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エレノアは日記だけを取り出し、引き出しを戻す。机に置かれたそれを見て、クロシェットはその隣に降り立つと目をまん丸くした。
「これが、日記帳? すごいわね」
「はい。わたくしにとっては特別な時間を過ごすための特別なもの。……わたくしの、唯一の贅沢です」
特別にあつらえた装丁。この古城トルテュフォレのあるじなきあるじが持つには、きっと何よりふさわしく見えるであろう、重厚な見た目の一冊の本。
深い藍色の革の表紙。繊細なレース模様の飾り枠の内側には、優雅な曲線で描かれた花蔓と戯れる、幻想的な魚の絵がエンボス加工されている。背は箔押しされ、透かし彫りされた金色の留め具とで、月夜を沈めた海の底を切り取った一冊になっている。
「小さい頃からずっと使ってるの?」
「そうですね、紙は綴じ直しができるので手入れや補修をしながら。あと……これは祖父からの、誕生日プレゼントだったので。あいにく鍵はなくしてしまったのですが、あの月待鳥の羽根ペンに見合うようにと、ずいぶん無理なおねだりをしてしまいました……」
いとおしそうに表紙をなでるエレノアに、クロシェットもほう、と息をつく。
「あなたの持ち物がなくなるの、〝精霊様のお気に入り〟って言うんでしょう? ヴァイスから聞いたわ。きっとその日記の鍵も。違う?」
「どうでしょう、うんと小さなものでしたし。でも――探せる場所はすべて探した記憶はあります」
「そう、じゃあ間違いないわね。――でもあたし、なんとなくわかる気がするわ。エレノア。あなたは多分――心を外に、分けすぎるのよ」
「それは……なんだか、不思議な言い回しですね」
「うーん、あたしも難しくてうまく言えないんだけど。……あなたの〝心〟を分けられたモノは、きっともう二度とそれを手放したくはなくなるわ。それどころか、もっとあなたの側にいたくなるの」
「……だから大切なものほど、持っていかれてしまうのでしょうか?」
「でもそれって、誰にでも起こりうるものじゃないのよ。あたしみたいに生まれたものとも、リリアンとも違うみたい。もちろん、生まれながらの〝精霊の祝い子〟とも。……不思議だわ」
その言葉のまま、目をぱちくりとさせて見上げてくるクロシェットに、エレノアも小首をかしげる。
「レコンフォール家の人間にはたまに起こることらしいので、もしかしたら一族そろってそういう性質なのかもしれません。ヘンドリックが言うには、わたくしは特にそれが多いらしいのですが」
「そういう血筋なのかしら。でもきっとあなたがうんと愛してくれるから、このお城もここにあるモノも、あなたをたくさん想って、あなたを愛してしまうのね」
「血筋……ですか」
その日常には特異な言葉に、アーノルドの話が思い出される。秘されているにせよ無いものにされているにせよ、ヘンドリックの言い方だと何かしら理由があるのだとは思うが……しかし魔法使いや魔術師のように特殊な技能を扱えるわけでもなく、ソワレのような能力があるわけでもない。なので、いまいち思考が結果に辿り着かない。
大切なものだけなくなる――おかしな上に、非常に困った性質だ。
「でもそう言われてしまうと、次からは何かなくなっても、落ち込みも怒れもできませんね」
「そうね、どっちもしなくて大丈夫よ。前も言ったでしょ? 本当に、あなたのことが好きなだけなんだから」
「そうでしたわね……」
エレノアは困ったように笑い、日記を開く。
古紙に見せかける茶染めが施された紙は、ますますに古びた趣き。最後のページは、あの嵐の晩のものだった。
それを覗き込んでいたクロシェットが、思い出したように笑う。
「わあっ、懐かしい! あたしたちが初めて会った日ね! あの日はねぇ、昼前にシセラスに着いて、市場や広場、酒場なんかで、絵を描きながらこのお城やあなたのことを訊いて回ってたのよ。お城、黄色の山と一緒に遠くの道からずっと見えてたの。そのときから、ヴァイスはここに来るの楽しみにしてたと思うわ」
「まあ――そうなのですか? わたくしは数えるほどしかシセラスから出たことがなくて。そんなふうに見えるのですね」
「そうよ。きっと昔からたくさんの旅人たちが、遠くからこの城を見つけて、街が近付いてきたことに安堵して旅路を行ったと思うわ」
「……」
その光景を思い描くと、心だけが遠い昔に行ってしまったような、ぽっかりとした不思議な心地になる。いつかその城を見上げ、そこに在る人々の姿を想いながら旅をしていたような――そんな不思議な気持ちになる。
「旅は……楽しそうですね。もちろんそれ以上に、大変なこともあるのでしょうが」
「そうそう――特にヴァイスの場合は、行き当たりばったりなとこもあるから。あの日も、まだ日があるうちから酒場に入っちゃったもんだから、絵を描く傍ら長い時間お酒飲まされちゃってね。ヴァイス、ああ見えてお酒あんまり飲めないのよ。それで途中でうたた寝しちゃって、起きたらすっかり夜は更けてるし。酒場のおかみさんが泊まってきなって言ってくれたんだけど、それでもどーしてもお城に行くって聞かなくて。でもそしたら、途中から嵐になるわ寒いわで、あたし遭難するんじゃないかしらって本気で思ったのよ!」
「いえ、それは――本当に危険なことだったのですよ。心より、ご無事で何よりでした」
「ほんとよ、あたしがいなかったらどうなってたか……それでね、近くの精霊たちに道案内をお願いしてやっと到着~! と思ったら、真っ暗闇の中、女の子が変な男たちに絡まれてるし。――そっか。あの日のあなたの日記は、ここからなのね」
「あ……いえ、これは……」
改めて読み直してみると、ひどい内容だ。自分しか読む者がいないとはいえ、字も内容も、初等科の頃に宿題で書いたものよりもひどい。
「あまりに内容がお粗末で、お恥ずかしい限りなのですが。いつも使っていた羽根ペンをなくしてしまったことに、よほど拗ねていたのでしょう……」
「ああ~、それで次のページは真っ白なのね」
「はい。このときは翌晩に、執務に用いるのと同じ付けペンで書いてみたのですが……やはりそれでは気乗りせず、結局途中でやめてしまって」
「そう……それじゃあ今のエレノアの日記の中には、フィオレロもリリアンも、ヴァイスもいないのね……。それはちょっと、寂しいわ」
「……そうですわね。今ここには、クロシェット様もいらっしゃるのに」
言われてみれば、たしかにそうだ。眉を下げてしまったクロシェットに、エレノアも少し申し訳なさのようなものを感じてしまう。
が、クロシェットはぱっと顔を上げるとふわりと舞った。
「あっ、でも大丈夫よ、これからたくさん書いていけばいいんだから! だって――ねえ、このフェイリムからのプレゼント、絶対なにか書くものよ。長細い箱だし、羽根ペンの代わりじゃないかしら? 早く開けてみましょうよ! きっとあなたも気に入るはずよ!」
「……」
ピンク色の光とともに、今度はプレゼントの隣に降り立つクロシェット。
ランプのオレンジ色にうっすらと染まったピンクのドレスに、影を宿した濃藍のリボン。エレノアは目を伏せるようにそのリボンが結ばれた箱を見つめると、ゆるく首を横に振った。
「この箱は……開けません」
「……えっ?」
クロシェットの目が、大きく見開く。
本の小口を弄ぶ指先と、見せかけの古びた紙がこすれる音が、不安定に耳に届く。
さ、さ、と、手からこぼれる砂のように、小さな音。
エレノアはその音に導かれるように、過去の――あの頃の出来事を思い出していた。




