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それからのエレノアの記憶はぼんやりとしたものになっている。気付けばヘンドリックとリュカとともに玄関で侯爵家の馬車を見送っており、結局、名簿の名前は直接関わったアーノルド以外覚えていなかった。
「あら、そういえばわたくし、あの名簿どうしたかしら……」
「エレノア様のものは応接室の机の隅に置きっぱなしで、アレックスが覗いておりました」
「あら、そう……」
今日も黄葉樹が綺麗だ。
「……どう思う、リュカ」
「理解はできますが、納得はできません。男親のさがと言われてしまえば、それまでですが。名簿をご覧になりましたか? エレノア様の倍以上の年齢の男まで候補に挙がっていたのですよ。恥知らずな。資産にものを言わせて、若い女性とトルテュフォレの権威を手に入れようとしている魂胆が丸見えです。穢らわしい」
「……気持ちは、わかる」
リュカの顔と声が怖い。ヘンドリックも、心底参ったといった面持ちで、目を閉じ頷いた。
リュカは一度深く息をすると、いつもの穏やかな笑顔でエレノアに向き直った。
「いいですか、エレノア様。ご無理はなさらないよう、まずは気持ちを落ち着けて。結婚相手のことはひとまず置いておいて、先に調停の方を片付けてしまいましょう。焦りに任せて決断しても、いいことはありません。一生の問題ですから、些細なことでも違和感のある殿方には、絶対に身を任せてはいけませんよ。あなたはいわば、高嶺の花です。摘みにくる相手より、隣で寄り添ってくれる相手を見つけましょう」
「リュカ様……」
エレノアが不安げな顔を上げれば、リュカは深く頷いて、幼いときと同じようにそっと抱き寄せてくれた。あなたは愛されるべき存在であるから、絶対に自分を傷付けるような真似はしないようにと。両親の代わりとなって、無償でそれを伝えてくれる。
しかしリュカがそれを伝えてくれるときは、何かの節目になるときが多かったような気もする。人生が大なり小なり動く時――ならば今も、そういう時なのだろう。迷う船を導く、灯台のようだとふと思った。
リュカはそれ以上を口にせず、ただ笑むと聖堂の方へと帰っていった。
(そんな魅力的な花で、いられればいいのだけれど。……わたしの価値って、なんなのかしら)
ともかく、アーノルドをからかっている場合ではなかった。同じ問題が今、自分にも降りかかっている。
そのままつくねんとしていると、旧道の登り口の方から小気味よい足音とともに、元気のいい少女の声が聞こえてきた。
「わっ。皆さん、こんにちは! ヘンドリック様にエレノア様まで――どうなさったのですか? 偉い方総出でお出迎えされると、なんだか照れてしまいますね!」
「――あら、いらっしゃい」
少女は金茶色の刺繍が施された赤のケープコートから腕を伸ばし、ゴーグル付きの紺のマリンキャップを持ち上げ挨拶を行う。ケープコートの下からは、左右に斜め掛けされた大きな鞄と小さなトランクが見えていた。
その特徴的な色合いの制服は、クローマチェストの郵便事業を一手に担う国営の王国郵便公団のものであり、少女もまたそのシセラス局に所属する顔なじみの配達員であった。
しかし彼女の場合、その目立つ色合いの制服よりも、耳の上から伸びる、山羊に似た丸くねじれた角の方がよく目立つ。
彼女は古来よりこの辺りの山を住処とする、山の民の末裔であったそうだ。とはいえ両親は普通の人間であり、本人も何も知らないまま、昔に混じっていた先祖の血がたまたま色濃く現れたらしい。そしてその種族の特性からか、健脚者であった。
以前の配達員は祖父と同世代の人間で、ベテランではあったが高齢でもあったため、エレノアに代替わりする際に局の方でも同じように若返りを図り、その才能が抜擢されたようだ。
金属製のネームプレートにはジュリと刻印されており、その下には、勲章のようなバッジが堂々と付けられている。
少女――ジュリの底抜けの明るさに、エレノアにも笑みが戻る。
「毎日ご苦労様です。大きな荷物があると、登ってくるのも大変でしょう」
「とんでもない、シセラス局では一番の名誉ある配達区域です。先輩の意思を継ぎ、精一杯お務めさせていただきます! ――それでは本日は通常の郵便物とともに、特殊恭敬郵便でのお荷物をお預かりしておりますので、登録印での開錠をよろしくお願いいたします!」
「特殊恭敬郵便?」
その単語に、エレノアは途端に現実に戻ったかのようにぱっと目を見開く。突然周囲の音が戻り、意識と体の線が繋がったかのように、頭が回転し始める。ジュリの纏うケープコートに、自然と目が行く。
刺繍が施されたコートと堂々たるバッジは、その郵便物を扱う資格を持つ局員だけに与えられる、名誉ある証。
「――ヘンドリック」
「はい、ただいま」
ヘンドリックは手袋を取り出しながら、玄関近くのチェストへと向かう。そして鍵付きの引き出しからレコンフォール家の紋章が刻まれた印章を取ると、こちらへ戻ってきた。エレノアは手の仕草とともに、ジュリを中へと促す。
「どうぞこちらへ」
「ありがとうございます。今日は特に厳重にお運びするよう、局長から言いつかっているんですよー。私もドキドキです。やっぱりお城はすごいですね!」
「……!」
その言葉に、ますます確信めいたものがエレノアの胸の奥から湧き上がる。
逸る気持ちを抑えてロビーにあるローテーブルまで案内すると、ジュリは小さなトランクをショルダーストラップから外し、しゃがみながらテーブルの上に大切そうに置く。そしてまずは自らが首から提げた鍵を用いて重そうな錠を外し、蓋を開けた。
中は二重になっており、そこにはさらに小さな黒木の函が収まっている。本来蓋止がある場所には丸いくぼみがあり、ヘンドリックがそこに印面を触れさせると赤と青の光の魔方陣の線が函全体に奔り――それが消えると、かしゃりと音を立てて開錠を知らせてくれた。
ジュリは立ち上がり、一歩を下がる。
「ありがとうございます! すべてエレノア様宛てとなっておりますので、どうぞ、ご本人様がお受け取りを!」
「ありがとう。では――」
中には手紙が五通。そして深みのある青藍のリボンと、あざやかな黄や橙色の、秋の葉や実の飾りが結ばれた細長い上等な箱がひとつ。麻紐でくくられた、今にも潰れそうな小さな紙の箱がひとつ。
(なんだろう。リボンの方は――プレゼントかしら? 誰から、誰に?)
よくよく考えればすべて自分宛てのものだと言われているのだが、エレノアは気付かない。ヘンドリックが銀盆を運んでくれたので、エレノアはまずその箱を丁寧に取り出し、預けた。
それから紙の箱を取れば、
「あら?」
「早く開けて!」という小さな小さな文字が、隅っこに書かれていることに気付く。
「見て、ヘンドリック。ここ」
「なんでしょう。……念のため、私が開封いたします」
字はおそらく鉛筆で書かれたものだと思うが、線が震えていてなんとも頼りない。ヘンドリックにも示せばやはり小首をかしげたのち、銀盆を隣のテーブルに置くと、慎重に箱を受け取り麻紐をほどき始めた。
「わわっ、私、もしかしてヘンな物を運んできちゃいました!? 一応、呪物検査などは通してあるはずなのですが――」
「いや……これは……。エレノア様」
薄い箱のふたを開いたヘンドリックは、中身が見えるよう向きを変えると、エレノアの方にそっと滑らせる。それを承けて、エレノアもゆっくり箱を覗き込んだ。
中には――見覚えのある画材工房の花蜜絵の具が一本、同じ色のふわふわとした綿に包まれてあった。一度も使われていないのか、かっちりと閉められた蓋も真白く、チューブも丸みを帯びたまま。他の色に汚されることもなく、色のサンプルラインがはっきり見てとれる。
キャンディのような、甘酸っぱいピンク。
これは――
「まさか――クロシェット様!?」
エレノアが両手で箱を包むのと同時に、その小さな箱からピンク色の光の粒があふれだす。そして、
「気付いてくれてありがとう、エレノア! さすがよ! 嬉しい!」
懐かしい鈴のような声とともに、出会ったときと同じ、リボンとフリルがいっぱいの愛らしいドレスとボンネットを纏ったお人形のような少女が、光の中から飛び出してきた。
「クロシェット様――本当にクロシェット様なのですね! お久しぶりです、お帰りなさいませ……!」
「そうよ――ただいま!」
一心に胸に飛び込んできたクロシェットを受けとめ、つぶさないようにそうっと抱きしめる。ふわふわのドレスの感触が、なんだかすごく心に優しく感じられた。
「せ、精霊――!? 郵便で!?」
「……」
あたふたとするジュリと、深く鼻から息を抜くヘンドリック。クロシェットは満面の笑みのままふわりと浮かび上がると、ヘンドリックの前でちょっとスカートをつまみ、お辞儀をした。
「あなたもお久しぶりね、ヘンドリック! 他のみんなもお元気かしら? 大変、コックのところへ行って今日はごちそうにしてもらわなきゃ! ねえねえエレノア、あたしがいない間に、何か面白いことあった? ううん、それはお城の精霊たちに訊くからいいわ。それよりこれからの方が大事よね? だってついに、フェイリムからのお手紙が届いたんですもの! あ、一応ヴァイスからのお手紙もあるのよ? どっちを先に読む?」
「――っ……!」
ころころと変わる表情、話題。そしてその名が口にされ、エレノアは慌てて残りの手紙を手に取った。
それぞれ差出人を確認すれば――そこには、信じられないような名前ばかりが記されている。
「何かしら……何かしら、これ。わたくし今、夢を見ているんじゃないわよね? 幻を見ているんじゃないわよね?」
「大丈夫ですよ、エレノア様! 私にもしっかりと見えております! そりゃあ驚かれますよね。局の方でも局長以下、事務のお姉さんに至るまで一時騒然となりましたもの!」
「そう? そうよね……。……深呼吸」
ジュリにそう言われ、自分だけではなかったとなぜか変な安心感を持ちながら、エレノアは大きく深呼吸をする。
でもなぜか今日は落ち着かない。余計に胸が高鳴り、熱がこもったように全身が火照る。先程まで封じ込めていた感覚の何もかもが、反動でおかしくなってしまったようだった。
手に汗をかいていそうで、ハンカチを取り出し、再度差出人を確認しながら一枚一枚、銀盆に乗せていく。
傷ひとつない、張り詰めた氷原を切り出したかのような純白の封筒には、花樹鹿をモチーフとした赤の細緻な封蝋。雄々しい角にやわらかな花を豊かに宿し、太陽を戴く王家の紋章。
差出人はフェイリム=クローマチェスト。
そして弟君である、アレスティア=クローマチェスト。
それよりもやや小振りな二枚の封筒には、同じく角に蔦の葉を絡ませ、盾を戴く大公家の紋章。差出人は一枚は先の当主である大公ライオネル、そしてもう一枚にはそのご子息である現当主と、夫人と思われる女性の名が連名で記されている。
最後は――ありあわせの紙で作られたようなくたびれた封筒に、住所も何もなく、ただ走り書きのような字で〝ヴァイス〟とだけ記された、封蝋だけが立派なもの。
計五通の手紙を銀盆に置いたところでエレノアはゆっくりと立ち上がり、呆然とヘンドリックに問うた。
「なんなの、この並び?」




