第5話 決意する
「行かないでくれ!」
声を上げて飛び起きる。
荒い息を吐きながら、辺りを見回す。
小さな衣装箪笥、食事用のテーブルと椅子、開いたこともない本が詰まった本棚。殺風景な、自分の部屋だ。
窓から差し込む光は柔らかく、まだ日が昇り始めた時分だ。窓の外では小鳥が騒がしく鳴いている。
いつも通りの部屋に少し安堵したのもつかの間、今度は頬と頭が激しく痛む。
ハルトは、昨日メアリーの父親に胸ぐらを掴まれてからの記憶がないことに気がついた。
痛む頬を触ると、大きく腫れあがっており、熱を持っていた。あのまま殴られて気絶したのだろう。怒りがこみあげてきたが、自業自得だと思い直す。きっと、まともな生活をしていたのなら親父さんも殴りはしなかっただろう。
喉がカラカラで、変な動悸がする。水を飲もうと枕元の水差しを見るが、中は空っぽだった。
いつもはメアリーが入れてくれているのだが、昨日の様子では当然、ハルトの世話などできる状態ではない。それに今日だけではない。あの病に罹った以上、もうここには二度と来られないだろう。
その事実が、ハルトの胸をゆっくりと締め上げる。
頭を振って雑念を払い、台所へ行って、水を飲んで一息つく。
しかし胸に粘りつく、黒く重い感情が消えることはなく、むしろ体中にゆっくりと広がっていく。
その黒いモノがまるで意思を持っているかのように、必死にしまい込んでいた記憶の蓋を開ける。そして、アキヒロとメグミの最期が頭に浮かび上がる。
メアリーと同じ病を患った二人は、一か月持たずに体中が黒いあざで埋め尽くされ、最後はミイラのように水分を吸われて死んでしまった。
二人の無残な死はハルトの心を折り、現実から逃げ出させるには十分すぎた。
「メアリーもそうなるのかよ……」
ぼんやりとした頭で、誰もいない部屋に向かって呟く。
突如現れた黒いあざと高熱、そして意識の喪失。どれも二人のときと同じ症状だ。まず間違いない。
メアリーが干からびていく姿を想像して、思わずえづく。水を飲んで無理やり抑え込むと、今度は涙が零れ落ちる。
ハルトは涙をぬぐい、しかし何もする気にはならず、仰向けにベッドに倒れ込む。
布団は汗でびっしょりと濡れていたが、彼はそんなことを気にする余裕すらなく、天井をボーっと見つめていた。
普段なら酒場が開くまで町をぶらぶらと歩いて時間を潰し、一番に店に入って酒を飲むのだが、今はそんな気にすらならなかった。
何も考えないようにしよう。いいように考えよう。もしかしたら自分の見間違えで、メアリーは別に大した病気ではないかもしれない。そう思い込もうとするが、数秒もすればあざの浮かび上がったメアリーの姿を思い出す。そしてその姿が、かつての仲間の最期と重なる。
あのとき、自分なりに動いてみたが、結果は振るわずに終わった。
特殊能力で二人の病気を調べてみたが、「不明」と表示されるだけで何の情報も得られなかった。肝心なときに役に立たない自分の能力を、あれほど恨んだことはない。
近くの町を走り回って医者を呼んだ。
有り金を全部はたいて、ありとあらゆる薬を試した。
誰も知らない未知の病気だった。太古の病なのではないかと言った医者もいた。
結局、症状は良くならず、二人ともハルトを残して死んでしまった。
思い出したくないが、記憶に蓋をしようとすればするほど、意図せず涙が流れ落ち、息が荒くなっていく。
メアリーからもらったペンダントを握りしめる。
アキヒロとメグミが死んだことに絶望し、町から町へ歩き、酒場で飲んだくれていた。そんな自分を見つけ、支えてくれたメアリーまで、目の前から消えていこうとしている。
「いやだ……」
駄々をこねたところで、事態は好転しない。そんなことはわかっている。
寝ていても黒い感情が容赦なく押し寄せてくるだけだ。それから逃れるために、ハルトはあるはずもない酒を探して、部屋中のものを引っ掻き回す。
衣装箪笥、本棚、台所……ありとあらゆるところを探すが、もちろん酒はない。
「くそっ!」
気が狂いそうになりながら、小さな箪笥に手をかけ、勢いよく引き出す。
中に入っていた古びた手帳が視界に入った刹那、ハルトは勢いよく箪笥を閉めた。
大きな音が部屋に響く。その音が次第に小さくなり、やがて消えると、先ほどよりも深い静寂が訪れる。
あれはアキヒロが書いていた手帳だ。
あのとき、二人の武器や防具はすべて売却して治療費に使った。だが手帳は値段がつかず、アキヒロの頼みもあってハルトが受け継いだ。
見たら二人を思い出すから。そう思い、この箪笥は絶対に開けないようにしていた。だが思わず開けてしまい、二人が死んだことをまた実感してしまった。
意図せぬ邂逅に涙があふれ、体が震える。
止まらない涙をぬぐい、歯を食いしばって嗚咽を堪える。
しばらくすると、ハルトの感情はゆっくりと落ち着いていく。大きく深呼吸して、冷静さを取り戻す。そうだ、今するべきことは、泣くことではない。
(前は確かに何をやってもダメだった。だからって、俺はメアリーが死ぬのを、指をくわえて待つのかよ?)
あの二人が久しぶりに夢で出てきたことは、きっと偶然じゃない。
そうだ。あのときだって、二人は最期の最期まで、生きる術を考えていた。ハルトに色々な案を出してくれた。そんな二人を見ていたのに、元気な自分が何もせずに諦めてどうするのか。
記憶の底に沈んだ夢を、必死に手繰り寄せる。――そうだ、二人はどこかに行けと言っていた。
もう一度引き出しを開け、もう二度と見たくなかったアキヒロの手帳を取り出し、中をぺらぺらとめくる。
細かい字でびっしり書かれていた手帳だが、病に関することは何一つ載っていない。それはわかっている。
手帳を閉じて、ゆっくりと思案する。医者や薬師ですらわからない病を、素人の自分がどうやって治すのか。
いや、専門家だって知らないことはあるはずだ。ならば自分が調べればいい。
ハルトはこの町に古くからある図書館のことを思い出した。
この辺りでは最も蔵書数が多いと聞いたことがある。もしかしたら何か解決策が載っている本があるかもしれない。
思い立ったハルトは涙をぬぐい、着の身着のまま家を飛び出した。




