あのね、湖の中には、妖精の女王様がいるんですって!
ぐっと腕を何かにつかまれ、引き上げられる。
水が抵抗するように、スカートを足に絡ませ動きを封じる。
なんだか、ずっと昔に——同じことがあったような気がする。
体をぐっと引き寄せられ、ごつごつとした大きなものに包まれる。頬にまあるいひんやりとした宝石があたる。
たくましい腕がぼくの腰に回され――大きな手が頬にそっと触れ、ぼくの顔を覗き込むのが分かった。
ぼくは最後の力を振り絞って目を開けた。
ぼくは、湖の中にいた。
誰かがぼくをかばうようにして泳いでいる。
暗い所から光のある所に向かって――。
乙女の眷属の小精霊たちがぼくたちを守るようにたくさん集まっていて、水面の位置を教えるように長い光の端を作っている。
なんだか、まるで天の川の中にいるみたい。
ぼくはぼんやりとそう思いながら、抱き寄せられるまま力なくもたれ、目を閉じようとした。
体が寒くて、力が入らない。
目を閉じちゃだめだってわかっているのに、ひどく眠くてたまらない。
誰かが泳ぐのを止め、ぼくの頬を軽く叩いた。
ぼくはむずがるように頭を振り、目を開けた。
そこにいたのは、聖騎士様だった。
聖騎士様がぼくを見ている。
絵本と同じ、黒い騎士の衣装をまとって、腰には宝剣を差して――。
ぼくを心配そうに見つめる、なんて麗しい瞳!
両翼を広げた鷲の紋章が、マントの留め金にきらりと輝いた。
ぼくはだるい体に鞭打って手を伸ばすと、そっと聖騎士様の髪をかき上げそのまま頬に触れた。
きれいな目。
嘘みたいだ。ずっと憧れていた聖騎士様が、ここにいるなんて。
最後のお迎えに来てくれたのかな?
ぼくは礼を言う代わりに、聖騎士様に微笑みかけた。
魔法使いにとって、魔力をすべて失うことは、血を失うことと同じ。
最後に見れたのが、聖騎士様だったなんて、こんなに嬉しいことはない。
もう、目を開けている力も残っていない。
腕がゆっくりと下に落ちる。
ぼくは幸せな気分のまま、力を抜いた。
がくんと後ろに倒れた頭を、大きな掌に支えられたのが分かった。
腰に回されていた腕にぐっと力が入り、そっと宝物に触れるようにして抱きしめられる。
水中に揺れるマントが波の動きに合わせ、ぼくを包み込む。
そして遠慮がちにそっと唇に触れたのは――
ぼくのものよりもちょっと大きくてかさついた、聖騎士様の――。
暖かいものがゆっくりと、空っぽになったぼくの体に注ぎ込まれていく。
なんて甘くて優しい魔力なんだろう?
ぼくはうっとりとしながら、意識を手放した。
夢を見ていた。
とても幼かった頃の夢。
あの頃のぼくは体が弱かったから、よく熱を出しては寝込んでいた。
「ミルフィー」
舌足らずな甲高い、マカロンの声がする。
ぼくはゆっくりと、起き上がってドアを見た。
ドアが細く開いたかと思うと、ドアノブにぶら下がるようにしてマカロンがちょこんと顔をのぞかせる。
大人の目を盗んで、お見舞いに来てくれたんだろう。
背伸びをした足がぷるぷると震えている。
マカロンはぼくが起きていることに気が付くと、パッと顔を輝かせてベッドに駆け寄ってきた。
「大丈夫? ミルフィー」
「うん」
「あのね、ワインと羊飼いのボリジと一緒に湖に行ったらね、四葉のクローバーを見つけたの。だから、ミルフィーにあげるね」
マカロンが誇らしそうな顔で、ぼくに四葉のクローバーを差し出した。
「ありがとう」
うふふ、とくすぐったそうにマカロンが笑い、ぼくのベッドに身を投げ出すようにして抱き着くと、勢い込んで大きな声でまくし立てる。
「それとね、あのね、ボリジがいいことを教えてくれたの!」
「いいことって?」
「あのね、湖の中には、妖精の女王様がいるんですって! 女王様はすっごく強い魔力を持っていて、魔女様がこの国に来る前は、一人でこの島を浄化していたんですって!」
「ふーん」
「この国に春を呼んでいるのも、この女王様なんですって! だからね、ミルフィー、湖の女王様にお願いに行こう! きっとミルフィーの魔力も大きくなって体も強くなると思うの!」
ああ、そうだった。
だからぼくたちは、湖にピクニックに行きたいとねだって、一番上の兄コニャックに連れてきてもらったんだ。
そして、兄の目を盗んで、ぼくは湖に飛び込んだ!
「妖精の女王様、ぼくに魔力を分けてください!」
一心にそれだけを願ってぎゅっと目を閉じる。
スカートがぶわりと膨らみ、ぼくはぎゅっと足を折りたたんで、鼻と口を両手で押さえ、必死になって女王様に呼びかけた。
湖の底には美しい宮殿があると思っていたのに……。そこにあるのは、白い小石だけ!
ぼくはがっかりとしながら、石に映る波紋をじっと睨みつけた。
「女王様……」
息が苦しい。
でもだめ!
ぼくは女王様に会って、絶対に魔力を分けてもらうんだから!
「なんと、無茶なことをする!」
その時だった。頭の中に女の子の声が聞こえてきたのは。
ぼくはびっくりして顔を上げた。
そこには、長い髪を炎のように揺らめかせる、美しい15歳ほどの乙女がいた。
そうだった。ぼくはあの日、領地の湖で乙女に出会った。
血相を変えたコニャックが湖に飛び込むまで――乙女はぼくにたくさんのお話をしてくれた。
小精霊と仲良くなる方法。
昔は湖の周りにたくさんの人が来てくれて、歌を歌ったり舞を舞ったりしていたから楽しかったけど、最近は一年に一回しか来てくれないから、寂しくてたまらないということ。
そして乙女はぼくに小さな真珠をくれたんだ。乙女の魔力のほんの小さなかけら。
だけど人間にはこれくらいがちょうどいいだろうって。
乙女はぼくが真珠を飲み込んだのを確認して、にっこり笑ってこう言った。
「これでわらわたちはもう友達ゆえ、遊ぶときは絶対にわらわも呼ぶんじゃぞ!」
ああ、そうだった。
だからぼくたちは、湖の周りで遊ぶときは、見えない乙女を加えた三人でいつも遊んでいたんだった。




