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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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番外編第五話 父親が休めなかった日、娘は奇跡を選ばなかった

診療所が閉まる直前、オズマは薬瓶のラベルを二度読み直した。

指先が震え、椅子に腰を下ろす。

ミウは父の手から薬瓶を受け取った。

「お父さん?」

「少し立ちくらみがしただけだよ」

そう言って笑おうとした顔は青白い。

ミウは父を椅子に座らせ、サーラに水を頼んだ。

オルドが来て脈を確かめると、オズマは観念したように目を閉じた。

「休息が必要です。今日の診療は終わりにしましょう」

「まだ待っている患者が」

「私たちが診ます」

ミウは父の言葉を遮った。

第六十六話で決めた分担を、最初に破ろうとしているのが父自身だった。

ここで必要なのは奇跡ではなく、父が診療を人に任せることだ。


診療所の外には、まだ数人の患者がいた。

サーラが事情を説明すると、年配の男が声を荒らげた。

「先生にしか治せない病なんだ。ほかの医者じゃ困る」

ミウは反論しかけたが、オルドが先に病状を尋ねた。

男の妻は熱が続いているという。

診察の結果、まず必要なのは水分と体温の管理、経過観察だった。

奇跡の治癒を今すぐ使わなければならない状態ではない。

「オズマを呼ぶ必要があれば、私が判断します」とオルドは告げた。

男は納得しきれない顔だったが、妻のそばへ戻った。

ミウは、患者が父を頼る気持ちも分かった。

だからこそ、一人にすべてを背負わせてはいけなかった。


夕方、見知らぬ旅の治癒師が診療所を訪れた。

名を名乗り、王都から来たと告げると、オズマの様子を聞いた。

「記憶を代償にする治癒術なら、私にも使える」

ミウは息を止めた。

父の体調を案じるあまり、奇跡という言葉に心が引き寄せられた。

「使えば、すぐ元気になるんですか?」

「術が適応する病ならね。ただし、誰が何を忘れるかは術式による」

治癒師は自分の術式では、治療を受ける者が術者に結びつく記憶を失う可能性があると説明した。

オズマに使えば、この旅人に関する記憶が失われるかもしれない。

だが、二人はほとんど面識がない。

「それなら、代償は小さいのでは?」

ミウは思わず言った。


オルドは首を振った。

「そもそも、今のオズマに奇跡が必要か確かめていません」

旅の治癒師も頷いた。

「疲労や脱水が原因なら、まず休養と診察です。術の危険が小さいからといって、使う理由にはならない」

ミウは自分の早合点を恥じた。

父が倒れるのを見て、怖くなった。

怖さを消すために、方法を選ぼうとしていた。

「お父さんが落ち着いたら、本人にも聞いてください」

「もちろん」とオルドは答えた。

治癒を受けるかどうかは、家族の不安だけで決めることではない。

オズマは休憩室で横になり、夕方には顔色が戻った。

オルドは診察結果を説明し、数日間は診療から離れるよう命じた。

旅の治癒師の提案についても、隠さず伝えた。

「必要なら、使ってもらってもいい」とオズマは言った。

ミウは胸が痛くなった。

「必要なら、ね。今は必要じゃないって、オルド先生が言った」

「そうだね」

「お父さんは、自分が患者になっても、すぐ誰かの役に立とうとする」

オズマは言い返せなかった。

自分が休むことで患者を待たせるのが、何より怖かったのだ。


翌朝、ミウは診療所の扉に新しい紙を貼った。

『オズマ先生は休養中です。

急ぎの診察はオルド先生へ。

通常の相談はサーラが受け付けます』。

患者の中には、残念そうに帰る人もいた。

しかし、何人かは「先生も休んでください」と声をかけた。

ミウはその言葉を父に伝えた。

「みんな、怒っていないよ」

「昨日の人は?」

「奥さんの熱が下がり始めたって。オルド先生が見てる」

オズマは長く息を吐いた。

「私は、ほかの人を信じるのが下手だったのかもしれない」

「信じるのは、仕事を任せることでもあるんだよ」

ミウは少し得意そうに言った。


休養二日目、父は寝台から抜け出して記録を整理しようとした。

ミウは机に置かれた書類を取り上げた。

「お父さん、約束」

「少しだけだよ」

「少しだけ、が十回続くのを見たことがある」

「よく見ているな」

「娘だもの」

オズマは苦笑し、寝台へ戻った。

ミウは窓を開け、庭から入る風を確かめた。

父が眠っている間にも、診療所では人が働き、患者の暮らしは続いていた。

父が休むことで世界が止まるわけではない。

その当たり前のことを、父に覚えてほしかった。


三日目、旅の治癒師が帰る前に挨拶に来た。

「奇跡を断ったことを後悔していない?」

ミウは少し考えた。

「最初は、使ってほしかった。お父さんが苦しそうだったから。でも、必要かどうか分からないのに使うのは違うと思った」

「そうだね」

「私も、助けたいって気持ちだけで誰かを傷つけることがあるんですね」

旅人は頷き、オズマに向き直った。

「あなたが娘さんに教えたことですか」

「私より、ずっと上手に実行しているよ」

オズマはそう答えた。

その日の午後、ミウは診療所で初めて薬の在庫を一人で数えた。

サーラが横で確認し、足りないものだけを書き出す。

誰かが熱を出したら何を尋ねるか、呼吸が苦しい人が来たら誰を呼ぶか。

学ぶことは山ほどあった。

オズマは休憩室の戸口から様子を見ていたが、口を挟まなかった。

ミウが計算を間違えると、サーラが指摘した。

娘は謝り、数え直した。

父はその姿を見て、奇跡がなくても誰かを守る方法が少しずつ増えていると感じた。


休憩室の机には、診療所の勤務表が置かれていた。

ミウは父の名前が空欄になっている日を指さした。

「ここは誰の担当?」。

オズマが「空いているなら私が」と言うと、娘は鉛筆で大きく『休む』と書いた。

「担当者は、お父さん自身」。

オズマはその字を眺め、しばらくして頷いた。

夜、ミウは父の枕元に椅子を運んだ。

「お父さん、怖かったよ」

「私も怖かった」

「あなたが椅子に座り込んだとき、私、何でもいいから治してほしいと思った。でも、何でもよくなかった」

オズマは娘の手を取った。

「私も、昔はそうだった。救うことばかり考えて、救われたあとのことを見落とした」

「だから、今度は私が止める。必要な治療なら一緒に考える。でも、怖いからって奇跡を選ばない」

「頼もしいな」

ミウは首を横に振った。

「一人じゃできないよ。オルド先生も、サーラも、みんながいるから」


オズマは、明日からすぐに仕事へ戻りたいと言いかけた。

けれど、娘の顔を見て考え直した。

「もう一日、休もうか」

「三日くらい休んで」

「厳しいな」

「患者さんには優しいのに、自分には厳しすぎるから」

ミウは笑い、窓辺の灯りを小さくした。

オズマは眠る前、診療所から聞こえる人々の声に耳を澄ませた。

自分がいなくても、命を守ろうとする人たちがいる。

その事実は、忘れられることとは違う種類の救いだった。

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