうってことだな。調停が大臣じゃなくお嬢様の望みどおりにいけば、王権の強さの健在ぶりを思い知るわ思ったより悪さには使えねえわで、今回に限ってはただ寒いところに来て節々を痛めただけの、無駄骨になるってワケだ」
「そのとおりです。――法はたしかに、それを司する人間によって武器にも盾にも、また別のものにも変わります。しかし、であるからこそ、人間のいとなみによって活かされていくもの――真心を持って動かされていくものでなければなりません。武器として用いるにしても、それを志せない人間がやすやすと振るえる得物ではないのです。それを相手に叩き込むのが、小目標以下、私の目標です。それからハンナ=エスタシオン男爵夫人の救済ですね。女性が苦しむ姿は見たくありません」
「それはもちろん、わたくしも――。あとはフィオレロ様とリリアン様のご無事を守ること、そして……何より大目標を確実に叶えること、でしょうか」
「俺たちは、自由の獲得だな――変な濡れ衣きせられて牢獄にぶち込まれるのも、見せ物にされて首はねられるのもごめんだぜ。金はないよりあった方がいいが、命あっての物種だからな」
「ではそのために、各々がすべきことを説明します――」
そうしてエレノアがラヴィルから任されたことは主に二つ。
一つ目は「今日を遣り過ごして時間を作ること」で、これは急務だ。
またのらりくらりと、先の話を無駄に半日繰り返すのか――と思えば気が重いし、何より大臣と対することが今は少し怖い。勘働きがよさそうな相手と向かい合うのは、とかく神経を使う。
そして二つ目は――。
「……」
脳裏に、あの神々しいほどに真白の、閉じた手紙が思い浮かぶ。もう思い出すまいと誓ったのに、あっさりと、自分の意図しない形で思い出すことになってしまった。もっとも、必要なのは手紙ではなく日記の方だったが――。
いずれにしても、平常でいられるだろうか。
最悪の事態を想定するなら、国を揺るがす大事件になるというのに。
(お手紙……どの方も皆、お優しかった。たった一人の見知らぬ人間のために、あんなにご丁寧にペンを取ってくださって。あの方々を、護らなきゃ……そのためには、気持ちで負けていてはだめよ。そう――報われずとも、報いよ。家令であるわたくしの役目は、王家の方々が心安らかにお過ごしになれるよう尽力すること。たとえこの北の地にあっても、火種がこちらに持ち込まれた以上は――この身を焼いてでも、わたくしが消し止めなければならないのだから。大丈夫……深呼吸)
廊下を雲の影が滑っていく。その光と影を眺めながら歩いていると、足元がふわふわと揺らぐ気がする。
だが、感覚が失せかける間際――
(――あら? あれは……)
視界の端に誰かが言い争っているのが飛び込んできて、エレノアは足を止めた。
意識が急激に現実に引き上げられる。
一人は執事長のルイス、もう一人は見事な白髪を深紅のリボンで束ね、深い青緑のゆるやかなコートにステッキを携えた、舞台的な衣装を纏った小洒落た老人であった。
ルイスは普段どおり落ち着いた様子で対応しているが、老人の方は気色ばんでいる。その荒げた声の中に自分の名が聞こえた気がして、エレノアはヘンドリックと顔を見合わせた。
険悪そうな雰囲気の中、エレノアは一度咳払いをして喉の調子を整えると、記憶をたぐり――
「〝大地とともに満たされ、空とともに涙しよう。花とともに吐息をこぼし、時とともに流れよう。そして永劫、人の心に染み入るのだ。それが雨たる、私の音色〟」
――以前は何度も聞いた、老人お得意の口上を高らかに謳いながら、二人の前に躍り出た。
「エレノア様――」
「エレノア様!」
「お久しぶりでございます、ピーター・パッター様。……合っていましたか?」
おどけたようにエレノアが問えば、老人――ピーター・パッターは、感極まったかのように体を震わせ、大きく頷いた。
「覚えていてくださったとは、なんたる光栄。以前お目にかかったときより、ずっとお美しくご成長されて――」
雨音をもじった名を名乗る小洒落た老人は、ガルニエ侯爵家お抱えの楽団で奏者や指揮者を務める古参の人間だった。本名は知らないが、あえて名乗る気もないようだ。祖父が生きていた頃は食事会などで顔を合わせており、楽団の中でも中心人物であったように思う。
彼の奏でる音色はときに厳かであり、ときに華やかであり――音楽とともに語られる物語は大人たちを魅了し、子供たちさえ飽きさせなかった。ノーザンシセラス城で開かれる晩餐会や夜会などでは、彼らが奏でる音楽は必須のものだ。
ピーター・パッターは、愛らしい花型に抜かれたアイレットレースのネッククロスを整えると、改めてエレノアに向き直った。
「実はエレノア様がこちらにいらっしゃると小耳に挟み、いても立ってもおられず馳せ参じた次第です。それを、この石頭に押し留められまして」
「ピーター、残念だが君はもう――」
「ええ、ええ。クラウス坊ちゃまもご婚約者様をお連れになるまでにご立派に成長し、代替わりも近しい今、時代遅れの老いぼれは潔く退くべし――楽団も新しい楽器や流行りの音楽を取り入れ若返りをと、それは十分に理解しておりますとも! しかしルイス様――お聞きしましたぞ。というより、街の一部ではすっかりその話題で持ち切りです。なんとついに、あのレコンフォール家のご息女エレノア様が、婿取りをなさると!」
「――えっ……」
「聞けばお婿さん候補の方々は、クローマチェスト中からかき集められた名だたる名士。しかも成人の儀ではご結婚の祝宴の予行も兼ねて、お選びになった殿方とダンスをご披露なさるとか――。現在、成人を迎える若者を持つ親御さんたちは、それにあやかろうと各々ご子息やご令嬢のご婚約を早めカップルでダンスの特訓に邁進し、あるいは素敵なご縁に恵まれるよう、更なる淑女教育を施しドレスを新調させて、来たる日に臨まれるそうです」
「え、ちょ、お、お待ちになって……」
まったく身に覚えのない話に、エレノアは先程までの思考すべてを無に帰して、笑顔をひきつらせた。自分が知らない間に、なぜか周りが盛り上がっている。
ちらりとルイスを窺えば、そっと目をそらされた。これはどうも、ノーザンシセラスの使用人たちが火元の可能性もありそうだ。
「その――ピーター・パッター様。いろいろとお話が出回っているようですが、わたくし、さすがにダンスまでは――お恥ずかしい話ですが、わたくしは王都の社交界で流行っているようなものも存じ上げませんし、今の若い方たちが好まれるものにも疎いものでして、とても――」
「ええ、ええ。そうでしょうとも。それでよろしいのです。だってあなたのお祖父様とお祖母様も、そうであったのですから」
「……え? ……おじいちゃん?」
――大きな雲の影が、通り過ぎる。
ぽつ、ぽつと雨粒が窓ガラスを叩くが、空は明るいまま。お天気雨の淡い影が、余計に光を色濃く際立たせる。
「ピーター・パッター様……もしや成人の儀で、祖父と祖母をご覧になったのですか?」
「それはもう――若かりし頃のお二人のダンスが、私の音楽家人生を決めたと申し上げても過言ではありません。当時まだ若造であった私は、今の若い者がそうであるように、常に新しいもの、斬新で奇抜なものを求めておりました。自らの手で、新しい音楽で、名をとどろかせ、世界を変えたかったのです」
「……」
「しかし私めの世界を一変させたのは、そんなものではありませんでした。――今でもあの夜のことは鮮明に覚えております。そこで私は、自分が奏でるべき音楽を決心したのですから。私はあのとき、深く胸に刻みました。やがてこのお二方に子が産まれその子が成人を迎えたとき――そのときは必ずや、この私めがこの場所でこの音楽を奏で、トルテュフォレの新たなるあるじ夫妻の美しい刻を彩るのだと……!」
「ピーター・パッター様……」
「ですがそれから数十年。お父様であるウィルフレッド様は、成人の儀にはお出ましになりませんでした。ええ、ええ。何かご事情があったのでしょう。それは承知しておりますとも。しかもその後、あの〝黒き精霊の瘟〟が起こり――」
「ピーター!」
まるで舞台俳優のごとく詠じるピーター・パッターを、ルイスが強い口調で止める。そして一歩を進むと、エレノアに深く頭を下げてきた。
「申し訳ありません。エレノア様の前で、このような……」
「いえ……わたくしは大丈夫です。残念ですが、両親のことはぼんやりとしか覚えておりませんし……。それより、思わぬ祖父の話が聞けて……嬉しかったです」
「エレノア様――」
エレノアがほほえめば、ピーター・パッターは一度ぐっと口元に力を入れ背筋を伸ばすと、老いた手でステッキを胸元に引き寄せ、礼を取った。
「――エレノア様」
そろえられた足の、大きなバックルのついた革靴がカツッと小気味よく響く。
「私めのこの分不相応な願いを知ったあなたのお祖父様は、私にこう仰いました」
――ああ……それならば心配はいらぬ。エレノアには、すべてを教えてきた。いや、教えなければならなかったのだ……。
――私は、息子の夢を叶えてやることができなかった。優れた才を持ち、誰よりも努力を惜しまぬ息子を、一度たりとも認めてやれなかった。レコンフォール家の当主として、それをするわけにはいかなかったのだ。
――そんな私を息子は憎んでいただろうが、ただ、ひとつだけ……生前、ある願いを語ってくれた。それはもう――子供のように、嬉しそうに。
――だから私は……エレノアに、すべてを教えたのだ。教えることが、息子が私に遺してくれた、たったひとつの願いを叶えてやることになると思って。
――それは私の後悔をも背負わせるものになるかもしれないが……だが、あの子なら。
――エレノアならば、きっと……。
「おじいちゃん……ピーター・パッター様」
「エレノア様。今となってはあの古き音色を、物語を奏でられる人間は、枯れ木のような私どもの手と楽器しかございません。どうか――それを奏でてみせよと、消え行く老いぼれたちにご命令ください。そしてそれを成すために、どうか――思い出してください」
――ご自分が、何者であったのか。




