舞姫様の馬車だ!
4月30日、19時20分。
もうこんな時間だというのに、まだ外は夏の午後4時のように明るい。
その日ぼくは朝からしゃべることを禁止され、はちみつを入れたカモミールティーだけを口にすると、タウンハウス前に付けられた教会の馬車に乗り込んだ。
湖の乙女を模した、薄いひらひらとしたワンピース。
すっぽりと顔を隠す長いベールをかぶり、頭にはこの日のために特別に育てられた大輪の花で作った冠を載せている。
あくまでも舞姫は依り代だからね。顔は見せず器に徹しなければならない。
ぼくは、小ぢんまりとした二頭立ての馬車に一人揺られていた。
ビロードのカーテンのかけられた車内は薄暗く、どこか埃っぽい匂いがする。
ぼくは知らず膝の上で手をぎゅっと握ると、うつむいて裸足の足を見つめていた。
カーテンの隙間から入る細い光が、橋のように窓と床をつなぎ、ぼくの小さな爪を闇に浮かび上がらせている。
「大丈夫」
ぼくはそっと心の中で呟いて、マカロンから預かったブレスレットに触れた。
今日のぼくはミルフィーユじゃない。マカロンだ。
5歳の頃から10年間。マカロンと一緒に稽古をしてきた。その時間は決して裏切らない。
「大丈夫」
顔を上げて、背を伸ばして。
中央広場にある大聖堂の鐘が鳴る。
広場にはたくさんの人々が集まっているんだろう。淀んだ風が吹き、貴族たちが値踏みをするように囁き合っている波動が伝わってくる。
好奇心、嫉妬心、嗜虐心——そして、悪意。
大聖堂の周りにいた小精霊たちが、居心地が悪そうにふわふわと馬車に逃げ込んできた。
湖での神事は、宮廷魔法使いの映像転写魔法により、水晶玉を介して大聖堂の白い壁に映される。
いくら王様と言えど、神事の間は湖に近づけないからね。みんな神事を見るために、ここにこうして集まっているんだ。
ぼくはベールに戯れるようにしがみつく小精霊を人差し指で撫でると、座席に座りなおし深く背を預けた。
それからどれくらい馬車に揺られていたんだろう?
緊張が疲労に変わる頃、華やいだ子供たちの声が聞こえてきた。
「舞姫様の馬車だ!」
「湖の乙女だ!」
カーテンの向こうから、わっと声が上がるのが聞こえた。
ぼくはそっと顔を上げると、座席にもたれたままカーテンの隙間から外を眺めた。オレンジ色の光に照らされた子供たちが、まぶしいものを見るような顔でこちらを指さしている。
小精霊がぼくの手から離れ、ふわふわと外に飛んで行った。
カーテンがかかっているから、向こうからはぼくの姿が見えないはずなのに――最後の冬の日。春を待ち望む人々の目はみんなキラキラと輝いていて、良いことが起こるのを信じて疑わないという顔で、馬車に手を振っている。
見えないと思うけど……。それでも、ぼくはカーテンの向こうで、小さく手を振り返した。
それから30分くらい馬車に揺られていたのかな?
石畳がでこぼことした土の道に変わり――郊外に入ったんだろう。車輪がモミの小枝を踏み潰したのか、青い清涼感のある香りが鼻に届いた。
村の広場では薪の前に若者たちが集まって、早くもビールを片手に明日建てる『精霊の木』を守って歌い騒いでいる。
ヤギや鶏の声が遠ざかり、ウタツグミのさえずりが聞こえ――
森に入った。
馬車の速度が落ち、ゆっくりと止まる。
ぼくは目を閉じて細く長く息を吐くと、背筋を伸ばしてドアが開くのを待った。




