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クラウスは落ち着いたブラウンの外套を尻尾のように翻し人の間をすり抜けてくる。上品で大人びた、ゴールドベージュとアッシュグリーンの糸で刺された蔦模様の刺繍も、仔犬の振る舞いの前では台無しだ。それでも可愛く見えてしまうのは、「姉さん」としての贔屓目だろう。そして宝物でも見つけたかのように煌めく琥珀色の瞳が、真っ正面からエレノアを映す。やってきたクラウスはエレノアの手を取ると、満面の笑みで朗らかに声を上げた。
「ただいま、エレ姉さん! 会えて嬉しいよ――それに元気そうでよかった。最後に会ったのが、お祖父様のお葬式だったから……僕、ずっと気掛かりで」
「おかえりなさい、クラウス。わたしもよ。心遣いの詰まったお手紙も本当にありがとう、すごく嬉しかったわ――いえ、これではわたくしも良くありませんね。ようこそシセラスへお戻りくださいました、ガルニエ卿。このたびの慶事、心よりお祝い申し上げます」
手をほどき、スカートをつまんで膝を折るエレノアに、クラウスははたと我にかえり、ちらりと周囲を窺う。すでに二人の関係性を知っている街の者から優しい笑いがこぼれる中、クラウスは小さく咳払いをすると、改めて洗練された所作で帽子を取り胸元のレイヤードに添えつつ、右足を軽く後ろに引き礼を取った。
秋空の下、少しうねり癖のあるヘーゼルベージュの髪がふわっと揺れる。
「――ご祝辞を賜り感謝いたします、エレノア=レコンフォール嬢。本日はお招きいただいた身ではありますが、改めて私の愛する婚約者と、そのご家族の方をご紹介させてください」
クラウスが体を斜めに向け、片手で背後に控えていた一組の男女を迎える。その後ろには領主、ブライア=ガルニエが悠然と控え、静かにエレノアに頷いてみせた。
(まあ――)
クラウスの隣に進み出た少女は、彼と同じく年齢よりも幾分か幼さの残る雰囲気で、まるで砂糖菓子のように甘やかな顔立ちだった。ヘンドリックは才女と称したが、そのイメージとははるかに異なる。リボンが編み込まれたとろけてしまいそうなほど濃密なバターブロンドに、その前髪の下でぱっちりと開かれた自身と同じ緑の双眸。鼻は仔猫のように小さく、ぽてりとした唇はロゼッタの花のつぼみのよう。
彼女には少し不似合いな、茶色と亜麻色を取り合わせたドレスと翡翠のアクセサリーも、きっとクラウスに合わせたのだろうと思えばなんともいじらしい。
(なんて愛くるしいお方なのでしょう――クラウスともとってもお似合いだわ)
クラウスは一度彼女と視線を交わすと、手で示しながら二人を紹介した。
「婚約者のアリーチェ=イラーリアと、ご多忙のお父上様に代わりいらした、ご長兄のアーノルド=イラーリア様です」
「――イラーリア?」
だがその告げられた家名に、エレノアのみならず控えていたヘンドリックもわずかに目を開く。聞き覚えがあるどころかそれは、このトルテュフォレにも大きく関わってくる――歴代、王政のある役職に就いている家の名だった。
少女はそんなエレノアを大きな瞳でじっと見つめていたが、すぐににこりと笑み、礼を取る。
「偉大なるトルテュフォレ城のあるじ無きあるじ、エレノア=レコンフォール様。お目にかかれて光栄です。ただいまご紹介にあずかりました、アリーチェ=イラーリアと申します。お話はかねがね、クラウス様から伺っておりました。わたくしのことは、どうぞアリーチェとお呼びになってくださいませ。……あの、不躾なお願いなのですが……わたくしも、エレ姉様とお呼びしてよろしいでしょうか? いずれはこの地に嫁ぐ身、頼れる年上の同性の方がいらしてくれたら、……わたくしも、とても気が休まりますの」
遠慮がちに、上目遣いで窺うように問われ、エレノアは慌てて答える。
「それは――もちろん。アリーチェ様」
「失礼」
続けて自身も改めて自己紹介しようとしたところ、それを遮るように兄、アーノルドがずいっとエレノアの前に立ち塞がった。
アーノルドはいかにも気難しそうに眉根を寄せ、鋭い眼光をエレノアに向ける。アリーチェとは異なる、氷輪のような冷ややかな蒼の瞳、黒髪。クラウスよりも背が高く、どこか人を威圧する雰囲気がある。アリーチェとは年の離れた兄妹であるとは思うが、その時間の中で培ってきた揺るがぬ何かを持ち、それを疑わないからこそ、これほど堂々と振る舞える。
(これは……)
――敵意とも悪意とも異なる、しかし自分に対してなにか喜ばしくないことをもたらす人間だとエレノアはすぐさま察し、身構えた。
「アーノルドお兄様――」
アリーチェもまた、責めるような口調で兄を制止しようとするが、それに構わずアーノルドは外套の内ポケットから一枚の書状を取り出すと、それをエレノアに、そして背後に控えるヘンドリックやソワレ、その場にあった客人たちにさえ視認できるように、ぐるりと回し見せた。
「トルテュフォレ城家令、エレノア=レコンフォール。これは正式な手続きをもって、クローマチェスト王国財務省、財務大臣エドワード=イラーリアの承認を得て発行された、トルテュフォレ城における財務監査に関する文書である。なお執行は、私アーノルド=イラーリアが担うものとする。謹んで受け取られよ」
用紙の半分に届こうかというくらい誇らしげに押された、赤い判だけが秋晴れによく映える――エレノアはそんなことを思いながら口上に耳を傾けていたが、なんとも頼りない、「義兄さん――」という幼なじみの声に少し安心して、つい笑ってしまった。クラウスはなにも知らなかったのだろう。
逆に、商会の支部会長やガルニエ侯爵はなにかしら聞き及んでいたのかもしれない。金の話に敏い支部会長が自分を遠ざけようとしたのも、二人目の母のようなガルニエ侯爵が深く頷いたのも。
エレノアは一度目を閉じて深呼吸すると、しっかと顔を上げ、アーノルドを見据えた。
「エレ姉さん――」
「大丈夫よ、クラウス。この場にあるすべての方々に誓って、わたくしにやましいことはありませんから」
青ざめた顔でエレノアを見るクラウスに、エレノアはいつもどおり笑んでみせる。アーノルドがなにを思ってこの場でそれを掲げたかしれないが、シセラスの社交界中にそれが示されたなら、これは明らかにシセラスにおけるトルテュフォレの権威を狙った誰かからの挑戦状だ。ならば、エレノアが取る道は一つだった。
「――ヘンドリック」
「はい」
「……」
両手を前で組んだまま、エレノアは微動だにせずヘンドリックに指示を出す。ヘンドリックもまたそれを静かに受け、素早く目を通すと――
「たしかに。謹んでお受け取りいたします」
まるで無かったもののように、さっさと文書を自らの懐にしまいこんだ。アーノルドはそれにやや不満そうに、眉をひそめる。
「後ほどご希望の帳簿をご用意いたします。――そうそう、本日は美味しいお茶やお菓子もご用意しておりますのよ。このような場でさえ文書の確認を求めるのですもの、王都の名門の方は、きっとお仕事までティータイムのように優雅に、しなやかにしこなすのでしょう――執務室にもお好きな銘柄のお紅茶と、わたくし一押しのクッキーをお運びいたしますわ」
嫌味も含めて正々堂々と、終始にこやかに対応するエレノアに、見守る客人たちからも緊張が薄れていく。
「そりゃいいな。俺も明日からは黄金のカップを手に始末書でも書くか……」
「おう、お偉い兄ちゃん。なんならうちも帳簿を出すぞ。なんか疑うってなら、照合でもなんでも好きにやってくれや」
「ああ、でしたらうちも。手が真っ黒になるまで働き、得る金は真っ黄色、帳簿は潔白にってのが、祖父さんたちからの言い伝えでしてね。ついでに経費削減のご意見でも伺えれば様々ですよ、いやーこの頃は物価も高くてねぇ。まったく政治はどうなってるんだか」
「ならば私めも。我が渡り鳥商会は、王国全土に拠点を持っております。歴代財務省の中枢を常に担い、王国の発展を影から日向からお支えになってきた名門イラーリア家のお仕事ぶりを、商品とともに国の隅々までお届けいたしますよ」
(支部会長――ありがとうございます)
さも自然にエレノアと自身を守り、また相手を怯ませる言葉を選び取って声を上げてくれた商会のあるじに心の中で礼を言い、エレノアは客人たちを見渡す。
代々クローマチェスト王国の財政を担ってきた名門、イラーリア家。
王政の中心にあるその一門の人間にも怯まず笑い合うシセラスの人間が特別したたかなのか、王家の権威がそれほど弱まっているのか――しかしそれからも口々に上がる野次に、アーノルドよりもその後ろにいたアリーチェの方が顔を伏せ身を縮めてしまう。クラウスの外套の袖をぎゅっと握り、ただ地面を見つめるばかりの少女の姿にいたたまれなくなって、もうこのまま笑い話で収めてしまおうかとエレノアがガルニエ侯爵を窺えば、しかし彼女は表情一つ変えず、静かに首を横に振った。
アーノルドもまた、表情にも仕草にも微塵の動揺も見せず、エレノアに対する。
「――なるほど。口だけは達者なようだな、トルテュフォレの女主人。しかしながら、私かてなんの疑念もなくこのようなものを用意したわけではない」
「……と、申しますと?」
「まず、金の流れが不自然すぎる。個人的に調査したところ、王家からこのトルテュフォレへはほぼ無審査で、多少物価の変動に配慮された額が毎年送金されている。トルテュフォレは王家直属の城ではあるが、保養地などにある同じ城よりも審査が緩い。しかも額が多すぎる。この北の辺境の地にあって、今の時代なんの役にも立っていない廃墟のような城に、だ」
「……」
「次にあなた方、レコンフォール家に関してだ。家系、称号、土地や財産などをまとめた貴族名鑑を数代さかのぼっても、私が調べた限りどこにも名前がない。それどころか王家に残る文書にも歴史書にも一切その名が見当たらない。地方の名士だとしても、今の世ではまだルーツを辿れば大抵はどこかで階級を問わず貴族の血筋に交わるものだ。なのに、まるで最初から存在しなかったもののように、レコンフォールという姓はどこにも見当たらない。であるならば――意図的に王政からはその名が抹消されているのではと私は考えた。しかしならばなぜそのような家が、王家直属の城で家政最高位の役職である家令を名乗り、王をあるじと仰ぎ、なおかつ王家からも大金を回されているのだ。なるほど、あなたはまだお若い。聞けば家令を継いだのはたったの二年前だとか。あなたは何も知らず潔白かもしれないが、あなたの祖父、さらに前の家令たちはどうかな。なにかしらの不正を持って王家と癒着、あるいは恐喝でもして金を引き出していたのではないか。――私はイラーリア一門の人間として、そのような何者かわからぬ者に国民の血税が流され、その金でこのような華やかな催しが行われているのを、むざむざと見過ごすことはできない!」
「な――」
予想だにしなかった展開に、エレノアは絶句する。
両親を失ったエレノアにとっては唯一の肉親であり、愛をもって幼い自分を育んでくれた祖父の、あんなにも厳格で誇り高き家令であった祖父の不正を疑われ、忠心を貶められ――数百年もの長きに渡り、血と教えによって受け継がれてきた自らのルーツさえ、無いものにされている。
鼓動が速くなる。顔も熱い。なのに体が震えて、足元が崩れていくような、心がどこか根底に落ちていくような、自分のすべてが瓦解していくような――体の感覚が意識からかけ離れて、自分が自分ではないような宙に浮いた心地になった。
知らず知らずスカートを握りしめていた手の痛みと汗の湿り気が、かろうじてエレノアの思考をつなぎとめる。
「祖父は……、おじいちゃんは、そのような卑劣な人間ではありません! レコンフォール家かて、たしかに貴族ではありません。王宮に参じることもなければ、王都の社交界に招かれることもない。それでもわたくしは、レコンフォール家に残された唯一の人間として、祖父から教えを受けこのシセラスの地から王家にお仕えしてまいりました。た――たとえなんらかの理由で、わたくしたちの存在がないものにされていたのだとしても――代々受け継がれてきたその心に、嘘偽りなどありません! なのに――よくもそんな――侮辱を……!」
悔しさどころか屈辱で涙が浮かんでくる。奥歯が痛くなるほど歯を噛み、滲む視界にアーノルドを睨みつければ、アーノルドは姿を見せてから初めて――笑った。
「やはり、ただの女子供か」
「……!」
なにか言い返そうと、口を開くが声が出てこない。はく、と空気を食み、もう一度口を開きかけたところで、丸テーブルの方からなにかを叩き割ったような破裂音がして、皆いっせいにそちらに視線を移した。
――リンだった。




