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手燭から机のランプに火を移す。すでに冷え始めている室内は、湯上がりには肌寒い。リネンの詰まった手提げかごをクローゼット横の鏡台の前に置いたら、カーテンを閉めタペストリーを下ろす。アーノルドやアリーチェを迎えた際、ついでに使用人分の花蜜ストーブを出したが、こちらも冷え込む朝晩は活躍してくれる。
鏡台の横にある釣鐘花をモチーフにした背の高いランプも、その花のひとつひとつを灯していく。火をつけるのに手間がかかるが、母が好んで買い求めたものだという。花が飾り彫りされたこの鏡台も母のものだった。もしかしたら、ロマンチストだったのかもしれない。
部屋はオレンジの光が多層に重なり、闇との境界をぼかしている。その色だけで温度が変わった気がする。
暖炉はもういいか、と思いながら鏡台の丸椅子に座り、持ってきたリネンを取り替えながら髪を乾かした。部屋も暖まってきて、次第に髪もふわふわになってくる。いつもまとめているので、そのまま少し癖になっている。引き出しからブラシを取り、右と左、半分ずつ丁寧に撫でた。
石けんの甘い残り香が、淡く空気に広がる。花蜜由来の優しい香りは、多くのクローマチェスト人に馴染みが深く、愛されている。
「――びっくりした、エレノアって結構髪が長いのね。とっても綺麗よ」
「クロシェット様」
鏡越しに、自分の頭からにょっとクロシェットが生えるのを見て、つい笑ってしまう。
「えへへ、来ちゃった。……フェイリムからの手紙、読むんでしょう?」
「ええ。でもその前に、なんと申しますか……禊を。とにかく一番体が清い状態で、あの封筒に触れようと思いまして……」
「やーね、新婚さんじゃないんだから! そんなことしなくても、フェイリムは気にしないわよ!」
「く、クロシェット様ったら何を……! はしたないですわよ……!」
鈍感な自分でも、さすがに今の言葉だけはその深意が理解できた。顔がかあっと熱くなり、真っ赤に染まっていくのがわかる。クロシェットは小さな手を小さな口元に当てて、くすくすと肩を揺らす。
「あたし、ヴァイスが帰ったら言っておくわね。エレノアにヘンなことしたら、ピッチフォークで刺された上にほうきで掃かれて、肉叩きで殴られるわよって」
「そ、そこまでは……もう、からかわないでください」
昼間のアレックスの言葉を思い出し、エレノアはそそくさとブラシを片付けて、逃げるようにリネンのかごを扉の横まで運ぶ。トルテュフォレのメイドは厳しく教育されており、夜から朝にかけて所定の位置に運ばれていないものの洗濯は、誰のものであろうと一切行わないのだ。朝、忘れずに運ばなければならない。
そのまま机に向かえば、そこには昼間のうちに持ち込んだ、純白の封筒とよれた封筒、プレゼントの箱がそのまま置かれていた。
(……なんだか、なつかしいな。以前はこうして、日記を書いたり本を読んだりしてた。あの羽根ペンがなくなってからは、お客様を迎えていろいろと忙しくもなったし、みんなでおしゃべりしたり、ソワレの勉強に付き添ったり……ティーパーティーの準備もあったし、監査も長かったわね)
どちらの生活がよかったかは、自分でも決めかねる。両方ともに楽しかった。ただ、〝エレノア〟としては前の時間が必要で、〝エレノア様〟には後者の時間が不可欠だった。
なんとなくヴァイスからの手紙をとって開けば、クロシェットがやってきて机に降り立つ。
「もう読んだのに、なんでそっち?」
「そうですわね……なんとなく、気分が落ち着いて。先に手紙を読んだときも、いい意味であの方らしいなと思いましたし……旅立ちの前、クロシェット様が仰ったことがようやく腑に落ちた、と申しますか。……こういうことだったのかもしれない、と」
「でしょう? 心が自然のまま、言いたいことも自由に言い合えて、それでもケンカにならないっていうのは、特別なことなのよ」
「そうかもしれませんわね……わたくしは立場上、どうしても上下関係から人との接し方を選んでしまうことが多いので。……楽しくなかった、といえば嘘になりますし」
「ふふっ、ならよかった。ヴァイスもまだ、叩き出されずに済みそうね」
クロシェットは楽しそうに笑い、からっぽのペン立てに座る。
(でも、そっか……)
食事中、想像だけで惨めな思いになってしまったことを思い出す。
(当たり前よね……そんなの、夫婦じゃないもの……)
しかしそれが分かったところで、どうすればいいのか――。
(……わたしが、欲張りなのかしら。求めすぎているのかしら……)
手紙に視線を落とし、流れてきた髪を耳にかける。そういえば自分は、両親の馴れ初めさえ知らない。だが――ティーパーティーで見た幻は、間違いなく祝福された〝家族〟の姿そのものだった。
「エレノア?」
「あ……申し訳ありません」
黙ってしまったエレノアを、クロシェットが窺うように覗き込む。
「少し、両親のことを思い出しておりました。……もしかしたら……ヴァイス様は、父に似ているのかもしれません」
「エレノアのお父さん?」
「はい。といっても……わたくしの両親は〝黒き精霊の瘟〟で亡くしているので、ほとんど記憶にはないのですが……」
エレノアは読むでもなく手紙を眺めながら、続ける。
「ヴァイス様は本当は……、相当な名家のお生まれだそうですね。それでも……絵の道を志したと」
「……うん、そうよ」
「父も同じだったんです。父もレコンフォール家に産まれ家令としての教育を受けながら、本当は仕立屋を夢見て、寝食を惜しんで学んでいたそうです。祖父ともずいぶん揉めたようですし……本人も品物も、職人組合には受け入れてもらえなかったようですけれど。でも父が仕立てたものはこだわりがあって、今見ても特別に美しいものなのです」
「そう――」
エレノアが顔を上げると、クロシェットは複雑そうな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「誰にも認められないくせに、作品だけは素晴らしいものであることまで、同じなのね」
「誰にも、なんて。クロシェット様が側にいらして、ヴァイス様はきっと救われていたと思いますわ」
「そ……そうかしら? まあ――でも、当然よね! なんてったってあたしはヴァイスの絵の具から生まれた精霊なんだし。一番理解があるのはあたしだし、ヴァイスもきっと、今頃寂しくなってるはずよね!」
「ふふ。おかげで今はわたくしが、陽気な気分にさせてもらっています」
照れ隠しのようにまくしたてるクロシェットに、今度はエレノアがほほえむ。そのままもう一度だけ手紙に目を通すと、再び折り目でたたんで封筒に戻した。
(今はもやもやしていても、仕方ないわ……。まずは、目の前にあるものから)
一度深呼吸して、純白の封筒を机の真ん中に置く。私用のペーパーナイフは、十七の誕生日に使用人たちが贈ってくれたものだ。持ち手には、髪に花を纏う精霊のお妃様が彫られたカメオが嵌め込まれている。これもひどくお気に入りなので、いつか消えてしまいやしないかとドキドキもしている。
引き出しからそれを取り出し、静かに封口に宛がう。最初だけやはり緊張したが、こちらも折り目に沿って、すうっと断ち切ることができた。
中には数枚の便箋。なぜこれが今になってここに届いたのか、不思議な気持ちだった。
「緊張する?」
「それは……もちろん。さっきから、心臓がまたどこかへ行ってしまいそうです」
「大げさねえ。ほら、早く早く!」
「ええ……」
エレノアは、促されるまま便箋を指先で抜き取る。封筒を置きクロシェットを見れば、うんうんと頷いている。
後押しされるようにゆっくりと開けば、昼間見た綺麗な字が丁寧に書き連ねられていた。早鐘を打つ心臓に、一度目をつむって左手を胸に置く。
それからゆっくりと目を開き、今度こそ、文章を追った。
今夜は風すら沈黙している。
秋の虫の声が、わずかに耳に届く。
小さなクロシェットのドレスの衣擦れの音が、やけに大きく聞こえる。
時折、炎が揺らぐ音さえ。
好きだった雨の音は今日はない。
自分の息づかいの音に、ちょっと驚く。
紙と紙がかすかに触れる。
夜鳥のふくよかな声が、数回、こだまする。
静寂。
椅子のきしむ音。
左右の足が擦れ合う音。
記憶の中の、羽根ペンの音。霜柱の音。
嵐の。
そういえば今日は――星が見えただろうか。
「――エレノア?」
不意に手紙を置いて立ち上がったエレノアに、クロシェットも顔を上げる。
エレノアはせっかく点けた釣鐘花のランプの火を今度はひとつひとつすべて吹き消すと、カーテンを目一杯に開き、窓を開けた。冷たく乾いた空気が流れ込み、髪を揺らす。
クロシェットがふわりと飛んできて、エレノアの肩に手を置いた。
「どうしたの? 手紙、読み終わった?」
「ええ――」
エレノアはクロシェットに笑いかけると、空を見上げる。
「とても――幸せな時間でした」
「エレノア――」
その瞳が潤み煌めくのを見て、クロシェットは不安そうに眉を下げる。
「クロシェット様は……羽根ペンの話を覚えていらっしゃいますか?」
「……ええ。小さい頃にフェイリムに貰って、お礼の手紙を書いた話でしょう? 返事は……そのときは、もらえなかったけど」
「はい」
頷くのと同時に、一粒、涙が落ちる。
「わたくしは、祖父の影響で幼い頃から本を読んだり、書き物をすることが好きだったのですが――あの月待鳥の羽根ペンをいただいてからは、いっそう一人で書き物に向かう時間が増えたように思うのです。特に、夜から深夜にかけて向かう日記は――わたくしにとって、なくてはならないものになっていました」
「それは……素敵なことだと思うけど。違うの?」
「いいえ、とても素敵な時間です。あの美しい青の羽根ペンで、大好きなジャンティアナの花のインクで、自分しか読まない、自分だけの文章を――記憶や心を綴るのですもの。嬉しかったこと、楽しかったこと。悲しかったことや、腹立たしかったこと……どうにもならない気持ちも。わたくしは……あの羽根ペンとともに、紙の上で人生をもう一度過ごしてまいりました。わたくしがわたくしであるがまま、飾らず、正直に」
「うん……」
「祖父が亡くなってからも……。……唯一の肉親を亡くしたわたくしには、もう誰も、その日の行いが正しかったのか間違っていたのか、教えてくれる人はいない。これからは一人で、すべてを判じていかなければならない。その責も咎も、すべてをこの身ひとつで負わなければならない。それでもレコンフォール家の人間として、祖父から受け継いだものを守らなければと――そう思えば思うほど体が動かなくなってしまって、怖くて。――何より、この城のどこにも、もう祖父はいないのだと思うと、悲しくて、寂しくて。周りが見えず圧し潰されそうだったとき……わたくしはやはり、あの羽根ペンを手に取っていました」
「……」
エレノアは少しうつむいた後、窓を閉めて、もう一度カーテンを引く。
母の釣鐘花のランプの灯が消えたぶん暗く、寒くなってしまった部屋で、エレノアは再び机に戻る。
木目の美しい、黒みがかったローズウッドの古い書斎机。引き出しの取っ手は鈍い金めっきの金具が付いている。
「内緒にしてくださいね」
「うん?」
エレノアは肩のクロシェットに向かって人差し指を唇の前で立て、背後のガラス張りの本棚に向き直る。その片隅に無造作に並べられたジャンティアナの花のインクボトルの中に、ひとつだけ紛れているソルオータの花のボトル。蓋を取って左手の上で逆さまに振れば、ガラスと金属が触れ合う音とともに、小さな鍵が手のひらに落ちてきた。
「ああ、そういうことね……!」
「はい。机の引き出しのひとつは鍵が掛けられるようになっているので、隠してあるのです」
「わかった、二人だけの内緒話ね!」
その鍵を、机の右側の、少しめっきの剥がれた取っ手の鍵穴に差して回す。
そのまま引き出しを開ければ――中には美しい日記帳と使い掛けのインクボトル、そしてプレゼントによく似た、からっぽの古びた箱が並べられていた。




