6
クローマチェストの墓地には、庭師が付くほどにたくさんの樹木や花が植えられている。多くは聖堂とともにあるが、生垣で囲まれ、大きなところでは迷路庭園のように造園されている場所もあるという。死者と生者を分かつ意味合いもあるというが、かつての聖堂の権威の象徴でもある。
その生垣の小路を歩き、ロゼッタの花のアーチをいくつもくぐり抜け、エレノアとヘンドリックは古木の大樹へと向かう。その傍らにはクローマチェスト特有の墓碑が規則的に並んでおり、つい目が行ってしまう。
古木の大樹を起点に、何層にも円を描くように造られた膝丈ほどの煉瓦の花壇。それが狭い区画に分けられており、区画ごと、詰め込まれるようにして花々が咲いている。その花の中央に、平石の墓碑がある。
墓碑の上部には銘々に手のひら程の木が植えられており、秋のものは花や実をつけていた。墓標の木と呼ばれ、枝に家の目印となる木札やガラス細工などが掛けられているものもある。
「クローマチェストでは、亡くなった人の魂は一度花や木に宿って、その生のあいだ人から愛でられ、現世での憂いや自らの死が慰められたのち生まれ変わると言い伝えられているけれど……わたしはやっぱり、ジャンティアナの花に宿るのかしら」
「さて――ですが生まれ変わっても、またトルテュフォレのレコンフォール家においでください」
「ええ、必ず。でもあなたもよ――ヘンドリック。あなたがいなければ、きっと次のわたしも困ってしまうから」
「もちろんにございます。また執事として、次のあなた様がお生まれになるのをお待ちしております」
時には嵐のように、時には秋雨のように――愛を交わして寄り添った夫婦にも、必ず別れのときが訪れる。
妻が命尽きる間際――その永遠の別れを嘆く精霊王に、お妃様は夫が探して摘んできてくれた、自分が好きだった花を見て慈しみ深く語った。
――わたし、次に生まれ変わるときは花がいいわ。そうしたら、時にはあなたを飾り、時にはあなたを見守って、あなたの隣でひっそりと生きていくから。そしていつかあなたが永遠の、安らかな眠りにつく時が訪れたなら、その時はまた、あなたの胸に寄り添いたい。そうしてたくさんの子供たちに二人一緒に見送られたなら、また夫婦として、次の生を歩みましょう。太陽と月と星が、春と夏と、秋と冬が、廻るように。
そうして半身を亡くした精霊王は、妻が生まれ変わったはずの花を探して世界中を巡る。
こんな小さな花に生まれ変わるはずがない。
こんなありふれた花に生まれ変わるはずがない。
こんないびつな花に生まれ変わるはずがない。
こんな棘のある花に生まれ変わるはずがない。
こんな臭う花に生まれ変わるはずがない。
こんな暗い色の花に生まれ変わるはずがない。
こんなに愛しい妻が生まれ変わるなら、きっとその花は世界で一番美しく、薫り高く、鮮烈で、気高く、目にした者すべてが手を伸ばすことをためらうような、そんな特別な花に違いない、と。
山に登り谷へ降り、河を渡って砂漠を進み、果ては海の底までも。
何年、何十年、何百年。
誰を訪ねても、どこを訪れても、そんな花は知らないという。
――無いものを求めるより、今あるものを愛でるため、住処にお戻りください。王よ。
ただ古き山の民だけが、そう諭した。
やがてその言葉のとおり、年老いて、探すことに疲れた精霊王は、最後にお妃様と過ごした小さな家に戻る。
家はとっくに朽ちており、花々であふれ華やかだった庭も雑草が生い茂り、廃墟のようになっていた。でもそれは、王も同じであった。肌は枯れ木のようにしおれ目は濁り、髪は色が抜けて灰色になり、豪華な服やマントもぼろぼろだった。
王冠さえもどこかでなくして、誰が見たって、王様には見えやしない。
お妃様を亡くし、若さを失い……精霊王は疲れて痛む体を引きずって、妻と最後に過ごした寝室へ向かう。
崩れかけた扉をくぐり、床が抜けそうな廊下を行き――記憶の片隅に残る、美しく優しい雰囲気の寝室を思い描く。
その美しい寝室は、すべてお妃様が整えたものだった。白木の麗しい調度品も、毛足の長いやわらかな絨毯も、天蓋から下がるレースや花のカーテンも。綿のクッションや絹のシーツ、真白のそれらが汚れていることなど一度もなかった。
せめて最期は、そこで迎えたい。幸せな思い出とともに。
そう希いながら精霊王が寝室の扉を開くと、しかしそこは、やはり外と同じように荒れ果てていた。天井の一部が落ち、そこから水に浸食されたのか床は腐り、どこかから運ばれた種が根付いて木が幹を伸ばし、苔むした根を這わせていた。
ベッドは――ベッドは無事だった。カーテンは半分ほどが破れ床に横たわるようにしてあったが、綿のクッションや絹のシーツはそのままだった。
自分と同じように色褪せて埃をかぶっていたが、構わなかった。
ただ、横になりたい。
倒れるように寝転がり、かつて腕に抱いた妻を思い出すように隣を見れば――濁った瞳が雪解け水で洗われたかのように、さあっと光に包まれ、視界が明るく広がった。
――お帰りなさい。ずっと、待っていたのよ。
光の中で、なつかしい声がする。
夢か現実なのかもわからない。どちらでもいい。
精霊王はその光に手を伸ばすが、光はあっという間に遠ざかってしまった。
そうして次に目を覚ましたとき、辺りは暗闇に包まれており、精霊王は慌てて部屋を見回した。しかし天井の穴から射す直線状の月光だけが、声もなく空気を割いているだけで何もない。
だが――最後に精霊王は気付いた。
自分のごくごく近く、妻の枕元に置かれた白木のサイドチェスト。その上に、一輪の花があることを。
小さなガラスの花瓶に挿されたその花は、今しがた摘んできたかのようにみずみずしく、またまばゆく咲いて、自分をじっと見つめている。
あの日、妻のために探して摘んできた、たった一輪の花。
妻が好きだった花。
この廃墟の中でたった一輪、月の光を纏ってきらきらと輝くその花は、ふうわりとした優しい甘い香りで、棘もなく、見る者の心を和らげるかのような丸いふわふわの花びらを重ねている。
――ああ、そうだったのか。
世界で一番美しく、薫り高く、鮮烈で、気高く、目にした者すべてが手を伸ばすことをためらうようなそんな特別な花は、ただ愛する者を想い、その平穏を願い、その心を託すにささやかに摘んできただけの、たった一輪の花だった。
――これでようやく、私も眠れる。
精霊王は妻の今際の言葉を思い出し、その花を花瓶からそうっと抜くと一度だけ優しく口づけ、ベッドに再び横たわる。
そして葬送の花のように胸元に置くと、目を閉じた。
時には嵐のように、時には秋雨のように交わしてきた愛を想い、懺悔し、誓った。今度こそ、君だけを。君だけを愛して、ともに生きていくと。
やがて事切れた王は、胸に添う花とともに、ゆっくりと朽ちていく。
そうして長い長い時を経て、人の世となった世界に生まれ変わった二人は、再び巡り逢う。どこに生まれようと、誰に生まれようと。
たとえそのときの記憶がなくても、惹かれ合い、恋をし、やがては愛を紡ぐ。太陽と月と星が、春と夏と、秋と冬が、廻るように、何度も――何度も。
彼らの子であり、末裔である数多の精霊たちに見守られながら――悠久の刻の中で、二人はその永遠の愛を重ね、また廻っていく。
(……だからその運命の恋人たちは、もしかしたらこの物語を読んでいる、あなたかもしれないのです)
言い伝えの元になった、精霊王とお妃様の神話の終わりを思い出しながら、エレノアは大樹を見上げる。
(……でもわたしは、お妃様の生まれ変わりじゃなかったみたい)
クローマチェストの女の子なら、誰もが一度は夢見る甘い幻想。エレノアは目線を地に落とすと、それを想いながら自らの祖らが眠る墓碑の上に、花束を置いた。
巨大な樫の古木の枝には、長い年月を経て鳥たちがもたらした別の植物が根付き、春には様々な生き物たちの息吹が宿るという。
この巨木を墓標の木とし、その根に守られるように存在する、この墓地の中でもっとも古く、もっとも大きな墓碑が、レコンフォール家の墓であった。
墓碑は年代ごと接ぎ足され、奥の方は根が被さり、苔むしていて見えない。一番新しい、磨かれた墓碑だけが、血のつながりをたしかに示してくれている。
(おじいちゃん――遅くなってごめんね。今年はいろんなことがあったの。まだ上手くできないことも多いけど……でも、エレノアは元気です。お城のみんなも、本当に良くしてくれます。――お父さん、お母さん。わたしも二人みたいに、赤ちゃんを抱いて寄り添える、温かい家庭を作れるかな。どうか……どうか、見守っていてください)
ヘンドリックと二人、静かに祈りを捧げていると、さく、と遠慮がちな足音が背後から聞こえてきた。
立ち上がって振り向けば、リュカと同じ、緋色のローブを纏った初老の男性が佇んでいる。
「クレマン様――ご無沙汰をしております」
「ああ、お邪魔をしてしまい申し訳ありません。……エレノア様、ヘンドリック様。ようこそお越しくださいました」
男性――クレマンは、この墓地の管理運営を任された、併設の聖堂に勤める司祭であった。街中にある聖堂よりも歴史が古く、信仰心の厚い者はいまだにこちらを訪れる。
エレノアが頭を下げればクレマンは心底申し訳なさそうに両手でそれを遮り、代わりに自らが頭を垂れた。
「馬車が見えたというので、もしやと思いこちらまで参ったのですが――お顔を拝見できてよかったです。先日、リュカ様とは街の聖職者の会合でお会いしたのですが……いろいろとご苦労なさったでしょう。ですが私にも、精霊様たちの戯れのお話は届いております。たいそう美しく、壮大なものであったとか」
来た道を逆に辿りながら、エレノアとクレマンは言葉を交わす。
「わたくしも、驚きとともに感動いたしました。目には見えずとも遙か古よりここにあり、このシセラスの街とトルテュフォレを見守ってくださっていたのだと。今年の牡鹿祭には、またこちらから何かお礼ができないか、リュカ様と今から相談しております」
「ああ、それは素晴らしいことです。まだ人と精霊様が近しかった頃は、ともに歌い遊んだと申しますから――同じく古より続くトルテュフォレの祝福あらば、今年の冬はきっと、穏やかなものになるでしょう」
クレマンはお人好しそうな笑みで、話の途中で何度も頷く。他人の言葉に、熱心に耳を傾けるときの癖だ。口調もリュカと同じように穏やかではあったが、いつもどこか自信なさげで、しかしそれを不快に思う人間は少ない。
「牡鹿祭といえば、お祖父様に引き続き、貧民への施しもたくさんご提供いただきまして……感謝申し上げます。食糧などはもちろんですが、お城から下げられるものは質が高いので、なんでも本当に喜ばれます。刺繍があるものは女性や子供にも好評で――以前、こういうものを作るにはどうすればいいのかと少女に尋ねられましてね。私も多少口利きはいたしましたが、今その子は親元を離れ、古着屋の下働きをしながら針子の見習いをしております」
「まあ――そんなことが。どんな形であれ、お力になれれば光栄です。子供たちがもっと学びやすい環境を、とは生前の祖父もよく申しておりましたし」
「そうですね。保護されるべき貧民とはいえ、ただ貰うことに慣れてしまった大人たちの間から、こうして時折、自らの生活を律することを願う若者や子供たちが現れる……その手助けができることは、何より誇らしいことです。生まれや年齢に関係なく、心ひとつで人生はやり直せる――それをもっと、彼らに伝えられたらいいのですが。……私もまだまだ、力不足でして」
「そんな。そうして何人もの方が救われていることは、シセラスの人間ならば誰もが存じておりますわ。敬われるべき聖職者の、鑑ではありませんか」
「敬われるべき聖職者、ですか……」
肌寒さを紛らわすように、クレマンはローブの上から左腕をなでつける。
「命尽きるまで、そう――あれればいいのですが。私もこの歳になってまだ、惑うことばかりです」
「だからこそ、クレマン様は迷える人々を導くことができるのでしょう。わたくしも含め……弱き者には、弱き者の憂いを知り、寄り添ってくれる心の支えが必要です」
「あなたの言葉もまた、弱き私の心を慰めてくれます。私が善き人であれるのは――この街の方々が、皆さん、お優しい方であったからかもしれません」
入り口近くまで戻り、エレノアが御者とやりとりしている間にヘンドリックが秘やかに墓碑の管理費代わりの金を渡す。クレマンはやはり何度も何度も頭を下げて、金の入った封筒をその頭より高く両手で掲げると、ようやく受け取ってくれた。それは誰から渡されたものであっても、少額であっても変わらない。そういうところが人々から好まれていた。
エレノアらが馬車に乗りそれが走り出した後も、深々と頭を下げて見送ってくれる。
このとき彼と話した人々は皆、自らを改めようと清々しい気分になるという。普段は隠者のように暮らすクレマンであったが、今の時期、聖堂では収穫の祝祭もあり、彼を慕う人々の足も絶えない。
不思議な人物だった。




