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「なにもかも慣れないことばかりで、城ごと渦潮の中へ放り込まれたみたい」
アーノルドがトルテュフォレを去って数日――やっと一息つけると思ったのも束の間、さらに気忙しくなってしまったエレノアは、両手をテーブルにつくとうなだれるようにして呟く。
「連日お疲れ様です。ですが長い歴史の中では、私たちには想像もつかない、いろいろなことが起きます。私たちも協力を惜しみませんので、亀の森の名にふさわしく、見事に泳ぎ切ってみせましょう」
「はい――ありがとうございます、リュカ様」
リュカのやわらかい声が、渇いた心にしみる。
その日、エレノアはリュカとヘンドリックを伴い、普段は訪れることのない応接室へと出向いていた。
応接室は客間二部屋分ほどに広く、ソファや椅子、テーブルを余分に搬入すれば、ある程度の人数が収められるようになっている。他、他室に比べ大きな暖炉や燭台が備えられていたり、絵画や美術品が展示されていたりと豪奢な雰囲気もあるが、これは客人に格式を示すためのものだろう。
亡き祖父の代には頻繁に使用されていたこの応接室は、祖父の好みのまま、落ち着いた茶色と深い緑を基調にした家具がそろえられている。年老いた鈍い金色のシャンデリアや額縁も、窓から射し込む光に久しぶりに己の輝きを思い出したらしい。嫌味のない、温かなきらめきが心地よい。
エレノアは絵画とともに掛けられていた鏡に自分の顔を映すと、両手でぱしりと頬を叩いた。家令である自分が迷えば、それこそ泳ぎ切るどころか沈んでしまう。それにリュカはほほえみ、窓辺にいたヘンドリックも振り向いた。
ノックの音が響いたのは、その直後だった。エレノアが返事をすれば、メリッサが扉を開ける。
「失礼いたします。先程、フロントガーデンの方にガルニエ侯爵、ならびにご子息のクラウス様がご到着いたしました。ソワレが応対しておりますので、すぐにこちらにいらっしゃると思います」
「ありがとう。……アリーチェ様は、やっぱりいらっしゃらないのね」
「はい……そのようです」
「そうよね……ああ、ごめんなさい。それなら、何か美味しい紅茶をお願いしていいかしら。あとお砂糖と花蜜を多めに用意してもらえると、すごくありがたいわ」
「はい、かしこまりました」
あのとき、あの場にいたメリッサも、眉を下げてかすかに笑む。それを見送ると、エレノアはヘンドリックとリュカに向き直った。
「ヘンドリックも、さすがに調停の経験はないのよね……おじいちゃんも。ブライアおば様も、心配していらしてくれるのだと思うけど……」
「はい。まず前提として、法務省自体の歴史がまだ浅いので、公的機関の手が入った公の裁判や調停などは、これから成熟していく部類のものになるのだと思います。これまでは都市の独立性が非常に高く、領主、もしくは聖堂などに自治権や裁量がありましたし、正直なところどうなるか」
リュカが続ける。
「トルテュフォレの聖堂も、昔は街の人々の間に生じた相続問題や色恋沙汰、不意の事故など、当事者間の話し合いの仲介役を担っていたようですね。改めて調べてみたところ、決して少なくはない量の記録がありましたから、そういった同都市間の身近なトラブルであれば経験はしているのでしょうが……」
『なに、そうご心配なさらなくても、クローマチェスト法務省が掲げる正義は、〝調和と和解〟ですからなあ。調停という言葉を用いてきたのなら、さあ断罪いざ決闘とはなりませんよ』
「アレックス」
いつかと同じように、天井からすーっと青白い蜘蛛が下りてくる。エレノアが手を差し出せば、蜘蛛は小さなリスの姿に変わって、手のひらにちょこんと乗った。
「決闘って本当にあったのね。物語の中のものだとばかり思っていたわ」
『クローマチェストは精霊信仰が強く特定の神もおりませんから、命をもって善悪を神意にかける神明裁判は流行らなかったのでしょうなあ。かなり昔に形骸化していますから。物語によっては劇的に描かれますが、実際はその前に和解することも多かったといいますよ。聖堂が仲介役となって日時まで決めても、いざ前日になったら当事者から再度の話し合いが求められ、相手方もすんなり応じたような、そんな事例もあったそうです。実は争いを好むような人間は、そうはいなかったという訳ですな』
「そう……でもそうよね。人を害するって、たとえ流血を伴わないものであっても、相当な心の負担になりそうだもの。だから〝調和と和解〟なのね」
『もちろん、それが許されない重罪もあります。ですが万事丸く収まるなら、争っていた人間にとってもそれが一番でしょうからな。お互いに合意さえしていれば、憎しみや報復の連鎖も防げますし』
「そうね。たとえ決闘で勝ったとしても、その人の人生はまだ続いていくのだものね……。人を殺めて一生の夜をうなされるより、許して受け入れる方がいい場合もあるのかもしれませんね……。でもなんだか、難しいわ。割り切れないというか」
『法はただの法であって、感情や心情は法では制御できませんからな。そういった点においても、〝調和と和解〟は〝法と判決〟に勝る場合があるのかもしれません』
エレノアが頷いたところで、再びノックの音が鳴らされる。エレノアはささっと身支度を整えると、声を掛けた。
「失礼いたします。ブライア=ガルニエ侯爵、ならびにクラウス=ガルニエ様がお見えになりました」
「ブライアおば様――ようこそいらっしゃいました」
「エレノア、今日は突然ごめんなさいね。ヘンドリックとリュカも、時間を取ってくれてありがとう」
「いえ。こちらこそ、お忙しい中ご足労いただきまして」
ソワレに導かれてやってきた二人は、それぞれと軽く挨拶を交わすと席に着く。アレックスも猫の姿に変わると、ちゃっかりとテーブルの下に潜り込んだ。
ソワレは鞄をひとつ預かっており、それをテーブルに運ぶと退室する。クラウスは物珍しそうに室内を見回していたが、母に促されて一番最後にテーブル近くの安楽椅子に座ると、いつもの無邪気な笑みを浮かべた。
「――昔からこの部屋にだけは入れてもらえなかったから、なんだか新鮮だな」
「当然です。わたくしは仕事の話をしにここに参っていたのですよ」
「おば様とおじいちゃんが会合している間は、よく二人でお城を探検したものね」
「絵本をたくさん読んでくれたことも覚えてるよ。僕の知識の礎は、エレ姉さんだったかもしれない。中には怖い本なんかもあったけど」
「懐かしいわね――ゆくゆくは、わたしとあなたで何かについて話し合うこともあるのかしら」
談笑している間に紅茶とささやかな茶菓が運ばれる。ややこしい話になることを見越して、エレノアはいつもより一回り余分に花蜜を垂らした。
(甘いものでも飲まなきゃ、頭が干からびちゃいそう)
お茶の準備を終えたメリッサが部屋を後にすると、ブライアが本題に入る。
「早速ですが、アリーチェさんより調停の申込書を受け取りましたね」
「はい。……ブライアおば様は、ご存じだったのですか?」
「ええ。クラウスには、アリーチェさんを迎えに行かせる直前のタイミングで報せました。この子はあなたのこととなると、すぐに顔にも行動にも出てしまうし」
「母さん」
クラウスは紅茶を混ぜる手を止め、エレノアを窺いながら気まずそうにスプーンを置く。
「でもどうして、ブライアおば様にまで今回の調停のお話が?」
「そうね――この辺りの話は、王家直轄の城を管理するあなたに言うのもふさわしくはないかもしれないけれど。今はまだ領主の自治権が強く、法務省もおいそれとは各都市に属する人間に個別に対することは叶わないのです。領民は領主にとっても財産のひとつですからね。なので便宜上、法務省はまず各都市の領主貴族を仲裁者や判定人の一人として立て、その城や屋敷、あるいは聖堂などを審判の場として、調停なり裁判なりを起こす形になっています。一方で領主は領民を保護する義務もありますから、他都市の人間との係争となった場合は領民の代理人となったり、弁護も務めます」
「つまり、ブライアおば様はわたくしの味方ですのね!」
「もちろん、気持ちの上ではそうです。あなたが明らかな悪さをしていない限りはね。とはいえ――今回はあなたの立場が特殊すぎて、なんとも言えないところもあるのよ」
「え? それは……どういう?」
喜んだのも束の間、肩を落とすブライアにエレノアは目をしばたたかせる。
「トルテュフォレは王家直轄の城でしょう。本来であれば、あなたを庇護するのは法務省側の人間であるはずなのです。もっと言えば、さらに上。――それがどういう意味か、あなたならおわかりでしょう。ヘンドリック」
エレノアは傍らに立つヘンドリックを見上げる。
「どういうこと?」
「今はエレノア様がエスタシオン男爵に訴えられる側の立場にいますが、いざとなればあなたは、王家の名誉を侵害されたとその傘の下、訴え自体を無いものにできる可能性もある、ということです」
「あ……そういうことね」
「あまりエレガントなやり方ではありませんが」
無言のまま頷き、エレノアはひとくち紅茶を飲む。以前、ヘンドリックはそもそも訴えさせない方法もあると口にしていたが、きっとこういうことだったのだろう。しかしこれは、権力の使い方に慣れた人間でなければ諸刃の剣になる危険性も孕んでいる。
「でもなんというか……変な感じですわね。ちぐはぐというか、ねじれているというか。誰が何なのか、こんがらがってしまいそうですわ……」
「現在のクローマチェスト王国法は、ほとんどが貴族の強権を戒めるものですからね。国の公的機関が民の紛争に介入すること自体まだ一般的ではないので、上手く回らない部分もあるのでしょう。――そもそも街道が整備される前はほとんどの都市が独立していましたし、各都市を治めてきた領主貴族や聖職者たちも、それまでに莫大な労力や資金をかけて積み上げてきた権利を手放したくはないのです。いえ、それはもちろんわたくしも。特に空位の今、戴く王もいないのに、やすやすと役人どもの支配下に置かれるわけにはまいりません。最悪、都市制度を崩壊させるおそれもありますから。もちろん法として優先されるのは王国法ですが、いまだ都市や地域の力も強く、そこに根付く慣例のようなものが優先される場合もある――今はそんなふうに、国として司法が一律化される前の、過渡期なのです」
菓子を摘まんでいたクラウスも、それを飲み込んで続ける。
「調停となると、さらにその法律と慣例の線引きが曖昧になると思うんだ。特に今回のような、都市間の人間に生じた争いの、公的機関による調停というのもあんまり前例がないと思うし。アリーチェは、後世まで残る貴重な事例収集、事例研究の素材のひとつになるって言ってたよ」
「いやだわ、新しい法整備の実験台ってこと?」
「そうなるのかな? 話のとおりトルテュフォレは王家直轄のお城だし、相手側の代理人を務める法務省の人も、ちょっとワクワクしてるって言ってたよ。僕もいい機会だから見学をお願いしたんだけど、大学で法律を学んでるって言ったら快く許可してもらえたし」
「……なんだか、思っていたイメージと少し違うような……気のせいかしら」
ちらりとヘンドリックとリュカを窺えば、やはりなんとも言えない微妙な表情をしていた。
「まあいいわ――それで今、アリーチェ様は? あなたが迎えに来た日、馬車に乗るまでご無理をなさっているようだったから……」
「うん――馬車の中で大泣きして大変だった。これでもう仕事辞める、もう王都には帰らないって。こっちで暮らすから荷物まとめて送ってくれとまで義兄さんに言ってたよ。それはそれで、僕の方が寂しくて困っちゃうし、義兄さんも説得してくれてたんだけど――」
「そ、そこまで?」
「……」
そこでクラウスはふと表情を曇らせると、声を潜め、重々しくその言葉を発した。
「多分だけど――アリーチェをそそのかして、利用していた人が誰かいるよ」




