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第三話 深雪

夕暮れ、窓の外は薄い茜色に染まり、雨上がりの空気が町に重く残っている。

桜久はスマホを握ったまま、しばらく画面を見つめていた。

電話を掛けるだけなのに妙に緊張する。

学校へ行かなくなってから、人と話す機会はほとんど無かった。声を出すこと自体が、少し億劫になっている。相手が今朝話した深雪であってもだ。


数秒迷った末、深雪へ発信する。

呼び出し音は二回で切れた。


「はいはーい。どした?」

明るい声が耳へ飛び込んでくる。

その元気さに、桜久は少し戸惑った。

自分の沈んだ声との温度差が、うまく噛み合わない。


「……もしもし。僕だけど」


「知ってるよ。通知でわかるし。で? どした?」

深雪は昔からこうだった。

遠慮がない。

だから助かる時もある。


桜久は少し黙り込んでから、小さく口を開いた。


「今夜……ホタル、見に行か――」

「行く!」

言い終わる前に返事が飛んできた。


「え?」

「早めに瀬名川着きたいし、今から準備するね。夕飯コンビニで買お。じゃねー」


「ちょ、待――」

ツーツー……。

通話は一方的に切れた。

桜久はスマホを見つめたまま、小さく息を吐く。

昔からこうだ。

人の話を最後まで聞かない。

けれど、その強引さに救われてきたことも多かった。


瀬名川までは歩いて三十分ほど。

子供の頃から何度も遊んだ場所だ。夏になれば泳ぎ、河原でバーベキューもした。

そして、この時期にはホタルが出る。

桜久は立ち上がり、洗面所へ向かった。


「……とりあえずシャワー浴びるか」

鏡の中の自分は、思った以上にやつれて見えた。

髪も少し伸びている。

蛇口を捻ろうとした、その時だった。


「桜久ーっ! 行くよー!」

外から深雪の声が響いた。

桜久は動きを止める。

連絡してから、まだ数分しか経っていない。


「……早すぎだろ」

結局シャワーは諦め、適当に着替えると家を出た。

門の前では、深雪が制服姿のまま立っていた。

肩で息をしている。

額には薄く汗が浮かんでいた。

走って来たのだろう。


「ほら、行こ!」


「だから早いんだよ……」

小声で呟くが、深雪は聞いていない。


「ねえ桜久。今年でさ、一緒にホタル見に行くの十回目だよ。覚えてた?」

振り向いた深雪が笑う。

その顔を見ていると、桜久は少しだけ昔へ戻った気がした。

小さい頃から、祖父は何かと深雪を気に掛けていた。


「深雪ちゃんも誘ったんか?」

出掛ける前には、必ずそう聞いてきた。

深雪の家も両親が共働きだった。

祖父なりに気にしていたのだろう。

桜久は土手道を歩きながら、小さく空を見上げた。

雲はまだ低い。

雨は止んでいるのに、空気は湿ったままだった。

草の匂いが濃い。

土が水を含み、むせるような夏前の匂いを漂わせている。


深雪は学校の話を続けていた。

クラスのこと。

教師のこと。

どうでもいい男子の話。

桜久は適当に相槌を返しながら歩く。

遠くで、町の夕暮れのチャイムが鳴り始めた。

静かな川の方へ、その音だけがゆっくり流れていく。

二人は並んだまま、瀬名川へ続く道を歩き続けた。

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