4
アーノルドの消えた執務室は、再び見慣れた姿で真のあるじを迎え入れてくれた。
座り慣れた椅子と、祖父から受け継いだ事務机。過ぎた時を帯びた木の風合いも、薄い傷も、大好きだった。
その上には今、五枚の封筒とひとつのプレゼントが並んでいる。そして隅っこには、アレックスが応接室から運んできた、よれた名簿。
名簿の上には、亀の姿になったアレックスが文鎮となって鎮座している。とりあえずそれは無いものとして、エレノアは改めて封筒を見比べた。
「……どれから開封したらいいのか、わからないわ」
『もうその台詞も三回目です。いっそ目をつむって、適当に指さしたものから開けるとかどうですか?』
「なっ、なんてことを! そんな無礼なことはできません!」
『やれやれ、このままでは日が暮れますよ』
「……うーん」
エレノアは背もたれに寄りかかり、手を口元に当てて考える。やはり位の高い順だろうか。しかし――。
(それだとフェイリム殿下からのお手紙になってしまうわ……! だめ、心臓がもつ気がしない。残りのお手紙を読むのにも支障をきたすわ、絶対)
無言のままぶんぶんと頭を横に振るエレノアに、いよいよヘンドリックが口を出す。
「エレノア様。さしあたって、調停に関わりがありそうなヴァイス様、ライオネル大公家からのものからお読みになってみては」
「あ……そっか。そうよね……!」
感情ではなく現状を優先させた、説得力のある助言。エレノアはそう自分を納得させて、そろそろとくたびれた封筒に手を伸ばした。引き出しからペーパーナイフを取り出し宛がうが、なぜか緊張する。
「深呼吸……深呼吸……」
『動揺しすぎでは。よほど縁談の話が堪えたのでしょうな。そこにきて、初恋の君からの便りとくれば……恋する乙女ですなあ』
「やめてちょうだい、もうっ。――あ」
声を上げた瞬間に、勢いでペーパーナイフが滑る。ただ開封だけは無事にできたので、仕方なく、ぺらりと入っていた一枚の便箋を取り出し……広げた。
〝エレノア。長く留守にしてすまない。そちらはみんな元気か。俺の道具はちゃんと管理しているだろうな。いや、お前なら大丈夫か。
フィオレロたちは無事に祖父さんたちのところへ送り届けたぞ。代わりにとんでもない歓迎を受けてな、しばらく引き留められるはめになった。
だがこちらはこちらで面白いんだ。建物や植物も、そっちとは少し様子が違う。毎日飯と寝床だけは用意してもらっていたから、思う存分スケッチできた。
フィオレロはもう祖父さんの元で仕事を始めた。リリアンも祖父さんと祖母さんからずいぶん可愛がられている。今は冬支度の真っ最中で、村の女衆総出で準備しているが、そっちとも上手くやっていけそうだ。
リリアンが成人したら、こっちで結婚するそうだ。上手くいくといいな。
俺の方も、少し用事を済ませたらそっちへ帰る。
ただちょっと変わったことがあってな。クロシェットがやきもちやいて、城に帰ると言ってきかないから先に送り返す。よろしく頼む。
なんというか、帰る場所があるというのは いいな。じゃあ、またな。 ヴァイス〟
一度荷造りのときにも見ていたが、ヴァイスらしい、大らかというのか大雑把というのか、風のように流れる字。文体は簡素だったが、なんとなく頭の中で、彼が喋っているかのように錯覚してしまう。
(ああ、この懐かしい感じ。なんだか、気張っていたのが馬鹿みたいね……)
自然と頬がゆるむ。
手紙を書くときはなんとなく改まった言葉遣いになるもののような気がするが、ヴァイスの場合はじかに接しても手紙で触れても、あまり物言いは変わらないようだ。
手紙を置くと、ヘンドリックも少しだけその表情をゆるめていた。
「ヴァイス様はなんと?」
「――フィオレロ様とリリアン様は、無事にお祖母様の生まれ故郷に到着したそうです」
「そうでしたか。それは――何よりでした」
ヘンドリックが笑んだのを見て、エレノアも体の力を抜く。
「とっても歓迎されて、しばらく引き留められていたみたい……フィオレロ様はお祖父様たちとお仕事を始めて、リリアン様もすごく可愛がられているって。ヴァイス様はずーっと絵を描いていらしたようだけど。まったく、あの方らしいわね……ご迷惑をおかけしていなければいいのですが」
『便りがないのは元気な証拠、とはよくいったものですな』
「本当に。少し用を済ませてから帰る、ですって。……でも、これがよくわからないのよね。クロシェットがやきもちやいて、城に帰ると言ってきかないから先に送り返す、よろしくって。……やきもち?」
『ほう? 画家様もそちらで好い人でもできたのでは?』
「えっ?」
『いやなに、冗談ですよ。もし本当にそうだったら、それこそここにはお帰りにはならんでしょう』
「あ、そう……冗談ね。冗談」
しかしなぜか一瞬、心が曇った気がする。
(結婚話のせいで、ナーバスになり過ぎているのかもしれないわ……)
エレノアはなんとなく手紙をもう一度読み直し、折り目のままに丁寧にたたんで、封筒の上に置く。
何より、無事で、元気そうでよかった。とりあえずご飯が食べられて、眠る場所があるなら安心だ。
ふう、と息をついて、次の封筒を取る。
「……次はライオネル大公殿下と、お家を継いだご子息様からのものね……。連名の女性は奥様かしら……レオニクス=ライオネル、オリビア=ライオネル。お父様がご存命のうちにお家を継がれたのよね」
『政変のゴタゴタもありましたからなあ。ご子息ともども、後継者争いから身を引く意味もあったかもしれませんよ』
「そっか……大公殿下とご兄弟とも、〝精霊の祝い子〟っていっていたものね」
アーノルドと話したときのことが思い浮かぶ。市民議会ともそれなりの関係を築き、今は王家に代わり公式行事に出席しているという。
エレノアはあのとき過った不穏な考えを振り払うように軽く頭を振り、もう一度封筒を見比べる。
どちらから開けようか迷ったが、差し障りのない方からと思い、子息であるレオニクスからの封筒を選んだ。
今度はスムーズに開けられた。中には数枚の便箋が入っており、開いてみれば、生真面目そうなかっちりとした字が並んでいる。
「レオニクス様は……ご当主になった際に公爵に陞爵なさっているのね。王国騎士団にいらっしゃるってことは、騎士爵もお持ちでしょうし。真面目そうな方だわ……」
手紙を書いたとき、王都の方は晩夏の頃だったのだろう。これから訪れる季節の変わり目と、北国の秋に触れた時候の挨拶に始まり、特異な差出人であったため家内で手紙を読んでしまったことと、それに対する謝罪が簡潔に、しかし丁寧に記されている。
それから妻たっての願いでペンを取ったこと、父もどうしても手紙を出したいと言うので、金銭に関する話は父の方から、ともあった。
(……やっぱり、わたしの思い違いだわ。わたしのような者に、こんなにへりくだって……)
エレノアがじっと便箋を見つめていると、アレックスから催促が入る。
『それで奥方様までなぜ?』
「ええと……待って。……よくわからないのだけど……文通相手になってくれないかって……」
「文通?」
ヘンドリックが怪訝そうに眉を動かす。
「ええ……。なんだかまれに見る古式ゆかしい? 文面に、奥様と大公殿下が感動なさったそうで……。あのお詫び状を、家中で回してお読みになったそうよ……」
『それはまた……晒し者ですな』
「恥ずかしい……。でもそうしたら文官だった奥様が、この方の綴る文字で美しい詩が読みたい、見たことのない遠い北国の情景を、美しい文字で描いてほしい、娘が大きくなったらこの方の書いた字で学ばせたいから、と……」
『なるほど、それで文通ですか』
「えっと……こういう場合、どうしたらいいの?」
まったく予想していなかった事態に、エレノアは困ったようにヘンドリックを見上げる。
「文通自体は悪いものではないと思いますが。貴族名家のご令嬢の、社交のひとつにもなっておりますし」
「だけどお相手の格がわたしとは違いすぎて……本当にいいのかしら」
「であるからこそ、こちらからお断りすることも難しいかと。わざわざ連名にしてきたということは、単なる社交辞令とも異なるでしょうし」
「そう、ね……。なら前回のお手紙では触れられなかったお嬢様のことや、今回のお申し出に対するお礼くらいなら、奥様宛てでお返事しても失礼に当たらないかしら。あとは時候の挨拶にこちらの風景のお話を混ぜたりして」
「はい。それでまたお返事がいただけるようであれば、本格的に考えてみるのもよろしいかと」
「うん、そうする……びっくりした」
便箋を封筒の上に置き、エレノアは一息つく。
『エレノア様は、昔から字がお上手でしたからな。書き物を好んでいらしたことも大きいのでしょうが、字は、見る人は見ますからなあ――貴族のご令嬢ともなれば、字が上手いことはひとつのステータスにもなり得るでしょうし』
「そういうものなのね……」
椅子に座り直し、次の封筒を手に取る。
大公ライオネル――その人間から私信を頂戴した人間が、国中にどれだけいるだろう。
相手が相手なだけに、一度肩の力を抜き、それからペーパーナイフを入れる。封筒を押さえながら、余分な力を入れずに、すうっとナイフをスライドさせる。
そして――中身を取り出したエレノアは、一瞬固まったのち、何も言わずそのまま中身を封筒に戻した。
「エレノア様?」
「駄目よ、無理だわ。受け取れない」
『またそんな。手紙も読まずに』
「違うのよ……違うの。お手紙じゃないのよ……」
エレノアは震える手で封筒を取り、ヘンドリックに差し出す。
「失礼いたします」
ヘンドリックもまた同じように中身を取り出し――息を呑んだ。文鎮と化していたアレックスも鶺鴒の姿になってヘンドリックの肩に留まり、それを覗き込む。
『――驚いた、割り符じゃないですか。しかも金貨の上の上金貨ときた! 一片上金貨十枚で、証紙一枚が五片に割れますから、全部でいくら分ですか?』
「十枚ある。上金貨五百枚、シセラスなら屋敷が建つな……」
『馬車もいっておきましょうか』
「馬鹿馬鹿、ヴァイス様のせいよ。いえ、わたくしがあのとき、まんまと騙されて請求書に数字を記入してしまったばっかりに……そのお詫びのつもりだったのに」
エレノアは頭を抱えこむ。アーノルドがいなくて本当によかった。いや、むしろ今はいてくれた方がよかったのか。
〝割り符〟はもともと、高額取引や金の借入、返済などで用いられていた、木や金属でできた証文だ。二つに割れるよう切れ込みがあり、販売者と購入者、あるいは債権者と債務者間など双方で、ものの売買や交換、借入や返済の証として半分ずつ所持する。割った面がぴたりと合うことが信頼の証であり、複製が難しいことから、そういった場面ではいまだに用いられていることもある。
が、今回受け取ったのは、そこから派生した小切手の一種である割り符だ。額面が大きくて一度に換金できないおそれがある場合、相手の都合に合わせて扱ってもらいたい場合などに用いられる、いわば分割型の小切手だ。
たいてい一枚は五片に分けられるようになっており、一片あたりの金額は自由に設定できるが、今回送られてきたそれは、おいそれと受け取れる額のものではない。
「エレノア様――とにかくお手紙を」
「え、ええ……」
返された封筒をおそるおそる受け取り、便箋だけを取り出す。獅子の意匠があしらわれた、威厳と品格ある装飾。文字も堂々としていながら、繊細さも感じられた。
レオニクスと同じく簡単な挨拶に始まり、久々に愉快な気持ちでペンを取ることができたと書き添えられている。
「ああ……あのお詫び状をこんなにお褒めいただいて……。恥ずかしいやら情けないやら嬉しいやら。もう何も考えられなくなってしまいそう」
『ふむ。エレノア様の書かれるものの原形はお祖父様の教育によるものですし、年配の方には特に評判がよろしいのでしょうな。今のお若い方たちとは多少異なるでしょうし』
「そりゃあリンや友達に出す手紙とは違いますもの。……古臭いかしら……?」
『それがいいと仰ってくれているのでしょう? 案外、古城トルテュフォレにふさわしいスタイルかもしれませんよ』
「そう言われると、やっぱり……嬉しいわね」
――おじいちゃんが、認められたみたいだ。
そう素直に感じられて、笑みがこぼれる。
読み進めていくうちに、話はヴァイスのことへと変わっていった。




