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「え――」
エレノアは思わず顔を上げる。だがそれは、自分だけではなかった。部屋中の視線はすべて、フィオレロの母であるエスタシオン男爵夫人へと向けられていた。
男爵夫人は体を小刻みに震わせ、凍りついたように目線だけはハンカチに向けたまま、ひび割れた声を発する。
「私は調停とか和解とか、そんなこと、どうでもいいんです。あの子は――フィオレロは無事なのですか。本当に、あなたはご存じないのですか……! お願いよ、本当のことを言ってちょうだい。本当はあのお城にいるのでしょう? だって、あの子は旅なんてしたことがないんですよ! 荷物やお金も、ほとんど家に残したまま、ましてやそんな、夏でさえ凍死する場所で、こんな時期にさらに北へなんて――冗談でしょう、馬鹿げてます! 私だって、あの子がいると思ったから、やっとの思いでここまで来たのに――野盗や獣に襲われたらどうするつもりですか! あの子は花や植物しか触ったことがない、人と争ったことすらない、本当に心根の優しい子だったのに、無理よ、もしそんなことになっていたら、私はどうしたらいいんですか……!!」
「夫人――落ち着いてください」
そのヒステリックな金切り声に、隣にいた荒くれ者たちさえ押し黙り、ダニエロだけがやや面倒そうに、泣き崩れる夫人の肩を支える。
「お願いします、お金が欲しいならいくらでもあげます……、あの花蜜石でもいい。だから本当のことを教えて……、あの子はどこですか、あなたのお城にいるんじゃないんですか。お願いです、あの子を助けて。私たちが馬鹿だったんです、あんなもののために大切な一人息子を失って、それなのに主人は、何もわかってくれなくて……。私の言うことなんて、もう、何も聞いてくれなくて。……助けてください、お願いです、私は昔に戻りたいだけなんです。本当の私には、家族と畑さえあればよかったんです。本当の私だったら、働き者のお嬢さんだって言えたのに。その手を握ってあげることもできたはずなのに。なんでこんなことになってしまったの、なんでこんな、遠いところで、こんな立派なお城で、偉い方たちに囲まれて……」
夫人はえづくように、細くひしゃげた声を絞り出す。
「私は一人でいるんですか……」
「……」
その最後の一言に、エレノアは唇を噛みしめ、眉根をぎゅっと寄せる。悲痛な嗚咽が耳の奥を小さく震わせ、胸に言葉以上のものを訴えかけてくる。
ちらりとヘンドリックと視線を交わしそのままブライアを窺えば、やはり思うところは同じようだった。
「ですからねえ、夫人。何度も説明したとおり、ご子息の件は今回の調停とは別問題で――」
「グライムス大臣。男爵夫人には一度、ご退席いただいては。お部屋にご案内いたします。そちらに何か温かいものを運ばせますので、お心が落ち着くまでは」
「……あー、じゃあ、そのように」
なんとかなだめようと声をかけていたダニエロの言葉を遮り、ブライアが言い切る。ダニエロもまた内心はありがたかったようで、これ見よがしに参ったと言わんばかりに頭をかいて、どかっと椅子に座った。華奢な椅子が悲鳴を上げる。
隅に控えていたルイスがその役目を引き受け、クラウスも立ち上がった。
「僕もご一緒いたします。――大丈夫ですよ、きっとご子息様はご無事なはずです。こんなにも想ってくれる母君がいらっしゃるのですから――きっと、何らかのご加護をいただいているはずです」
クラウスが言葉をかければ、夫人ははっとしたように顔を上げ、じっと彼を見つめる。
「ああ――そう、そうね……。あなたは、息子によく似ている気がするわ……。優しくて、私が落ち込んでいるときや具合が悪いときは、いつもこうして、声をかけてくれたんです。……ごめんなさい……、参ります……」
(クラウス――)
夫人は緩慢に立ち上がり、それをクラウスが支える。クラウスはアリーチェやブライア、そして最後にエレノアにほほえむと、夫人を気遣いながら部屋を後にした。
三人が出て行った後の部屋では息をつく揺らぎが重なり、どこか糸が切れたような、伸びた空気感に満たされる。
そんな中、エレノアはおそるおそる口を開いた。
「男爵夫人……ハンナ様は、……エスタシオン男爵の訴えとは、随分異なるお考えのようですが」
ダニエロも少々思うところはありそうな様子で、背もたれを軋ませながら、踏ん反って天井を眺めつつ答える。
「そりゃまあ、母親だからな――ああなるだろう。喚き声が俺の死んだ母親そっくりで、この年になっても泣かれると堪んねェよ。まあ本人も言ってたとおり――本当に大事なモンがなくなって、ようやく目が醒めたんだろうさ。自分が腹痛めて産んだ子の方が、宮殿いっぱいの金貨袋やピカピカの石っころよりいくらか勝ってたってわけだな。旦那は――違うみたいだったが」
「それは……理解できますが、では逆に、勝っていないエスタシオン男爵が、なぜご使者まで遣わせて、躍起になってご子息をお捜しになっていたのです。このような調停まで起こして――」
「そりゃ金で買えた爵位が、一代貴族の男爵だったからでは。ここにいるお偉い皆さん方なら、その意味、わかるんじゃないんですかねぇ?」
「……!」
空席を置いて、皮肉るように荒くれ者が口を挟む。その口振りから今まさに自身に降りかかっている話に思い至り、エレノアは眉をひそめた。
「……政略結婚のため?」
「そんなとこでしょう。昔から、金を手にした人間は権力を、権力を手にした人間は名誉を欲しがるっていうでしょう? 一代限りなら、自分が生きてるうちに、息子にはもっと上の爵位を持つ家のお嬢さんと関係を持たせなきゃ。家として成り立たせようってときに、肝心の跡取り息子が旧市街の花売りなんかにうつつを抜かしてちゃ、父親としてはねえ――それに貧民の孤児の娘じゃ、売ってたのが本当に花だけかどうか、怪しいもんですからな」
「それは――その方に対する侮辱では。無礼ですよ」
リリアンを思い出し、語気強くエレノアが批難すれば、荒くれ者はいやらしく片眉を上げて大きく笑んだ。
「無礼ですよときたもんだ。人を罵倒する言葉もお上品ですな、本物のお嬢様は。ま、今の意味がおわかりになるってことは、少なからずそういう見下した認識もお持ちのようで。そんなところも本物のお嬢様らしくて、逆に安心しましたよ」
「な――わたくしは、そのような――」
「無自覚が一番、無礼ですよ? エレノア様?」
「……っ」
「エレノア様」
なお口を開こうとしたエレノアを、ヘンドリックが制する。
ヘンドリックは悠々と立ち上がると、用意されていたフレーバーウォーターのポットに手をかける。蓋を取りマドラーでゆっくりと中身を二回りかき混ぜ、音もなくグラスを起こして、漉し器を添えながら丁寧に注ぐ。その一連の優雅な所作に、見学者の方から熱のこもった息が漏れた。
エレノアは一つ息をつくと、差し出されたグラスに大量の花蜜を垂らし、一気に傾ける。清涼感のある、爽やかな香りが鼻の奥に抜けた。
「――ご子息の件は今回の調停とは別問題、でしたわね。それでは改めて、そちらの訴えをお伺いいたします」
「いい部下を持ってる。それにお前さんも、だいぶイイ性格してるみたいだな、エレノアちゃん。そんくらい図太くなきゃ、その若さで家令なんか務まらねえか。それに何より、誰の名誉も重んじてる。こんな時代じゃなきゃなあ――」
「それで?」
「あー、ハイハイ」
ダニエロは体を起こすと、テーブルの上の書類を漁り出す――が、すぐに面倒そうに放り出すと、アリーチェに向かって手招きをした。
「おい、姫。どの書類かわかんねえ、お前さんの丸っこくて小さい字は目がちかちかする。ちょこっと見てくれや」
「その呼び方はおやめくださいと何度も申し上げているでしょう! それに――」
「いいのいいの。ウチで一番優秀で、財務省の地下水脈からざばざば吸い上げできる、金のなる木だから」
(……なんて言いよう。アリーチェ様の身の上を利用して予算をせしめているのね。ひどい話だわ)
呆れたようにため息をつくエレノアとブライアに、一連の流れをただ見守るだけの法学者父子。見学者は慣れているのか、生温かい目で父娘のような二人を見つめている。
エレノアは待つあいだ頬杖をつき、それをヘンドリックにたしなめられながら書類を一枚取る。
(これかしら。……ふふ、たしかに。メリッサたちがたまに買ってくる、少女雑誌にある飾り文字にそっくりだわ。丸くて可愛い。目が慣れて書き文字に影響が出てしまうほど、アリーチェ様もお読みになっていたのかしら。お洋服の流行りの柄やディテールが載っていたり、素敵な挿絵の恋物語が載っていたり……眺めているだけでワクワクしたもの。きっとわたしも、小さな頃に出会っていたら夢中になっていたわ)
ややあって、顔を上げるとばつが悪そうな表情のアリーチェと目が合う。
その後は特に揉めることもなく、第一回目の調停はそれなりに終わったが――帰路につく頃にはエレノアも気疲れして、なんとなくぐったりとしていた。




