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湖に住まう妖精の女王よ、我に宿りてこの年も、さらなる実りをもたらし給え

 頭がくらくらする。

 ぼくの体に、違う魂が宿っているから――みぞおちにある魂が、居場所を探してふわふわと揺れているような心地がする。

 すでに湖の乙女はぼくの中にいる。

 だけど、儀式は儀式だ。

 大丈夫。

 一つ呟くと、ぼくはゆっくりと湖の前に行き跪いた。


「湖に住まう妖精の女王よ、我に宿りてこの年も、さらなる実りをもたらし給え」

 くすくすと、頭の中で女性が上機嫌に笑う声が聞こえる。

 風もないのにベールが揺れ、

「やっと会えた」

 幼さすら感じさせる若い女性が、嬉しさをかみしめるように言うのが頭の中に響いてきた。

 その時にはもう――ぼくの体は、湖の乙女に主導権を握られていた。


 足が滑るように湖面に向かう。

 つま先が湖面に触れた。

 沈む――!

 ぼくの魂は恐怖と驚きに竦んでいるのに、

「大丈夫」

 湖の乙女は自信満々にそう笑う。


 足先が少し沈む。それと同じくらいの強さですぐに浮かぶ。

 まるで干し草の上を歩いているみたいに、足が水に沈んでは押し返されていく!

 そうしてぼくは湖面を歩いていた。

 足が水面を踏むたび、水輪が生まれ消えていく。


 体はぼくの意志を無視して、10年の間にしみついた舞の動きを丁寧になぞっていく。

 伸ばした腕にスズランのブレスレットが揺れているのが見えた。

 

 乙女が澄んだ声で歌い始めた。

 これは、シュクレに伝わる――羊を追う歌?


 短い夏の夕風が吹き

 子ヤギが耳をそばだてる

 牧羊犬の声が聞こえる遠く近くに

 駆けまわっては歌ってる


 幼い頃、マカロンと一緒に歌った歌だ。


 牧羊犬と羊を放し

 庭のハーブをつんだなら

 そっと仕事を抜け出して

 野ばらをあの子に持っていこう

 髪にあの子が差したなら

 秋には祝言あげるだろう


 ぼくの村では、大きな鍋をかき混ぜてチーズを作りながら、蕎麦の実を畑にまきながら――時々誰かが歌詞を作り変えては、歌い継がれていた。


 どうして、知っているの?

 ぼくの質問に乙女は答えない。


 ぼくは――乙女は薄衣を翻し、歌いながら魔力を織り上げていく。

 なんて緻密な、ぼくが今まで読んだどの魔導書にも載っていない複雑な魔導数式がいくつもいくつも脳裏にひらめいては、認識する前に魔法となって展開されていく。


 大地の精霊に呼びかけ

 水を呼び

 風が春の息吹をもたらす

 

 冬の王が去り、春が来た。

 たくさんの小精霊たちが湖に集まり、まるで光の中にいるみたい!

 

「ミルフィーユ、マカロン」


 乙女が笑いながら、一点を指さした。

 空から白い何かが駆けて来る。

 ユニコーン……?


 ぼくはそれを認めた瞬間、ハッと思いだした。


「ねぇ、ミルフィー。聖騎士様はどんな馬に乗っていると思う?」

 幼いマカロンの声が脳裏によみがえる。

「聖騎士様は黒い鎧を着てるから、絶対黒い馬! でっかーいやつ!」

「ええー! やだよ! 可愛くない!」

「かっこいい!」


 絵本をめくりながらのたわいのない喧嘩。

「じゃあ、ユニコーンだったら?」

 その時言ったのは、誰だったっけ?

「ユニコーンなんていないもん!」

 マカロンが食って掛かるようにして言った。

「いるよ!」

「いない!」

 二人して誰かに反論して、言い合いになったのはいつだったっけ……?


「……ユニコーンだ」

 いつも湖で一緒に遊んでいた。

 ぼくとマカロンと―― 

 

 小精霊たちがくすくすと笑い、光る蝶の羽をひらめかしながら湖面を飛び回る。

 軽やかに蹴り上げたぼくの裸足のつま先が、湖の水を蹴り上げ弧を描く。     


 小精霊たちのたわむれる湖畔の花々が、一斉に開花したのだろう。甘い花の蜜の匂いが漂い始める。


 月がない夜の筈なのに。まるでぼく自身が月になったみたいに淡く輝き、湖面に合わせ鏡みたいに映っている。


 ぼくは夢うつつで踊っていた。

 魔力がどんどんと吸い取られていく。

 空を見上げれば、辺境伯が織り上げた結界がぼくの魔力に共鳴するかのように、淡い銀色の光を放っているのが見えた。


 息が切れる。魔力を放出しすぎて、目の前がちかちかとする。

 乙女は、ぼくには理解できない古い呪文の最後の一節を唱えると、高く伸ばした右手をゆるやかに下ろした。

 春の息吹が、湖面を爆心地として周辺を伝い国の隅々にまで広がっていく――。


 葉を落とした黒い木立に、淡く輝く新芽がいっぱいに芽吹いているのが見えた。

 ぼくはゆっくりと湖を歩き、岸に右足をつけた。

 力がぬける。体が重たい。

 でも、儀式はもう終わったんだ。

 だから後は帰るだけだ、と思った瞬間——!

 体の中から乙女が出て行くのが分かった。


 その瞬間、世界がくるっと回る。

 あっと思った時には、もうぼくの体が後ろに傾いていた。

 耳元で大きな水音が聞こえる。すぐにそれはくぐもった音に変わったけど。

「ミルフィー!」

 びっくりしたような声でぼくを呼んでいるのは……。

 ぼんやりとした頭を巡らし、声の主を探す。


 長い髪を炎のようにゆらめかせ、暗い湖の中、ぼくと同じくらいの女の子が浮かんでいる。

 野ばらの冠、時代を感じさせる白いワンピース。

 裸足の足首に巻き付いた鎖。

 湖の乙女。

 

 体が沈んでいく――

 寒くない。麗しい乙女がぼくをそっと両腕に抱き留めているから。


「大丈夫」

 耳元で乙女が囁く。だから、息は苦しくない。


 ザンーーッ、と何か大きなものが湖に飛び込むのが分かった。

 波がぼくのベールを揺らし、白い泡が柱となって水面高く上がっていくのが見えた。

 ぼくに向かって一生懸命伸ばされる黒い騎士服の袖――

 水をはらんで膨らむマント、そして赤い瞳——。

 乙女がそっとぼくの背を押す。

 

 ぼくはその人に向かって腕を伸ばし――身体が限界を迎え目を閉じた。



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