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リンは拳を丸テーブルに叩きつけた姿勢のまま、憤怒の表情でアーノルドを睨みつけていた。どれほどの勢いだったのか、あの山と盛られたお菓子が崩れ、テーブルに散乱している。
「――おい、リン」
「止めないでください、隊長」
「止めたかねえけど、止めないわけにはいかねえだろ、一応。立場上、それなりに、仕方なく」
「ならいいです。黄金のカップは、あとでエレからもらってください」
それだけを吐き捨てると、リンはつかつかとアーノルドの横まで進み出た。彼女の歩みに会わせて人の視線が動き、一体なにを仕出かすのかと、エレノアは慌てて止めに入ろうとする。
「リン――だめよ」
「いいから――あんたもこんなことでメソメソしてんじゃないわよ、泣き虫とうもろこし! あんたのお祖父さんがそんな人じゃないことは私だって知ってる、お世話になったもの。それに王都の王城に記録がないからなんだっていうの。誰になにを言われたって私にとってはエレはエレで、このシセラスのトルテュフォレ城には、あんたたちがいるのが当たり前なんだからね――しっかりしなさいよ」
「リン――」
飾り気のないまっすぐな言葉が、エレノアの心を貫く。リンは固まってしまったエレノアの手を引いて自分の後ろに隠すと、アーノルドの前に立ちはだかった。
「ちょっとおじさん」
「おじ……私はまだ二十代だ。なんだね君は、失敬だな」
片眉をピクリと動かし、嫌そうにリンに向かい合うアーノルド。それに対し、クラウスの影に隠れながらもアリーチェがぽつりと呟いた。
「でもお兄様は、来月には三十になります……」
「……」
それにアーノルドは取り繕うこともせず、ますます不機嫌そうにわかりやすく唇を曲げて黙り込んでしまうので、こんな場面にも関わらず、エレノアは泣きながら噴き出しそうになるのをやっと堪えて、涙をぬぐった。
(――この子、やっぱり見た目以上に強い子なのかもしれない)
アリーチェを窺えば、兄を見ないようにか目を伏せ、クラウスにぴったりとくっついている。二人の馴れ初めはまだ詳しくは知らないが、たしか大学のダンスパーティーで知り合ったと手紙にはあった。きっと本当に好き合っての交際、婚約であったのだろう。
一方、リンは一度はんと鼻で笑うと、それが相手の弱みと悟るや否や容赦なく言葉で殴りにかかった。
「みみっちいこと気にしてんじゃないわよ、名門貴族名乗るわりには小さい男ね。ああ、長男だっけ? そんなんだから、嫁に来る相手がいなくて余計に気になっちゃうのかしら? クローマチェストは基本的に長子相続だものね、ご立派なお家の存亡に関わることだし、気にしないわけにはいかないわよね。にしたって、許嫁くらいいてもよさそうだけど、それも断られてたりして。だとしたら相当ね」
「ッ――口の利き方に気をつけたまえ。私は――」
「関係ない。私は私が尊敬する人にしか、わきまえない」
ぴしゃりと言い放つリンに、アーノルドは意外にも静かに息をつき、それ以上を牽制することはなかった。
「それより、さっきから黙って聞いてればなに? なんだか偉そうに講釈垂れてたけど、あんたの言ってることってひとっつもエレ本人には関係ないじゃない。彼女の手の届かないところで起きている彼女が預かり知らないことを、こんな場所で一方的に責め立てて――どっちが失敬だか。ここにいる人たちはエレの亡くなったご家族のことも知ってる。少なくとも、あんたに貶められるような人たちじゃないわ」
「――残念だが、君のような人間には我々は理解できまい。権力を持つということは、そういうことなのだよ。受け継いだものの旨味だけを啜って生きていくことはできない。友人をかばおうとするその心意気と正義感、相手の立場に関係なく物言える気概だけは買おう。しかし無知は、それだけで罪だ。姓を持ち名乗る者は、時に自らの無知ゆえにその姓の重みに耐えきれず、命ごと潰されることになる。そこにやり直しの機会など与えられない。我々が生きているのは、そういう世界なのだ」
「無神経なのもそれだけで罪よ。偉そうに、自分だけが特別だなんて思ってんじゃないわよ。今、この場所にどれだけの人間がいると思っているの。あなたの妹がこれからこの地に嫁いできて、生きづらくなることは考えなかったの?」
「それは私が考えることではない」
アーノルドはアリーチェを一瞥すると、そのままなんの躊躇もなく言葉を続ける。
「アリーチェは一族の中でも持て余されていた、妾腹の子だ。その母親譲りの容姿から父には可愛がられていたが、母親がよりにもよってメイドでは、正直使い道も限られてくる。我が身内のことながら情けないが、その娘は家の恥の形そのものだ。幸い教育は与えられたのだから、その行く末は自分でどうにかするしかないだろう」
その言葉に、にわかに場が騒立った。特に社交界の面々の空気が一変し、息を呑む音や囁き声がさわっと湧き上がり、意味ありげに視線が交わされていく。
精霊王とそのお妃様の神話から連なるクローマチェストは古くから一夫一妻制であり、一般的に妾を持つことは良く思われない。朝帰りのエピソードを持つ精霊王よろしく、一般の枠に収まらないと自負する上流階級の人間の間では、男女問わずそれがステータスとして語られることもあるが、極めて公然の秘密として取り扱われる話であり、同じ社交界にあっても厳格な人間には忌避、あるいは侮蔑される話だ。
――少なくとも妾だの隠し子だの、こんな場所で明かされる話ではない。
だからか、真っ先に声を上げたのはクラウスだった。
「義兄さん――そんな言い方はないでしょう、今の発言は僕だって許せません! 彼女だってそんなふうに卑下される人間じゃない、彼女は――」
「クラウス様! いいのです――わたくしは大丈夫ですから」
身を乗り出すクラウスを、当のアリーチェ本人が止める。
「今さら、この人たちにわたくしの存在を認めてもらおうなんて思いません。だって、今までわたくしがどんなに頑張ったって、全部無駄だったんですもの。お父様でさえ、結局ここにはいらしてくれなかった。でも、あなたが――あなただけがわたくしを色眼鏡で見ずに接してくださったから。それでいい。それだけでよいのです!」
「アリーチェ――」
やがては領主と仰ぐことになる青年の、愛する女性を護ろうとする騎士道にも準ずる果敢な訴えと、可憐な少女の諦観の嘆きは、人々の憐憫と同情を買うには十分だった。
「この最低の、クズ男――」
リンが手を振りかぶる。アーノルドは冷めた目でそれを見ながら、動かない。
「リン!」
エレノアはすぐさまその意図を察して、リンを止めようと手を伸ばした。目の前の男がなぜ敢えてリンに好き放題言わせたのかも、彼女が激昂するような言い方を選んだのかも――法の下では、なにがあろうと手を出した方がまず裁かれるのだ。
――が、次の瞬間、
「――リン様。あなたが相手になさるような輩ではございません」
その振り上げた腕をいっそ優雅なほどなめらかに捉え制止させたのは、ヘンドリックだった。
まるで時が停まったかのような瞬きの静寂に、リンも我にかえったように目を見開く。
「ヘンドリック様――」
「エレノア様」
「……」
ヘンドリックはリンをエレノアに託しながら、この場は自分に任せるよう目で訴えてくる。それ以上に言葉は必要なかった。エレノアはその意を汲み、一度頷くとリンとともに下がる。
それを見届けたのち、改めてアーノルドに向き合い、大人の風格で礼を取るヘンドリック。その堂々たる姿勢と見事なまでに洗練された所作に、アーノルドも自らの矮小な企みが阻止されたことを納得し、自嘲気味に笑った。
「イラーリア家の人間であり、監査を担当する行政官を輩呼ばわりとはな。――ヘンドリックとか呼ばれていたな。一応聞いておこう。あなたは?」
「はい。私は先代の頃より、このトルテュフォレにて執事長を務めさせていただいております、ヘンドリック=アルトランケと申します」
「なるほど――つまりは先代が、未熟な孫娘に遺した懐刀というわけか」
「老いた身では、なまくらです」
ヘンドリックは髭の下に微かな笑みを浮かべ、続ける。
「ですがあなた様もまだ、鍛錬が足りないようで」
「……なまくらのわりには、随分と切れる。なにか言い分があるのなら、伺おうか」
未熟だと誹られたあるじの名誉を取り返すように、ヘンドリックは目の前の男さえ未熟であると述べ立てる。そして再び一礼をすると、滔々と語り始めた。
「それでは、失礼ながら――まず王家からの資金の流れと、レコンフォール家の出自についてですが――いささか、調査が浅すぎるようで」
「……なんだと?」
「レコンフォール家は、一般の人間が調べられる程度の資料には名を残しておりません。その歴史は古く、しかし表舞台に立ったのはわずかな時であったと聞き及んでおります。なお調査をなさるおつもりならば、古くからの血筋の魔術師あたりをお訪ねになるとよろしいかと。もっとも――ものを知らず、易々とそれを引き受ける程度の者に辿り着けるかは、はなはだ疑わしいところではありますが。ですがもしもそこに辿り着くことができたなら、あるいは王家との関わりも見えてくるやもしれません」
「それを、自ら提示する気はないのか」
「ございません」
「なぜ」
「私が私のあるじを護るためです」
短く言い切られたその言葉に、エレノアも戸惑い言葉を挟む。
「待って、ヘンドリック――どういうことなの? レコンフォール家は代々トルテュフォレの家令として王家にお仕えしてきた家でしょう。わたしはそれしか知らない――いいえ、それがすべてだと思っていたわ。他に――なにかあるの?」
「エレノア様。どうかあなたも、ご承知置きください。先代の家令であったお祖父様は、あなたを後継者として育て上げる道半ばでお亡くなりになり、お祖父様がお伝えになれなかったものについては、私やリュカに一任されております」
「リュカ様……?」
庭園を見渡せば、リュカの濃い臙脂色のローブはすぐに見つけられた。リュカは見たこともないくらい厳しい顔をしていたが、エレノアのすがるようなまなざしに、その表情を緩めるとただ黙して頷いてくれた。
ヘンドリックもまた、その視線を追いながら再びエレノアを見、続ける。
「特にエレノア様は、唯一の肉親であったお祖父様亡きあとひどく鬱ぎこみ、このティーパーティーですら二回流しております。ある程度の教育はなされてきたとはいえ実働時間はやっと一年に届いたところで、家令としての生活が成り立ち始めた今このときに、あえてお伝えする知識ではないと判じております。ゆえに、あなたがお知りになりたいことは、あなたが今よりご成長なさって、必要な時が来れば。このトルテュフォレもあなたの血も――その歴史や伝統、ご由緒は、一足飛びに収められるほど、薄いものではないのです」
「……護るって、そういうことなのね」
「はい。この方がおっしゃるように、たしかに無知は罪かもしれません。しかし、であるならばその罪は私とリュカがお引き受けいたしましょう。私どもはそれだけの覚悟をもって、エレノア様――あなたをお預かりしております。たしかにあなたはまだお若い。焦るお気持ちもわかりますが、結果を急いて、形ばかり華やかな俄作りの人間に堕ちるような真似は、決してなさいませんよう。お祖父様の最期のお言葉を、どうかお忘れになりませんように」
「……!」
そのヘンドリックの言葉に、エレノアの中で懐かしい声が蘇る。まだほのかに温かい、しわが刻まれた手の固さも、人が抗うことのできない死の臭いの中にあった、蜜蝋の香りも、濁ったような夜の闇と、けぶったような灯火も。
その瞬間まで、気高い家令として、優しい祖父としてあってくれたまなざしを。
「……おじいちゃん」
――報われずとも、報いよ。それが、我々レコンフォール家が代々受け継いできた、王家へのまことの忠誠である。
――いいかい、エレノア――これから世の中は変わる。変わり始めている。きっと、我々レコンフォール家の真なる忠誠心が試されるときが来る。この北の地にあっても、我々の先祖が守り続けてきたこの信念を――お前ならば、きっと受け継いでくれると、信じている。
「おじいちゃん――」
――報われずとも報いよ――それがレコンフォール家の誇りだ。
――……わかっています。わたしはまだ、未熟だけど……おじいちゃんやお父さんが守ってきたもの、今度は、必ずわたしが守っていきます。
――今はそれでいい。私がお前に託したすべてのものを、大切に扱いなさい――人も、物も、今あるものを敬い、誠実に、心を尽くして向き合いなさい。そうすれば、きっと城の精霊たちも応えてくれる。
――うん……うん。
――……お前には、厳しい言葉もたくさん言ってしまった。これから、より大きなものを背負わせてしまうことになるかもしれない。……すまなかった。
――そんなことない――わたし、おじいちゃんのこと、大好きだった。大好き、だよ……!
――ああ……ありがとう。……ヘンドリック、リュカ……後を、頼む。どうかエレノアを……護ってやってくれ。
――承知しております。
――どうぞ、お任せください。
――たのむ……、……。




