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夜――冷え込んできた空気を避けるように、城の住人たちは各々食堂に残っていた。
蝋燭や花蜜ランプが煌々と灯された室内は、局所的にあざやかな橙色の光に包まれている。その光の中、持ち帰ったメモをリュカとアレックスが見比べ、その間にエレノアとヘンドリックが一連の出来事を話す。その隣のテーブルでは、ベリンダとトローエルが聞き耳を立てていた。
「……という感じで、何が何やら。わたくしが考えていたものとは、似ても似つかない雰囲気で」
『ふむ。それでエレノア様のお書きになったメモはごちゃごちゃで、悪態だらけになったのですな。ヘンドリック様のものは簡潔で、事実確認をするにはとてもわかりやすくてよろしいのですが』
「失礼ね、他のこともきちんと書いてあります」
『いえいえ、褒めているのですよ。それぞれの方の特徴や心象が細かく書いてあって、これはこれで面白い』
蒼白い小猿の姿になったアレックスは、メモを見比べながら笑う。しかし、
「ですがエレノア様。これはこれで、トルテュフォレ初の司法制度が介入した調停の記録になるので、それこそ後世のトルテュフォレに残るものになると思うのですが……よろしいのですか?」
「あっ」
続くリュカの言葉に、エレノアは目を見開いた。
「か、書き直します! もっとこう、王家直属の城の家令として、威厳と品格を持った――」
『ま、それはヘンドリック様の方で足りておりますので、このままでよろしいでしょう。嘘偽りなく書かれた文書は貴重です。主観でも客観でも、多角的に物事が見れた方が、後の世の歴史家や法律家、研究者たちにはよっぽど有益なはずですからな』
「そ……そう? ……でしょうか?」
いまいち腑に落ちないが、アレックスの言い分に反論する箇所も見つからない。続けてリュカを窺えば、曖昧な笑みを浮かべていた。
『それで、相手方の訴えは?』
「あ、ええと――とにかくフィオレロ様のことを別にすれば、凍死者も出るような嵐の夜に貴族の使用人を冷たくあしらって外に放り出したことや、こちらで身元を引き受けた客人――つまりはヴァイス様と夜警の人間による、恫喝や暴行に対する謝罪と和解金の支払いの要求だそうです。目的は単純に、男爵は面子、使者を名乗る方々はお金みたいだったけれど」
『ここに至ってまたあの画家殿ですか。一体いくつ嵐をお連れになってきたのやら』
「本当ね――あとは何かあったかしら。メモは取ったけど、でも全部はとても追えなくて……。クラウスに訊いたら、アリーチェ様は速記という技を習得なさっているのですって。クラウスもあまり詳しくないみたいで、それでも試しにやってもらったのだけど、文字というかうねった線みたいで、まるで異国の文字というか……、何を書いているのか、わたくしにはまったくわかりませんでした……」
『ああ、それは仕方ありませんよ。速記といえば、本来は司法制度がそれなりに整った、大国の公証人の血筋しか持てない秘技です。相応の対価を払ってどこかから先達を招いたか、法務省が真似て独自に作ったか。それにしたって、金も時間も知識もいるでしょうしなあ』
「そういうものなのね……」
もしかしたら、そういう特殊な技能や知識習得のために、大金が必要だったのかもしれない。考えてみればあの見学者たちの存在もそうだ。長期の滞在費も必要になってくるし、業務の一環としてあの場にあるなら給金もいる。それらを人数分、捻出しなければならない。
(……ダニエロ=グライムス。あんな人だけど、省として地固めをしようと一応は考えているのかも。人を育てようともしている。今回自らシセラスを訪れたのも、本当はそういう意味があったのかもしれないわね……現場を知らなければ、後進にも伝えられないもの)
――と、エレノアは少しだけダニエロの評価を改める。
「……でもアーノルド様も仰っていたけれど、アリーチェ様は兄妹の中でも特に優秀だったというし、どちらにしたって納得だわ。せめてもう少し、あの上司にデリカシーがあれば……」
話しながらエレノアはヘンドリックの書いたものを借り、再度一連の流れを頭の中に思い浮かべる。メモを見るとヘンドリックもまた、訴えそのものより、男爵夫人の方を気に掛けている様子だった。
(……母親だから、か)
物心ついたときから母という存在が希薄だった自分でも、ぼんやりとその気持ちが理解できるのは――生きとし生けるものすべての血に、その存在が特別なものであると刻まれているからだろうか。それとも……自分が女であるからだろうか。
どこか痛みを伴う幻想に、エレノアは眉を下げ、向かいに座るヘンドリックを窺う。
「ねえ、ヘンドリック。ハンナ様だけには、すべてのことを打ち明けてはだめかしら……? 助けて、と仰っていたわ。もうご自分の居場所が、世界中のどこにもないみたいに……せめてフィオレロ様のご無事だけでも」
「男爵夫人だけでしたら、私も賛成です。しかしやはりその前に、そのデリカシーのない上司の方を片付ける必要があるかと」
だがそこで、隣のテーブルにいたベリンダが口を挟む。
「伝えるにしても、それなりの伝え方をしないとまた揉めるぞ。聞いた限りではだいぶ参ってるようだしな――不安定な状態のまま、勢いで今の時期から北へ向かわれたら、それこそ凍死しかねん」
「たしかに……」
今のまま事情を知れば、何もかもを放り出してフィオレロを追って行ってしまいそうだ。
「何かいい方法はないかしら……結局あの大臣が言っていたように、今回の調停とフィオレロ様の件は別々に解決するしかないのかな。ハンナ様も、最初から訴え自体にはまったくご興味を示さなかったし」
「しかし根っこは同じ問題ですからねえ――上手いこと上だけ刈ったとしても、いずれまた伸びてきますよ。後々まで響いても、またエレノア様がご苦労なさるだけでしょうし。やるなら根っこから引っこ抜かんと。フィオ君がここに訪れたと、それとなく知らせるだけならお庭を見せてもよかったんですが……いかんせん今はあんな有り様ですし、参ったなあ」
「そうね……」
トローエルの言葉に、逆にそれを利用してフィオレロが来なかったことにできないかとも思ったが、そうなると今度はアリーチェの存在が壁になる。
上手く物事を回すには、まだ何か、足りない気がする。それはただの勘でもあったが、こういう感覚は信じた方がいいと、エレノアは経験でなんとなく理解していた。
「調和と和解と言われても、やっぱり難しいわ……その前段階で揉めているんですもの。もしかしたらクラウスは、いい時にいい道を選んだのかもしれない。今までとは異なる手法が生まれ、それに精通していることは大きな武器にも盾にもなるでしょうし」
『市民層がさらに台頭すれば、新しい時代の領主には求められるものも多くなりそうですしなあ。今より複雑になれば、いずれトルテュフォレにも専門家を雇い入れる必要が出てくるやもしれません。まあ、トルテュフォレにいる人間は皆なにかしらの専門家ですが』
「あ――そっか。そうよね」
そこでエレノアは、はっと気付く。執事にメイド、魔法使いに医師、庭師、コック、司祭……それだけではない、警備隊の面々も、お城や美術品の修繕を担ってくれる職人や、郵便配達も――画家も。考えてみたら皆が皆、その道の専門家だ。
「わたくしがすべてを覚える必要はなかったのですね……。また全部ひとりでやろうとして、クラウスから簡単な本と判例集を借りてきてしまったのだけれど。読んで見比べてみるだけでも面白いからと、おすすめされて」
「家令として、最低限の知識はお持ちになっていても無駄にはなりませんでしょう。もともとエレノア様は、城運営に関わる法や領法はお祖父様から手ほどきを受けていらっしゃいましたし、それに加えて幅広く法的な問題に特化した人間があらば、今回のようなことが起きた際には相談も対処も担ってもらえるかと」
ヘンドリックの言葉に、アレックスも頷く。
『問題は今現在、そんな人材が存在するかどうか――ですな。自分で言うのもなんですが、我々はずばり一流ですから。やはり古城トルテュフォレにふさわしい方でないと』
「それはまた――一筋縄ではいかない方が増えるということ?」
「何かに秀でた人間は皆そんなものだ。家令はその扱いにくい一流の面々をまとめて放り込んでおける、器のでかい人間に成長してくれればいい。窮屈なのは、かなわんからな」
「ふふ、そうですか? なら――四角四面にならず、中のものが自由にころころ転がれるような、でも落っこちないような、まあるい大きな器になろうと思います」
「うむ、よい」
ベリンダが大きく笑い、エレノアがつられて笑ったところで、見計らったかのように厨房からウィシュカとソワレがやってきた。
「さあさあ皆さん、蜂蜜たっぷりの温かいミルクと甘いお菓子をお持ちしましたよ。頭を使ってお疲れでしょう。この辺で一度、ご休憩なさってはいかがですか。今夜はメイドのお嬢さんたちがいないので、お菓子も食べ放題ですよ」
「どうぞお召し上がりになってください、エレノア様」
「ありがとう、ソワレ、ウィシュカ。――そういえばメリッサたち、今夜は引き上げるのが早かったわね。何かあったのかしら」
「そういえば夕頃、談話室でクロシェット様を含めて円陣を組み、何やらお話しなさっていたようでしたが……。女性だけの集まりかと思い、見過ごしてしまったのですが」
「クロシェット様と円陣……? ん、甘くて美味しい……」
ミルクの入ったカップを傾ければ、優しい甘みが舌を包む。やわらかな温度が体にじんわりと染み込んで、気持ちもほぐれていく心地がした。
自然とこぼれた笑顔に、ソワレも嬉しそうに目を細める。エレノアは糖衣がけされたロール型のクッキーをリスのようにぽりぽりと頬張り、飲み込むと続けた。
「ウィシュカ、朝のクロシェット様のご様子はいかがでしたか?」
「はい。お目覚めになってからはエレノア様から仰せつかったとおり、数種のヴィンテージ物の花蜜と果実漬けの花蜜をお出ししたのですが、まるでやけ酒といわんばかりにすべてを飲み干し、『元気が出たわ、ありがとう! よーし、やるわよー!』と言ってすぐ飛び去ってしまわれました」
「彼女でしたら聖堂にもいらっしゃいましたよ。エレノア様のご結婚話について、いろいろと聞かれていきました。最終的には名簿を見て、『なによこんなの、全然ダメ! 大したことないわ! やっぱりあたしがちゃんとしなきゃ!』と高らかに宣って、また飛び去っていきましたが」
「施療院の方にも来たぞ。素直になれる薬があればいいのに、とぼやいていたので、自白剤でも欲しいのか? と訊いたら『惚れ薬の方かしら。まさか作れる? 材料だったら協力するわ!』と笑いながら飛んでいったぞ」
「……そうですか。お元気そうなら、よろしいのです」
手元のミルクを見、変なものが混ぜられていないか……今度はおそるおそる傾ける。そもそも惚れ薬など本当に作れるのか疑問ではあるが、「魔女先生」なら作れてしまう気がしないでもない。メリッサたちもあまりに突飛なことはしないだろうが……。
「結婚話はともかく、調停の方はもう少し様子を見たいと思います。あちらの訴えを受け入れることは、おそらくないと思うけれど」
「金持ち喧嘩せずともいうぞ」
「それは、困りましたね。トルテュフォレよりエスタシオン家の方が、はるかにお金持ちなはずなのですが」
「聞くも哀しき言葉だなそれは……」
「……」
ベリンダの言には一理ある。金で解決する――その方が面倒もないし、手っ取り早い。しかし問題は、法という仕組みの中でそれがどう受け取られ、記録されるかということだ。
(あの特別な花蜜石が生み出したエスタシオン男爵の資産、人脈は侮れない。お金を支払った後、万が一、王都の社交界でトルテュフォレをこきおろすような話を吹聴されたら――。そんなことは、フィオレロ様のお父様であっても絶対に許さない。レコンフォール家が……おじいちゃんたちが護り抜いてきた歴史と名誉に、わたしが傷を付けるわけにはいかない)
かすり傷さえ。
「でも喧嘩をするにしても、武器になるものが見つからないの……冷やかしに言い返すことくらいはできるけれど。というよりわたくしは、誰と何で戦っているのでしょう……今回の調停、始めからなんだかよくわからないのよね。濃い霧の中、透明な毒をまかれているような気分で」
『ふむ。エレノア様には何か、ひっかかることがおありのようですな。もしかしたらそれが、何かの突破口になるかもしれません。まずはそれを見極めることから試してみては』
「そう、かな……でも、やってみます。今日もやっぱり少し、違和感があったから」
ヘンドリックに視線を移せば、それでいいと頷いてくれる。
それから少しの談笑の後、エレノアは自室に戻りクラウスから借りた本を読みながらベッドに横になっていたが、やがて睡魔にとろとろと誘惑されて、いつの間にか眠ってしまったのだった。




