第二話 梅雨入り
昼を過ぎても、空は雲が重なる様に曇ったままだった。
窓の外では風が止まり、重たい湿気だけが家の中に流れ込んでくる。天気予報では、今夜から梅雨入りだと言っていた。
桜久はようやく布団から出ると、階段を降りて居間へ向かった。
テーブルには、母親が朝置いていったラップ付きの皿が並んでいる。冷めた生姜焼きと味噌汁。共働きの両親は、最近ますます桜久に強く言わなくなっていた。
学校へ行けとも、外へ出ろとも言わない。
腫れ物に触るみたいな空気だけが家に残っている。
桜久は無言のまま電子レンジへ皿を入れた。
回転する音を聞きながら、仏壇へ目を向ける。
小さく息を吐き、線香へ火をつけた。
煙が細く揺れ、祖父の遺影がぼんやり霞む。
「……じいちゃん…。」
自然と手を合わせる。
昨年の夏に祖父が亡くなってから、胸の奥に空いた穴は塞がらなかった。
何度か学校へ行こうとはした。
制服を着て、玄関まで出た日もある。
けれど、教室を思い浮かべた瞬間に耳鳴りが酷くなり、息が苦しくなった。
結局、そのまま家へ戻ることしかできなかった。
レンジの加熱が終わる音が鳴る。
だが桜久は立ち上がらず、遺影を見つめたまま呟いた。
「じいちゃん、またホタルの時期がきたよ……」
その言葉と同時に、記憶がゆっくり浮かび上がる。
まだ小学校へ入ったばかりの頃だった。
深雪が「ホタル見たい!」
と駄々をこね、祖父が困ったように笑いながら二人の手を引いてくれた夜。
田んぼ道は暗く、水の流れる音だけが静かに響いていた。
祖父の持つ懐中電灯が、細い道をぼんやり照らしている。
やがて瀬名川へ着いた瞬間、草むらの奥で淡い光が揺れ始めた。
深雪は歓声を上げながら走り回っていた。
「すごい! 星みたい!」
両手を伸ばし、夢中でホタルを追いかける。
そして、本当に捕まえそうになった時だった。
「捕まえたらいかん」
祖父が静かな声で言った。
「ホタルはな、数日の命なんよ。見るだけにしなさい」
深雪は唇を尖らせ、不満そうに手を引っ込めた。
祖父はそんな深雪の頭を優しく撫でる。
その光景を見ながら、桜久は少しだけ面白くなかった。
今思えば、あれは嫉妬だったのかもしれない。
桜久は小さく笑った。
線香の煙がゆっくり天井へ昇っていく。
窓の外では、ぽつり、と雨の音が鳴った。
一粒。
また一粒。
ついに梅雨が始まる。
桜久は仏壇の前に座ったまま、小さく呟いた。
「……今夜、行ってみるか」




