55-心臓
『我が心臓を代償に顕現せよ、イコル』
外皮がツギハギになった空に、声が響く。
目は中央の1つ。口はない。
どこから聞こえるのか、誰が話しているのか。
きっと、変貌の瞬間を見ていたこの場の者しかわからない。
「代償だって? お前、さっき心臓盗まれてただろ」
答えはもちろん1つだ。天覆う赤き海。生命の範疇を超えた現象、あるいは神の如きモノが、声の主たるスカーレットである。対抗しようのない無窮の海に、ベルはなおも攻撃的な言葉を投げかけていた。
『手元になければ代償にならない、なんて制限はないのよ。
ついでに言うと、わたくしは心臓を創り直すこともできる。
不完全な獣に成り果てるなどと、期待しないことですわ』
あちこちから伸びた触手が、ベルたちの頭上に集まり球体を掲げる。脈打つそれは、アリババが盗んだはずの心臓だ。
盗まれ、ついでに言うと代償にもしているはずなのに、彼女の核は依然としてその手中にある。今の体に合わせた大きさで、刃も魔術も通りそうにない。
「あれが、やつの本来の姿だってか……?
ただのバケモンじゃねぇか、冗談キツいぜ」
心臓は引き寄せられ、波紋を生みながら水面に消える。
無駄に広がっていた体は、核を収納すると、ベルたちの上空のみに収縮し引き締められていた。
触手も内に収めて、球体のような様相。
生き物だとするならたしかに化け物だが、景色として見れば、それは空から雲に変わっていた。
『化け物なんて酷いですわ。
わたくしは、誰もが持つ血ですのに』
それは嘯き、世界は踊る。女王を慰めるように、元気づけるように。瓦礫の山だった本来の街も、外皮の役割を果たしていた尖塔と錆の大地も。すべてが崩れ、再構築される。
「また変えんのかテメェ!?」
『地下へは、あなたが勝手に入ってきただけでしょう?
決戦を行うならば、相応しき地にしなければ。
それに、まだ地上に残った子もいるようだものね』
街や血肉が混ざり合う光景は、始まりの混沌。
小さなつぶやきを飲み込み、街は上下の垣根をなくす。
逃げ場はない。耐えようもない。すべては女王の思うがままだ。
『ここを、血塗られた古戦場と致しましょう』
元は数十万規模の街なのに、上書きはものの数秒だ。
変化に身構える間もなく、世界は一瞬で組み替わる。
張り巡らされた血が、空気に混ぜられていた血が、同時に変容し建物を築き上げていた。
「こいつが相応しい場だって?」
『えぇそうよ。コロシアム、のような形でもよかったのだけれど、英雄と吸血鬼ならばやはり城でしょう。
居城よりも城らしい、禍々しき牙城。心躍りませんこと?』
天蓋は完全に開かれた。遠く彼方に見えるのは、空へ噛みつかんと口を開けた牙。城壁なのか、その柵なのか、いずれにしても出られないと錯覚するには十分だ。
おまけにここは、元いたような空高く。
移動などさせられていないはずなのに、ベルたちは再び最上階の間に引き出されていた。延々と連なる城の一部が、自分たちを包囲しているようにどこを見ても一望できる。
地上より近くには、天を蠢く赤い雲が浮かんでいた。
「リチャード、お前あんなのでも殺れるか?」
「そう思うか?」
「……思ってるよ」
――正確には、思いたい。この期待が、助けに変換される気がするから。
「ならば、俺はそう在ろう。それだけを、考える」
交わる視線を断ち切り、リチャードは地面に剣の切っ先を向けたまま、力むことなく空を見上げる。その姿には、もう先ほどの脆さはない。小さくても、中身がなくても、彼は完全無欠の勇者だ。
「じゃ、やるか。オレたちしかいねぇけどさ」
何度も殺され、逃げ回り、ここに立つ。
自分を見失い、それでも歩いた先で壊れ、なお倒れない。
これぞ正しく人の歴史。失敗を繰り返しながらも、少しずつ自然を拓いた人類の在り方だった。
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リチャードは素で、ベルは重力軽減の靴で、それぞれ城の外に飛び出し戦い始める中。1人残されたシエルは、2人が目を向けなかった室内を見回していた。
「アリババもシスイさんもいない。書き換えは、あたしたちも動かしたのに。まさか、もう生きていない?
だとしても、今さらシスイさんを手放す理由なんて……」
瀕死状態で脅威にならないシスイを、スカーレットはずっと手元に置き続けた。居城の中でも、地下に降りた後でも。
人外の形になったからといって、やめる理由はない。
「いえ、そもそも目的は場所を変えることじゃない。
あたしたちは移動したんじゃなくて、隔離された。
もしくは追い払われた。だとするなら、シスイさんはともかくアリババは……」
ブツブツと考察を口にし、杖を持ち上げる。
叩かれた地面に浮かび上がるのは、夜空を模る星座。
「星……じゃなくてもいいか。疲れるし」
正確無比に描かれた星図だったが、それが魔術になることはなかった。直前で輝きを和らげると、静かにゆっくりと巡り始める。仄かな星光を浴びながら、シエルは懐からルーン石を取り出していた。
"P."
空に投げられた石は、杖を向けられるとパリンと砕ける。
刻まれた文字はP.――道標のルーンだ。
石だった砂粒は、意思を持った神秘の流れとなり、生き物のようにうねりながら一点を目指す。
「2つに分かれない……ってことは、シスイさんはまだアリババが確保してるんだ」
地下はまだあるのか、それとも階下にいるだけか。
神秘の奔流は、下を目指して流れ行く。
居城ではないため、階段はない。
しかし移動は難なくできる。
シエルの傍らに浮かんだ星座が、星に当てはめられたルーン石を撃ち出し、正確に道を開いているからから。
「ひたすら下……じゃないの? え、なにこれ」
シエルは道標を辿り、一つ下の階に降りた。
直後、示す先は右斜め上に跳ね上がり、進路が変わる。
不可思議な変動に、彼女は動揺を隠せない。
「常に移動してる……? ここそんな広かったっけ」
真相はともあれ、道標を信じずゴールはない。
困惑するシエルだったが、すぐに気を引き締めると、ルーンに追加して先ほどの占星術を再度起動する。
「疲れるとか、言ってらんないね。
持ち得る力を総動員して、手繰り寄せないと」
シエルの背後で、星座は巡る。
ぐるぐる、ぐるぐると、世界の様相を現して。
ただ今回、模型は普通の空ではない。
金や蒼い星があり、全体を制する赤がある。
この街に散らばる、強者や戦いの写し身だ。
もっとも、それらは原則、正しい星空に当てはめられたものではあるが。
「この偽りの空の中で、あなたはきっと星喰らい。
触れるすべてを盗んで奪って、力を増してく強欲な渦」
赤い空はスカーレット。不動の金はクレア。
蒼星は弱り、銀星は弾ける。無色の流星はリチャードか。
ならば、万火のシスイはどの星だ?
見境なく手を伸ばすアリババはどの星だ?
満天の星空を瞳に映し、シエルは必死に星を読む。
「――そこ」
占術が終わったのか、シエルはいきなりある一点に杖を向ける。星空が示すところの暗黒星。周囲の星を引き寄せるベールが当てはまる方向に、魔力弾は撃ち込まれた。
床を穿ち、壁を崩し、光線は長く長く道を開く。
時折ブレるがなんのその。最終地点は変わらないとばかりに、愚直に光は突き進む。
運命は定まった。道標のルーンも、今では同様にそちらの方へ一直線に向かっている。とはいえ、道を示せてもついて行けなければ意味はない。目まぐるしく変わる城内を、うねる光線を、シエルは歯を食い縛りながら懸命に追う。
「脳みそ、焼き切れそう……」
速すぎる視界が、立て続けに判断を迫る。
生えてくる壁への対処や、目標の捕捉、そのための魔術制御に飛行のコントロールと、同時に考えることが多すぎた。
シエルの目は充血し、額に汗が伝っている。
わずかでも食い違えば、その場で崩れてしまうだろう。
衝突で死ぬか、迎撃の場に誘き寄せられ果てるか。
アリババへの道は細く、一度のミスも許されない。
「だけど!」
それでも、下唇を噛むことで集中力を保ち、シエルは赤い空を征く。戦う力は不足なれど、星読み泳ぐは学者の本分。
長く一瞬の学途は、遂に最後の神秘へ辿り着く。
「――」
突き進んだその先に、不思議な浮遊感が満ちた空間があった。中は空洞で、浮かぶ心臓以外ではただ赤い潮のみが漂う地獄。
命を縛り、苛み、外敵を排する防御機構に、ただ1つの人の影。星の光は、狙い違わずその胸部を貫いた。
「見つけたよ、アリババ!」
「――!!」
返事はない。動きはない。それは潮に囚われ足掻く肉でしかないから。だが、弱々しくも確かな存在がここにはある。
頭部を無くしながらもシスイを抱え、手を差し出している盗賊王アリババの姿が。




