3
さ、さ、と窓に積もったみぞれが滑り落ちていく。落ちた分だけまた積もって、さ、さ、と滑り落ちていく。
夏が終わり、秋も盛りを過ぎた頃の夜――。
「も……申し訳ありません、ヘンドリック様。こんな夜分遅くに――見つけたときとにかくお体が冷え切っていて、慌ててこちらへお連れしてしまったのですが――」
「いや、構わない。よく報せてくれた。――エレノア様」
「……、……ヘンドリック?」
気付くとその晩は、警備隊の休憩所にいた。小さな暖炉の前で頭から毛布にくるまれて椅子に座っており、半分眠っていたようだった。室内には生ぬるい蜜酒の香りが漂っている。それは熱いものと比べると精彩さを欠き、部屋にこもった香水の臭いのように、不快だった。
「お部屋にまいりましょう。念のため、ベリンダ医師を呼んでもらっておりますから」
「……わたし……何でもないのよ。ただ、おじいちゃんが……」
「ええ、わかっております。今はとにかく、お休みになられますよう」
「……ああ、ええ。そうね……」
そういえば、先程からひどく眠い。明日の業務のためにも、早く休まなければ――とヘンドリックに促されるまま立ち上がれば、足元に見慣れぬカップが転がり、蜜酒がこぼれた。不思議に思えば、やっと両の手のひらが温かくなっていることに気付く。
「あ……」
「大丈夫です、ここは自分たちが片付けますので」
「お願いします、ヘンドリック様」
「すまない、あとで何か差し入れる。君たちがいてくれる時分でよかった――」
「……」
自分が悪いことをしてしまったのはわかる。ただ、それを誰も責めない。落ちたカップを眺めていたらなぜか涙が浮かんできて、勝手にこぼれた。
「亡くなったお祖父様を探して、城中を見て回っていたらしい」
「そんな……しばらくお姿を見ないと思ったら、気の毒に……」
「無理もないだろう。こんなに大きなものを、これから背負っていかなきゃならないんだ。まだお若いのに」
扉が閉まる直前、聞こえてきた会話が今も頭に残っている。
「たったお一人で……」
・◆・◆・◆・
「仕方がないさ――彼女にとっては唯一の肉親を喪ったんだ。体の不調には手を尽くすが、心の方はできる限り皆で支えて、時薬に頼るしかない」
「……ご臨終の際も葬儀の際も、比較的しっかりとしていたので私も油断していました。人が人の死を迎え受け入れるに、そんなはずはないのに――エレノア様のご気性を考えれば、わかったはずなのに」
「リュカ――お前のせいじゃない。エレノア様もきちんと頭では理解はしている。事実、昼間の業務に支障はない」
「それも問題なんだ――本来、そんなことができるはずがない。落ち込んで気もそぞろになって、ぼうっとしてしまったり失敗してしまったり、普通の人間なら当たり前だ。それを彼女は完璧に――それ以上にやりこなしているんだぞ。だから反動でこんなことになる――これ以上無理をさせると、本当に動けなくなるぞ!」
「……」
夢うつつに、ぼそぼそと言い争う声が聞こえる。重く腫れぼったいまぶたを持ち上げれば、天蓋の隙間からリュカがテーブルに手をついてうなだれ、嘆いている後ろ姿が見えた。
(……リュカ様。……リュカ様のせいじゃないのに……)
誰が悪いわけではない。ただ、自分が力足らずで、いろいろな人に迷惑をかけてしまっただけだ。
明日からはもっと、しっかりしなければ。誰にも心配をかけないように。誰にも迷惑をかけないように。もっと、もっと、もっと。
(だって、おじいちゃんと約束したんだもの……おじいちゃんから受け継いだもの、わたしが守るって……約束したんだもの)
またまぶたが落ちてくる。
この頃はずっと体が重くて――眠かった。
・◆・◆・◆・
「わたくしの仕事がないとは――どういうことですか?」
『まあまあ、エレノア様。ヘンドリック様も意地悪で言っているわけではないのですから。ただ、お祖父様が亡くなられてからずっと、エレノア様は一日も休むことなくお仕事をされてきたでしょう。ですから――』
「当然です! だってわたくしは――わたくしは」
「エレノア様」
ヘンドリックの低く重い声が、頭の奥に響く。
「わたくしは――大丈夫です。ちゃんとやれます! だってわたくしは――」
「どうか今はお休みになってください。以前のように、お好きな本をお読みになったり、書き物をしたり。暖かい部屋で、刺繍や編み物をするにもよい時期です。春に向け、私用の新しいお洋服を仕立てるのはいかがですか。最近はお食事の量も少ないですし、ウィシュカに頼んで、お心の安まるハーブティーやお菓子を用意させましょう。今のエレノア様には――そういう時間が必要です」
「……嫌よ……、どうしてそんなこと言うの? ヘンドリック。わたし、ちゃんとできてたでしょう? わたし、おじいちゃんがいなくても、大丈夫だったでしょう? わたし、は、……」
「――エレノア様?」
吐き気がする。耳の奥が締め付けられるようにきゅうっと痛んで、床が――背景が、天井が、瞬きとともにぐりぐりと回る。
「エレノア様!」
『ベリンダ医師を。――大丈夫ですよ、ただの目眩です。目をつむって』
「…………?」
冷たくも温かくもない蒼白い手に支えられ、まぶたを覆われる。
なんで? わたしは大丈夫なはずなのに。
なんでこんなに、体が重いんだろう。
なんでこんなに、体が動かないんだろう。
たくさん考えていることがあるのに、喉がつかえたみたいに上手く言葉にできない。
もっと、ちゃんとしなきゃいけないのに。
わたしが守るって、おじいちゃんと約束したのに。
なんで……できないの?
・◆・◆・◆・
パチパチと薪がはぜる音が聞こえる。なのに寒い。目を開くと見慣れた天蓋が見えた。今は、回っていない。
天蓋から下がるカーテンの向こうに、誰かがいる。うっすら映る影は、規則的に手を動かしている。編み物をしているのだと、すぐにわかった。
「……お母さん?」
なぜそう思ってしまったのか、わからない。ただ漠然と呟けば、影ははっとしたようにこちらを向き、カーテンが引かれた。
「エレノア――目が覚めましたか……!」
目の前に現れた女性は、よく見知った人。なのに少し、いつもと様子が異なる。いつもきっちりまとめ上げられている髪は少し乱れ、お化粧も少し荒れている。
「……ブライアおば様……?」
「起きてはいけませんよ。あなたは執務室で倒れたのです。熱もあるようですから、このまま休んでいなさい。どこか痛いとか、吐き気は?」
「いえ……そう、でした。今日は、おば様とお約束が……」
「馬鹿なことを言うんじゃありません。こんな状態で何が仕事です。それにもう夜ですよ。いいから寝ていなさい。わたくしも、しばらくこちらに滞在することにいたしましたから」
「え……」
「こんなになるまで無理をして――放っておけるわけがないでしょう」
枕元で、パシャパシャと水が跳ねる音がする。すぐに水をしぼったタオルで優しく顔が拭かれて、肌がすうっとするのが感じられた。
「……ごめんなさい……。わたし、また、ちゃんとできなくて」
「エレノア」
「わたし、……今度はわたしが、おじいちゃんの代わりに全部守っていかなきゃいけないのに。頑張らないと、いけないのに……」
「そうね。でもそれは祖父の死を乗り越え、独立して元気になったあなたがするべきことであって、おじいちゃんを探して泣きべそをかいているあなたがやるべきことではありませんよ」
「……」
「ベリンダ医師が言うには、今のあなたはお祖父様を亡くされたショックで、頭と心と体の線が上手くつながっていない状態なのだそうです。特にあなたは、その線をむりやり引っ張ってつなげていたようだから、ぶつりと切れてしまったのだろうと。でもそれなら――あなたは大丈夫。もう一度、少しずつ、つなげていけばいいのですから。自分でできないのなら、誰かに結んでもらえばいい」
「……でも、それでは、また皆に迷惑を」
「迷惑かどうかはあなたが決めることではありません。あなたの使用人たちの、誰か一人でもそのようなことを申しましたか。わたくしだって、迷惑と思うなら今ここにはおりませんよ」
サイドチェストにタオルが置かれ、その空いた手が、今度はあやすように胸の上で拍を刻む。とん、とん、と。言葉のない子守歌が、胸の――心の中に、刻まれていく。
「――可愛い小さなエレノア。今の泣きべそをかいているあなたが行うべきことは何か、横になりながらゆっくり考えなさい。わたくしも、あなたが眠るまでここにいますから」
「……」
お母さん。
・◆・◆・◆・
「こちらはたっぷりのお野菜と鶏を煮込んで抽出した黄金のブイヨンに、そのほろほろチキンとお葱や菜を加えて甘く煮込んだ栄養満点の特製スープ。お芋とにんじんをなめらかに練って味付けしたピュレはお腹に優しいですし、デザートに甘酸っぱい林檎煮もありますよ。生姜の蜂蜜漬けのお湯割りは、体も温まります。他になにかお召し上がりになりたいものがありましたら、何なりとお申し付けください」
「さ、どうぞ。エレノア様」
「……」
メリッサに促されるまま、スープをひとくち。想像より熱くてびっくりしたが、頭の中がぱあっとなって、喉からお腹までぐっと熱いものが通り抜けていくのがわかった。
「……おいしい」
ぽつりと呟いてもう一度スプーンで口に運べば、ウィシュカが感極まったかのように帽子を取り、その太くたくましい腕で目元を擦る。
「エレノア様――よかった……本当によかった……っ!」
「ちょっ、ウィシュカさん! なに急に泣いてるんですか!」
「だってねえ、お祖父様のご葬儀以来、初めてなんですよ。エレノア様が私のお料理を食べて、美味しいと言ってくださったのは。あれからどんどん食も細くなっていって、どうにかなってしまわないかと心配で心配で――だから私はもう、それだけで――」
「ウィシュカ……」
「ああもうっ。ウィシュカさんのことはいいので、お料理が冷めてしまう前にぜひ。あ、林檎はちょっとだけ花蜜を垂らすと美味しいんですよ」
「まったく、エレノア様のためにお作りしているのに、メイドたちがああでもないこうでもないと、つまみ食いばかりしましてねえ」
「私たちの方が、エレノア様の微妙なお好みを知ってます!」
「……ふふっ」
二人のやりとりに思わず笑みがこぼれる。すると二人はぴたりとその言い争いをやめ、固まったかと思えば――
「えっ……エレノア様~!」
今度はメリッサが、ベッドに顔をうずめて泣き始めた。
「メ、メリッサ」
「だって、だって――私も、嬉しくて~!」
「メリッサ……」
このときのご飯の味は、今でも覚えている。逆にそれまで何を食べて飲んでいたのか、何ひとつ覚えていないことに気付いて、少し怖くなった。
全部は食べられなかったけれど、それでも二人は喜んでくれて――それからは、ヘンドリックが言ったようにプディングやソルベのような、やわらかくて甘いお菓子やお茶も運ばれるようになった。
「……お休みをもらってから、本を読んだり、景色を見たり……ほとんど何もしていないのに、人間ってちゃんと、お腹がすくのね」
「そうですとも。食べることは生きることそのものです。美味しいものを食べて幸せな気持ちになるのは、人生は幸せであってよいのだと、糧となるものたちが教えてくれているんですな。それにいち早く気付いてしまった私は、おかげでご覧のとおりです」
「ふふ、幸せいっぱいのお腹ね。でも……じゃあ、目前にありし恵みに、祝福を……って、あのお祈りの言葉は、わたしたちに与えられるその祝福に対する、お礼の言葉だったのね」
「決して一方通行ではない気持ち――クローマチェスト人の血と日常に染み込んだ、精霊信仰のひとつでしょうなあ。人も同じです。もちつもたれつ、たまにはゆっくり、生きていってください」
・◆・◆・◆・
「エレノア様、これ」
「なんでしょう……何か、わたくしの確認が必要な書簡でしょうか?」
「いえ――」
また別の日、午後のお茶の時間に持ち込まれたのは、三枚の封筒だった。メリッサからそれを受け取り差出人を確認すれば、目の前の彼女の名、そしてクラヴィス、ナーデルと、それぞれの字でそれぞれの名が記されていた。
「メリッサ――」
「きっとエレノア様には、口でお伝えするよりこちらの方がお心に残るのではないかと、皆で相談しまして。一人一人では、こうしてお食事やお菓子をお運びする少しの時間しかおしゃべりもできませんし――暇つぶしになればと思いまして」
「そんな、暇つぶしだなんて――」
「いえいえ! 私たちじゃ、大したことは書けませんし――でもみんな、なんとかエレノア様に今の気持ちをお伝えしたくて。……ヘンドリック様には内緒なので、こっそりお読みになってくださいね」
「わかったわ。……わたしも、こっそりお返事を書くから。……ありがとう」
・◆・◆・◆・
翌年のトルテュフォレの遅い春は、自分が知る限り一番静かで、穏やかな時間が流れていた。
この時期の庭は、群れをなして咲く花であふれている。どこかから根付いた野生のハーブも萌え、とても賑やかだ。その花の雲の間を蜜蜂や蝶が渡り、小川を流れる水もようやく温み始め、小さな魚たちが時折きらきらと反射して見える。
古いベンチに座り、膝掛けの上に摘んできた花を置き庭を眺めていると、トローエルが下郭の方からやってきた。
「やあ、エレノア様。ひなたぼっこですかな。今日は立っていても眠くなるくらい、いい陽気ですからなあ――」
「トローエル。ええ、今日の仕事は昼までって、ヘンドリックに追い出されちゃったの」
「ヘンドリック様も、あれで結構心配性ですからな」
「そうね。でもわたしも――まだ少し、本調子じゃないみたい。ポプリを作ろうと思ってお花を摘んで回っていたら、疲れてしまって」
「ああ、治りかけが一番油断ならない時期です。ご無理はなさいませんよう――って、これではヘンドリック様のことは言えませんな」
にこにこと笑うトローエルにつられて、つい口元が緩む。
「でも……春のガーデン・ティーパーティーの件は、……ごめんなさい。実を言うとね……去年の夏の終わりにおじいちゃんが亡くなってから、秋の間の記憶がほとんどないの。だから、秋のガーデン・ティーパーティーも……」
「いやいや、儂らにも喪に服す時間は必要です。街の人らも、変に気を遣わせてしまっては気の毒ですし。儂も、堅苦しいタキシードから解放されてホッとしとります。たまには城の者で、このうららかな春を独占してもいいでしょう」
「まあ、トローエルったら。でも……お城のみんなだけでティーパーティーも、ちょっと楽しそうね」
「いいですなあ。メイドのお嬢さんらは大喜びしますよ」
「ヘンドリックに相談してみようかしら。みんなには、いっぱい心配かけてしまったし……わたくしのポケットマネーで」
「そりゃヘンドリック様も大喜びですよ。何かしようとする意欲が湧いてきたなら――きっと、もう大丈夫。人間の心や人生にも、自分じゃどうにもならん冷たい季節が巡ることがあるんでしょうが、……どうですかな。今日のお庭のようにぽかぽかとして、ちょっとでもあったかくなっていれば、よろしいんですが」
・◆・◆・◆・
(……ああ、この頃のわたしは、こんなふうだったのね……)
今夜は、久しぶりに楽しい気持ちで日記が書けそうだった。
あれからおそるおそるヘンドリックにティーパーティーを申し出たところ、その場では色よい返事をもらえず、やっぱり無理だろうと思っていたが――少しずつ皆の仕事を調整して、半日だけ時間がもらえた。
ウィシュカもメイドのみんなも張り切って準備を手伝ってくれた。例年のティーパーティーに比べたら、本当にささやかで、取るに足らないものだったかもしれないけど。
春一番のとれたて花蜜をたっぷり使ったお菓子や紅茶。その後の晩ごはんまで、本当に楽しい時間だった。
余分に焼いてもらったお菓子とパンは、小さく包んでカゴいっぱいに詰めて、夜警に訪れる警備隊の人たちに持っていった。お礼をしないといけない人たちがたくさんいる。それがどれだけ幸いなことだったかと、ようやく気付いた。
(……秋口は……ほとんど何も書いてない)
ただ、「今日はおじいちゃんのお葬式だった。終わった」とだけ書かれた一ページが、胸に痛んだ。
それからしばらくすると何かおかしなふうに、やけに前向きで気色悪いほど明るい文言や、落ち込んで地の底まで沈みそうなほどに暗い文言が、数日を置いて交互に、ぐしゃぐしゃに書かれている。
(……ああ、そっか)
そこで、その頃の記憶がない理由が少しだけわかった。
「……あなたにも、嫌な思いをさせてしまったわね。ごめんなさい……」
月待鳥の羽根ペンを取り、手のひらに置いて撫でる。
思い出の詰まった大切な羽根ペン。
「あなたはずっと、わたしの辛い思いや壊れた心を、一日ずつ一日ずつ看取ってくれていたのね……」
その日からは、少しずつ以前と同じような日記に戻っていった。
ベリンダにも許されて仕事に向かう時間も徐々に増え、ご飯も前と同じように食べられるようになった。
新しく出た詩集や流行りの小説を読み、談話室でメイドたちと感想を言いあった。
またあの夏が来て、ヘンドリックやリュカとともに、ようやく遺品の整理ができた。自分に背を向け涙ぐむヘンドリックに、感謝の言葉とともに身を寄せた。
それから、気付いたらいつの間にか――日常に、戻っていた。




