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場の雰囲気が変わる。特にヘンドリックとリュカの纏う空気が固くなったのを、エレノアも肌で感じた。
クラウスはアリーチェのことを想ってか、両手を組んで座り直すと、うつむき加減に話し始める。
「最初は多分、アリーチェ本人が言っていたとおりただのやきもちだったんだと思う。でもそこにつけ込んで、アリーチェに悪巧みを吹き込んだ人間がいると思うんだ。義兄さんの件も見込んで、ね」
「……ティーパーティーのとき、たしかに何かあるとは感じたけれど。アリーチェ様の言葉そのものが真実でないとしたら、でも――なんのために? トルテュフォレは王都からも離れた、古いけれど平和な城よ」
「それは僕もわからない。アリーチェにそれとなく訊いてみたけど、誰かは絶対に言わなかったよ。泣いてたから要領を得ないところもあったけど……相手は僕のことも知っているから、言えないって。それからは、なんて馬鹿なことをしてしまったんだろうって、謝るばっかりになっちゃって。だから多分、アリーチェをそそのかしたのは王都の……イラーリア家のことを恐れないか、敵対している立場の人間だと思うし、アリーチェ自身も今になって怖くなっちゃったんじゃないかな」
「アリーチェ様……あなたを護ろうとしているのね。だとしたら、そんな人とはもう物理的に関わらない方がいいもの」
クラウスは紅茶を含むと、少しだけ困ったようにほほえんで頷く。
「でもそれだけじゃないよ。怖くなったのはきっと、エレ姉さんが――」
「え、わたし?」
「そうだよ。きっとエレ姉さんが優しかったから。……アリーチェ、年上の女の人にあんまり優しくされたことがなくて。ほら、エレ姉さんが前にアリーチェのことを褒めてくれたでしょう? 僕、それをアリーチェに伝えたんだ。そしたら――エレ姉さんが本当のお姉さんだったらよかったのにって。面白くて、優しくて、字も綺麗で。だからきっと、エレ姉さんに嫌われるのが同じくらい怖いんだと思う。もしエレ姉さんが許してくれるなら、こっちで母さんとエレ姉さんにいろいろ教わって過ごすんだって、泣いて聞かなくて。今は落ち着いてるけど、落ち着いたぶん思考と行動が速くなって、手続きとかの下準備も始めてるから……本当に帰らなさそう……」
「あら……まあ。それは、あなたには申し訳ないことをしてしまったわね……」
ついに両手で顔を覆うクラウスを前に、何かそんなに面白いことがあっただろうかと腑に落ちない部分も若干残しつつ、エレノアはブライアを窺う。母は母で手で額を押さえ、呆れのような諦めのような小さなため息をつき、そしてその渋い表情のまま、エレノアに問うてきた。
「――それで、実際どうなのです」
「……」
エレノアはヘンドリックと視線を交わす。
「……おば様は今回の件、どうお聞きになっていらっしゃるのですか?」
「そうね。貧民の娘とかけおちしたエスタシオン男爵のご子息を、あなたが手引きして逃がしたのではないかと。このシセラスまでは、そのご使者がたしかに追っていたそうで」
「……」
妙に含みのある言い方に、エレノアも表情を翳らす。あの荒くれ者たちと、すでに顔を合わせているのかもしれない。
「捜索の際この城を訪ねたところ、無礼な物言いと手荒な方法で嵐の中を追い返されたとか申していましたが――どうも目的はそちらではなく、やはり行方をくらましたご子息の方のようね。先程は代理人と言いましたが、実はすでに男爵夫人がこちらにいらして逗留しています。とにかくあなたと、じかに話がしたいと」
「――フィオレロ様のお母様が!?」
「エレノア様」
「エレノア――あなたやっぱり、かくまっていたのですね!」
「あ」
ヘンドリックの制止も甲斐なく、エレノアはしまった、と目を泳がせ身を縮める。慣れ親しんだ相手で、つい気がゆるんでしまっていた。
真っ先に考えたのは、母にも近しい存在のブライアに「怒られる」という子供じみたことだったのだが、それをかばってくれたのはクラウスだった。
「大丈夫、母さんも僕もなんとなくわかってたよ。だって話を聞く限り、あの〝午前様の夫婦喧嘩〟の中、エレ姉さんがそんな恋人たちを見捨てて追い返すわけないじゃないか。ちょっと調べてみたら、捜索人の公示も出されていなかったし――でも、今みたいなのは気をつけた方がいいよ。全部記録に取られるから、一度言葉にしてしまうと、後々大変なことになるかも」
「そ、そうなのね。気をつける」
「それで、そのご子息と恋仲の方は?」
「今はお祖母様の故郷にいらっしゃるはずよ。実は……その夜、一緒にお迎えした旅の画家様が、自分は旅慣れているからとお二人を引き受けてくださったの。あとは隊商の旅人に混ぜてもらって」
「ああ、それでティーパーティーにはいなかったんだね。それで――その人は、本当に信頼できるの?」
お日様のような、まっすぐな琥珀色の瞳がエレノアを見つめてくる。心配してくれているのだろう。
ヴァイスと過ごした時間は長くはなかったが、ひとつひとつのことがとても印象的だった。じかに接して見た部分も、絵を通して見た部分も、自分にとって、決して悪いものではなかった。
「……ええ。口は悪いし態度も大きいし、生活能力はないし、自分勝手でどうしようもない人だけど。わたしは、信じてるわ」
「うん――そっか。なら大丈夫そうだね」
そこでクラウスは、安堵したように体を起こし、何か楽しそうに笑った。
「ご無事ならそれが何よりだよ。でも――やっぱり今のは、知らぬ存ぜぬを貫いた方がいいかもしれない。状況にもよるけど、公示がないならないで、今度は誘拐だとか騒がれたら面倒そうだ」
「……そこまで、する?」
「変な話――今のエスタシオン男爵は、その辺の侯爵伯爵位の貴族より資産もあるし、多少のお金を使ってでも勝ち負けにこだわるなら、やってみるかな。僕なら」
〝調和と和解〟とはなんだったのか。ブーツの先でアレックスをちょんちょんとつつけば、不服そうな猫の声が返ってきた。
それにしても、今日はやけにクラウスが頼もしく見える。
「やっぱり大学はすごいところなのね……わたしなんて、今の話だけで精一杯なのに」
「そんなことないよ。エレ姉さんにはエレ姉さんのすごいところがある。僕はちょっとだけ専門的な勉強をして、ちょっとだけ慣れてるだけだよ」
「そのちょっとが、大きいのよ。わたしは話しているだけで、全身の力を消耗してしまいそう」
それを補うように菓子を摘まむエレノア。するとブライアがクラウスに目配せして、置きっぱなしの鞄から、数枚の書類をまとめたような薄い紙の束を取り出させた。
「――では少し、愉快で楽しい話もいたしましょうか。ヘンドリックとリュカの分も写してありますから、目を通しながら聞いてちょうだい」
「……?」
「何ですか? これ……」
ヘンドリックとリュカは一度視線を交わし、エレノアも不思議そうに、それぞれ手渡された書類の中身を確認する。
そこには男性と思われる名前とその略歴、親の名前、年齢や身分、爵位、職業や資産等の情報がずらりと並べられており、何かの資料のようだった。
「わたくしは存じ上げない方たちばかりですが……皆さん名家のご出身の方ですのね。ご両親のお名前だけは、どこかでお見かけしたことがある方もいらっしゃいますし……まあ、王都の貴族の出の方まで。何かの行事の名簿かしら。錚々たる殿方ばかりで、素晴らしいですわ」
「そうでしょう。あなたの結婚相手の候補です」
「そうでしたか。わたしの結婚……、……相手?」
一枚紙をめくろうとしたまま、エレノアが硬直する。同じようにヘンドリックとリュカの空気が凍りつき、そこだけ時間が停まったかのように、三人は微動だにしなくなる。
「……エレ姉さん? エレ姉さん、大丈夫?」
「――ええっ!? けっ、こん!?」
「あ、動いた」
やや時を置いて、素っ頓狂な声とともにテーブルに放り出される紙の束。
「エレノア!」
「あ、つい……ご、ごめんなさい!」
慌てて鷲掴みに拾い上げ、エレノアはそのくしゃくしゃになった紙を両手でぴんぴんと伸ばす。それにブライアは盛大なため息をつくと、滾々と説き始めた。
「いいですか、エレノア。クラウスとアリーチェさんは十九、あなたももう二十二です。時期的にはもう十分でしょう。あなたとこのトルテュフォレの歴史と伝統を担うお相手は、並の男ではとてもとても叶わないとわたくしも先日思い知らされました。その上、あなたの自覚も足りていない。――幸いなことに、わたくしも立場上、王都の社交界にも知り合いがおります。そちらに話を持ちかけたところ、さらに深くまで口を利いてもらうことができました。どなたかご由緒のあるお家の出の方であれば、あなたの生き方に理解ある殿方が見つかるかもしれません」
「は、はあ……。そう、かもしれませんわね……そうかしら……」
エレノアは目を白黒させながら、しわくちゃの名前を追う。しかし、誰の名も頭には入ってこなかった。
そこで、ふと気付いたようにヘンドリックが口を開く。
「失礼ながら、ガルニエ侯爵。ここには先日監査にいらしたアーノルド=イラーリア様のお名前もあるのですが、これは?」
「――アーノルド様!? どうして!?」
「あ、それはアリーチェが……」
――どうせお兄様にお嫁に来てくださる方なんて、もう王都にいらっしゃるかどうかもわからないのだし、長男といっても分家筋だし。弟妹も他にいるし、お義母様とお義父様のような例もあるのだから、長子が婿入りしても問題ないはずですわ。お兄様もエレ姉様とは普通に接していましたし、エレ姉様の方も上手くお兄様を転がせそうですし。それに何より、アーノルドお兄様とエレ姉様が婚姻を結べば、名実ともにエレ姉様がわたくしとクラウス様のお姉様になるんですのよ! 夫婦としてトルテュフォレに住めばいつでも会いに行けますし、良いことづくしですわ!
「……って言うから。それでちょっと、僕もいいなと思って、つい」
「つい、でわたくしの一生の伴侶を決める気だったのね、クラウス。というか、王国法はどうしたのよ。クローマチェストは男女問わず、長子相続じゃなかったの?」
「あ、それ。勘違いしてる人が多いけど、実は法律じゃなくて慣例の方なんだよね。だから別に、絶対じゃないんだ。さっきの話が役に立ったね!」
「……」
眩しいくらいのクラウスの笑顔に、書類を見るふりをして顔を背ければ、テーブルの下で猫が前足に顔をうずめてぷるぷると小刻みに震えているのが目に入った。しっぽだけがそれはもう楽しそうにパタパタと上下に振られており、猫の姿でなければ踏んでやろうかと思った。
「……とにかく、それでヘンドリック様や私までもが呼ばれたのですね」
いやに冷めたリュカの声が、背後からうねるように届く。しかしブライアは、承知のように答えた。
「そういうことです。――いえ、そういうところですよ、リュカ、ヘンドリック。いわば男親であるあなたたちは、実の娘のように大切に育ててきたエレノアが、自分たちの手から離れることを内心で嫌がっている節があるでしょう。しかしゆえにこそ理想も高く、いつまでもいつまでも値踏みを繰り返しては殿方を遠ざけている。ですがそれでは、レコンフォール家が途絶えてしまいます」
「お、おば様……やっぱりこういうことは、その、非常にデリケートなお話ですから……」
「ですから女親たるわたくしが参ったのです。腰を据えて話すと言ったのに――やはり自覚がなかったのですね!」
「あ、あれってそういう……ごめんなさい!」
助けを求めるつもりでクラウスを見れば、こちらもやはり安楽椅子から落ちそうなくらい身をよじって、顔を隠し笑いを耐えている。この件に関しては、まったく頼りにならない。
「それで、わたくしも考えてみたのだけれど――秋の終わりには、毎年シセラスの成人の儀が執り行われるでしょう。幸い、今年は年齢の近いクラウスとアリーチェさんの社交も内容に含んでいますから、あなたもそこに出席なさい。地元の名士として、正式な招待状を出しますから。二年前、あなたはお祖父様を亡くし、成人の儀への出席を見合わせました。そういう儀礼を経ていないから、余計に自覚がなかったのかもしれません」
「それは……、はい……」
「そこで良さそうな方を来賓としてお招きして、顔を合わせてみるのもいいでしょう。一曲でも殿方と身を寄せて踊れば、案外、気も変わるかもしれませんよ」
「えっ、待っ……それは……! おば様、わたくし、その頃には誕生日を過ぎて二十三になりますのよ。そんなお若い方たちに混じってダンスなんて……今さら恥ですわ、とんだ晒し者ですわ……! それに、そう――その方たちの親御さんも、我が子の晴れ舞台がそのような使われ方をしたら、きっと良い思いはしませんでしょうし」
「幸い、成人を迎える方々のご両親たちからは色よい返事を頂戴しています。抜かりはありません。ガーデン・ティーパーティーの一件もありましたし、新たなコネクションの構築もでき、あわよくば娘も一流のおこぼれに預かれるかもしれないと、たいそうお喜びでしたよ」
「……! ……!!」
もはやエレノアには言い返す言葉もなかった。何か言うことはないかとパクパクと口を開き、声なき声で訴えるも、ブライアは涼しい顔をして紅茶を嗜む。
「……どうしましょう……、どうしましょう……」
そうして今度はエレノアが顔を覆ったところで、
「……この件は、慎重に検討いたします」
「そうしてちょうだい。返事は早めにね」
代わりにヘンドリックが重く呟き、ようやくこの話は終わりを迎えたのだった。




