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「父は――病んでいるのです」
そんな切々とした言葉から、ラヴィルの話は始まった。
「年齢もあるでしょうが、やはり定住先のない生活というものは……何と言いますか、心身が休まらないのです。たとえ本人が慣れたつもりでいても」
自分とは色の異なる指が、同じものをつまむ。まぶたと同じく、彩色が施された爪が美しい。金粉がまぶされた青緑の、あの孔雀貝とも異なる――甲虫の背のような、不思議な遊色を湛えている。
お菓子を口にした彼の横顔が和らぐのを見て、エレノアは少しだけ体の力を抜いた。
「失礼ですが奥様……ラヴィル様にとってのお母様や、ご兄弟は……」
「生まれ故郷に残したままです。実を申しますと、私も幼少を過ぎた頃からは家族には数年に一度、会うか会わないかの生活でして……。子供の頃は父を恨む気持ちもありましたが、学問の面白さを教えてくれたのもまた父であり、今では恨むに恨めなくなってしまっています。母や姉、弟たちも慣れたもので、今では異国の土産物をねだられるほどでして」
「そうでしたか……でもお元気でお過ごしなら、お互いにそれが何よりですものね」
「ええ。特に私の故郷は、古から続く女神信仰の篤い国でして……」
「……!」
金粉がかすかに燦めく指先が、エレノアの目の前にゆらりと持ち上がる。そしてひとすじの和毛分ほどの空間を保って、
「……髪、耳、顔、頬、声、首、肩、肌、四肢、背、乳房、胎……」
その言葉をなぞるように、上からゆっくりと、体の輪郭を辿っていく。
「ラヴィル様――」
「そして智恵や精神……」
あの紫の瞳に居竦められる。再び持ち上げられた甲虫の爪先がそれを割き、眉間から胸元のブローチに下りていく。
ラヴィルは硬直するエレノアを前にかすかに笑むと、何事もなかったかのように話を続ける。
「女性は皆、内外に女神様の力を宿して産まれてくると言い伝えられているので、周囲の方々も母には良くしてくださるのです。特に姉は定められた日、時間に産まれ、体の一部に御印を得ていたので、女神様の依り代として神殿に勤め、人々から崇拝されています。その御姿は弟の私から見ても荘厳で、冬の月のように清かでありながら語る言葉は春の花のようにやわらかく、温かで――まさに女神様の化身のような存在で、父や私にとっても誇りなのです」
(ああ――それで――こんな)
口にしなかったが、彼の言動を形作ってきた理由の一端が、なんとなく察せられる。
「あ……その、……弟であるあなた様も見目麗しくご聡明な方であるのですから、きっとお姉様も素晴らしい方でいらっしゃるのでしょうね」
咄嗟に出てきたのは、我ながらつまらないほどに単調でありふれた、付け焼き刃のような賛辞だった。が、ラヴィルは素直に頷いてくれた。
「あなたも」
「え?」
「あなたも、父や大臣の言葉に惑わされなかった。聡く賢く、そしてやはり――純真で、可愛らしい」
「……」
息を詰まらせるエレノアに、ラヴィルは前と同じように堪えた笑みを手で隠す。
本気なのか、からかわれていたのか――頬に熱を感じながら、エレノアも同じように咳払いをして続ける。
「ファディル様の仰っていたことは……間違いでは、なかったと思いますが」
「間違いではない。しかし正解でもない。その差異を、あなたは感じ取った」
「……」
エレノアが頷けば、ラヴィルは笑みを潜める。
「あの場では、さらに別の提案がなされるべきでした。ひとつ、ふたつ――そしてみっつ目には、それらの評価や名誉を侵さず衆人に伝達し、世に正しく伝播させ、その名を讃えるよう努めることの要求、と」
それはまさに、エレノアが危惧したことそのままであった。
「わたくしもそれは考えました。それがなされないなら、男爵は如何様にも周囲に話を吹聴することが叶う……ですからそれを利用して、何者かがトルテュフォレを貶める目的を持ち、仕掛けてきたのではないかと。実を申しますと、直前にあった監査でもその気配がありましたもので」
「……」
ラヴィルは何か思案するように沈黙する。水が流れる音だけが辺りを支配し、数秒――
「ひとつお伺いしたいのですが……もし私があなたを呼び出さなければ、あなたはこの時間、どうなさるおつもりでしたか?」
「え? あ、ええと――」
話が飛ぶ。少し癖のある話し方だ。
「そもそも申し上げていたとおり、訴え自体を無いものにできないか……執事と相談するつもりでした」
「というと……何か、お考えが?」
「はい。……わたくしどもは決してご使者を無下に扱ったわけではなく、あの夜はいらした方々の分の食料やお飲み物を十分にご用意し、お引き取りいただいております。皆様お召し物はご立派でしたし、雨風をしのげる場所は城の付近ならばそれなりにございますし。でしたらまず寒さに耐えるには、何よりも栄養のある食物を口にしなければなりません」
そこで、エレノアは思い出したようにバスケットからサンドイッチを取り上げた。言葉のとおりひとくち食めば、ラヴィルも笑んでそれに続く。
「持ち出し分は帳簿や在庫の管理表にも記してありますし、幸か不幸かその監査もあったので、第三者の目も入った揺るぎない事実であると示せないかと……。それに夜警の人間も決して手は出しておりませんし、旅の画家様についても……わたくしを助けてくださっただけで。それをどうにか示せないかと――誰にも邪魔されず、落ち着いて考え、相談する時間が欲しかったのも事実です」
「……そうですか。やはりあの提案に、折れる気はなかったのですね」
「はい」
エレノアが深く頷けば、ラヴィルもそれに応じ真剣なまなざしを向けてくれた。
「で、あるならば。それはかなり、正しい戦い方だと思います」
「……!」
突然もたらされた光明に、エレノアは目を見開く。
「ラヴィル様――」
「戦う方法は私がお教えします。しかしながら……今のままではやはり、天秤は傾かない」
「……と、仰いますと……やはり、先のお父様のお話と関係が?」
「はい。……ところでエレノア様は、歴史のお話はお好きですか?」
「え? は、はい」
ラヴィルは頷くと、またエレノアの予想外の話を持ち出してくる。それからあのしなやかなハスキーボイスで、ゆっくりと語り始めた。
いわく――クローマチェストを含む周辺各国の法律は、大昔に制定されたあるひとつの法を下地にして、各々の国の風土や民族性、またそこに根付く文化や信仰と結びつきながら変化、あるいは再編されてきたものである。
そしてその法とは、数百年の昔に栄華を極め、大陸統一を掲げ猛進していた巨大な帝国によって定められた、多民族を一律に治めるための最古の法体系であった。
しかし帝国そのものの礎は代が替わるごとにゆるやかに瓦解。
末期には各民族や部族、また帝国に呑まれながらも再起を狙う国や都市が戦乱の道へとひた走り、土地の切り崩しを始めた。
内乱は連鎖し、間もなく帝国は崩壊――。
後は長きに渡り領土をめぐる戦乱の世となり、そこで帝国が築き上げてきた文化や信仰は破壊され衰退していったが、その有用性や柔軟性から完全に消失することはなく……長い年月をかけ、独立した新たな国々の習慣と混ざり合い、引き継がれているのだという。
エレノアはサンドイッチを飲み込むと、続けた。
「それは……クローマチェスト建国にも、大きく関わってくるお話ですね。建国時は異民族に悩まされたと言い伝えられていますが、それも領土争いの一端であったのかもしれません。ただ建国の英雄である祖王と仲間たちの物語は、広く知られています」
「ああ、それなら私も勉学の一環で物語本を拝読しました。無冠の王と勇敢なる騎士、忠臣たる軍師に、幻想を友とする魔法使いと精霊使い――もちろん史実とは異なるのでしょうが、冒険者たちの胸躍る幻想物語でした」
「はい――でもそんな遙か古の昔から、つながっていただなんて。こういうものは、もっと新しいものだと思っておりました」
「そうですね――実はクローマチェストを含め、今の世に残る主だった西方諸国には、その古の帝国の残り香がいまだに存在しています。それこそ身近な衣食住から国の制度、階級まで――。帝国崩壊後は技術や学問などあらゆるものが衰退し失われていきましたが、その代わりに新たな国々は独自性を手に入れました。クローマチェストならば――」
「花や植物、作物、雄大な自然と……精霊、でしょうか……」
「とても穏やかで素朴な、共存の文化ですね。そうして時を重ね再び成熟し始めた国々が、この時代にふさわしい制度や法律を作り出そうとしている。クローマチェスト法務省も、その内のひとつです。新しく感じるのは、今まで都市ごとに許されていた権力を、中央に集権化しようとしているからでしょう。おそらくですが――今後は王の勅令や告示とともに、国のため、都市のためといった公法と、今回の調停のような個人のための私法が細分化し直され、体系化されたものが、新たな王国法としてあまねく発布されることになっていくかと思います。もちろん、それなりの時は必要でしょうが」
「うーん……。そう伺うと、これも時代の変わり目なのですね……」
「ええ――」
しかしその矢先に、中央の髄である王家が傾いてしまった。間が悪いというのか、運が悪いというのか。
「――そしてそれこそが、病んだ父が新たに見出した道でありました」
「……え?」
突如として最初に戻った話に、エレノアは小首をかしげる。
ラヴィルはフードに隠れるようにうつむき、透き通った紫水晶の瞳を翳らせて、ただ声を地に落とした。
「国が成熟し司法が整えば、私たちのような存在はいずれ不要になっていきます。父の代はともかく、私や私の子の代ともなればさらに先行きはわからない。故郷に帰り学者として生活していくにも、霞や埃を食べて生きていくわけにはまいりません」
「……はい」
「そこで父は、クローマチェストに目を付けました。政情は不安定ながらも一定の落ち着きを見せ、知識と職さえあれば、暮らしもそれなりの水準を維持できる。他国との関係も良好な上、巨大な版図を持つ商会があり、異国の人間や物品に多少の馴染みがある。そして司法に限っていえば法務省が本格的に稼働し始め、これからの成長のためには、あらかじめ相応の知識を修めた人間の存在が不可欠になってくる――」
そこであることに思い至ったエレノアは、思わず立ち上がった。
「お――お待ちください。ではまさか、ファディル様は――」
「……そうです。父は法務省の人間と通じ、今回の調停でトルテュフォレを――あなたの城と家の名誉を、打ち砕こうとしている。私たちのクローマチェストへの定住権と確実な雇用、あるいは大学への入学と――他でもない、私の将来のために、あなたを引き換えにして」
「――……」
「あの大臣は父の申し出を受け入れました。それはおそらく、父以上のことを画策していたから――都合がよかったのです。あの男――元は王国騎士団に勤めていたそうで、物言いは軽いですがなかなか腹が読めない。曲者です」
「待って……ください。それは、つまり……」
血の気がさあっと引き、時が停まったかのように体中の筋肉が硬直する。全身の肌が痛いくらいに粟立ち、寒気さえ感じるほどであったのに、なぜか頭だけが熱かった。
トルテュフォレを狙う以上のこと――エレノアが考えつく限り、それはひとつしかあり得ない。しかしそれは、王家に仕えてきた役人貴族が謀るにはあまりに――。
だがそこまで考えが到ったとき、エレノアは気付いた。
(アリーチェ様――まさか、ご存じだったのでは。だからあんなにも怯え、なんとかそれをわたくしに伝えようと……だとしたら、……いいえ、違う。違うわ、これは。でも――)
あのとき落ちてきた、違和感の正体。それは――
「……無血の、謀反……」
「……」
「法で国を治めようとするならば、貴族も貧民も、男も女も、子供も大人も、その法の下ではすべて平等でなければならない……ならばそれはつまり……権力を持たない貧民が貴族を、腕力の劣る女が男を、幼い子供が大人を、……斃すことができる。同じ法の下にあるならば……王さえも」
「……」
「だとしたら今回の調停は、和解じゃない。予行演習……それとも、前哨戦? トルテュフォレを王政に、男爵やその使者たちを市民に見立てた……二度目の、新たな……政変の……?」
熱にうかされたように呆然と呟くエレノアに、ラヴィルは静かに頷く。
「あくまでも私の想像で、真意はわかりませんが。いずれにせよ、その危険性を秘めたものではあるかと思います」
エレノアは絶句する。
こんな情勢のさなか、王家直属の城の家令が平民に屈し金銭を支払った――その言葉の強さは人々の意識に必ずや残るだろう。そして民衆の多くは、真実を調べる術を持たない。文字を読めない。情報を得られない。真偽を問うことも、確かめることもできない。それは情勢を傾ける一助にはなるはずだ。
反面――知恵ある者は知ることになる。剣や槍に代わる、新たな武器の登場と使い道を。
もしも無秩序に、その武器が振るわれたら?
――特に空位の今、戴く王もいないのに、やすやすと役人どもの支配下に置かれるわけにはまいりません。最悪、都市制度を崩壊させるおそれもありますから。
それは、都市どころか――。
他に何にも考えが及ばないまま、エレノアは次の句を発することもできない。
川の水だけが留まらず、流れていく。再びその音だけが、二人の間に残ったとき――
「クッ……ククク」
「――!?」
詰まれた煉瓦の背後から、突然喉を鳴らすような低い笑い声が聞こえてきて、エレノアは弾かれたように振り返った。




