番外編第四話 救われた百人が、父親の代わりに娘へ手紙を書いた
診療所の戸口に、大きな木箱が届いた。
差出人の欄には、一人の名前ではなく『記録を調べた人たちより』と書かれている。
ミウが蓋を開けると、封筒がぎっしり詰まっていた。
数えると百通ある。
「また手紙?」
オズマは驚いた。
以前、治療記録を手掛かりに届いた百通は、彼に向けたものだった。
今回は宛名が違う。
『ミウさんへ』。
それぞれの封筒に、違う筆跡で書かれていた。
「私に?」
ミウは一通目を開けようとして、手を止めた。
「お父さん、読んでもいい?」
「君に届いた手紙だ。君が決めていい」
一通目は、町外れの畑で働く女性からだった。
子供のころ病に倒れ、オズマに治療されたと記録に残っている。
本人には治癒師の記憶がない。
だが、今は三人の子供を育て、春には毎年、畑の隅に白い花を植えるという。
『私は先生の顔を思い出せません。
でも、私が生きているから、子供たちが生まれました。
あなたのお父さんが救った先に、こんな暮らしがあります』。
ミウは読み終え、窓の外を見た。
畑はここから見えない。
それでも、白い花が揺れているような気がした。
二通目は、遠い村の教師だった。
少年時代に事故で重傷を負い、治療を受けたあと、治癒師の名前を忘れたという。
『私は今、子供たちに文字を教えています。
先生が命をつないでくれたおかげで、私が教えた子供は三百人を越えました』。
三通目は、船大工。
四通目は、助産師。
五通目は、何も成し遂げていないと前置きした老人だった。
『私は毎朝、猫に餌をやり、夕方には妻と茶を飲みます。
大きなことはしていません。
でも、今日も生きています』。
ミウはその手紙を一番長く持っていた。
「これも、救われた先の人生なんだね」
「そうだよ」とオズマは答えた。
手紙を集めたのはグラディスだった。
以前の百通とは別に、患者本人や家族に『治療後、どんな日々を送ったか』を尋ねたという。
ただし、記憶が戻ったと偽ることも、感謝を強要することもしなかった。
「書きたくない人には頼んでいません。名前を出したくない人は匿名です」とグラディスは説明した。
ミウは百通の束を見つめた。
「みんな、お父さんのことを覚えていないのに」
「覚えていないからこそ、記録を確かめて書いた人もいます」
グラディスは、記録だけで確認できないことには印を付けていた。
誰かの人生を美しい話に仕立てるために、事実を変えてはいけないと考えたからだ。
十七通目には、治癒を受けたあとも足に痛みが残ったと書かれていた。
『助かったことには感謝しています。
でも、歩けなくなった仕事もあります。
先生が悪いとは思いません。
ただ、救われたあとの暮らしにも苦しい日はありました』。
ミウはその一文を何度も読んだ。
「これ、入れてよかったのかな」
オズマは頷いた。
「よかった。助けたからといって、その人の苦しみが全部消えるわけじゃない」
ミウは手紙をほかと同じように丁寧に戻した。
父を褒める言葉だけを集めた箱なら、ここまで胸に残らなかったかもしれない。
二十八通目は、亡くなった患者の家族からだった。
治癒は成功したが、その人は数年後、別の病で亡くなったという。
『母は最後まで先生のことを思い出しませんでした。
それでも、治療のあとに私と過ごせた五年間は本物です。
あの五年を、なかったことにしたくありません』。
ミウは読み終えて封筒を閉じた。
「少し休みたい」
「そうしよう」
オズマは箱を片づけず、机の上に残した。
読む速さを決めるのは娘だ。
百通を今日中に読み終える必要はない。
翌日、ミウはエマと一緒に続きを読むことにした。
エマは封筒の番号を読み上げ、ミウが希望したときだけ中身を声に出した。
二人は途中で何度も笑った。
治療後に結婚した人が、結婚式で靴を左右逆に履いた話。
農夫が収穫祭の料理を焦がした話。
小さな子供が、救われた祖母に文字を教えた話。
「みんな、普通に暮らしてるんだね」とエマ。
「普通って、すごいことかもしれない」
ミウは笑った。
父が守ったのは、記念碑に刻まれるような偉業だけではなかった。
七十九通目は、手紙というより一枚の絵だった。
小さな家と、煙突から上がる煙。
その下に、まだ文字を覚えたばかりの子供の字で『おとうさんとごはん』と書いてある。
添えられた母親の手紙によれば、父親はかつてオズマに救われたが、治癒師のことを覚えていない。
家族で夕食を囲めるのが当たり前だと思っていた、と母親は書いていた。
ミウは絵を父に見せた。
「私も、こういう絵を描いたことがある?」
「あるよ。煙突が三本あった」
「そんな家、変だね」
「君は暖かい家が好きだったんだろう」
二人は声を立てて笑った。
手紙の束には、返信先を書いていない封筒も多かった。
ミウは全員に礼を返したかったが、グラディスは「返事を求めていない人もいます」と教えた。
ミウは考え、診療所の掲示板に一枚だけ文章を貼ることにした。
『手紙を読みました。
知らなかった人生を教えてくれてありがとう。
全部にお返事できなくても、大切に読みます』。
掲示を見た人々は、名乗らずに帰っていった。
オズマはその様子を窓から眺めた。
恩を返すことにも、受け取ることにも、正しい形は一つではない。
ミウが自分で考えて選んだ言葉なら、それが何よりの返事だった。
九十九通を読み終えたころ、グラディスが箱の底から別の封筒を取り出した。
これは患者からの手紙ではない。
百通を集める相談を受けたとき、オズマが自宅の古い書類箱から預けたものだった。
マリアの形見と一緒に保管されていた封筒には、幼い字で『おおきくなったわたしへ』と書かれている。
グラディスは「百通目として数えるかは、ミウさんが決めてください」と言った。
ミウはすぐに気づいた。
自分の字だ。
昔の日記と同じ、右へ傾いた文字。
封を開けると、短い文章があった。
『お父さんは、だれもおぼえていなくても、わたしのえいゆうです。
わたしがおおきくなって、もしわすれたら、これをよんでください』。
日付は、病気が重くなるずっと前だった。
「私、こんなことを書いてたんだ」
オズマは首を縦に振ることしかできなかった。
ミウは手紙を胸に当てた。
昔の自分の気持ちを、今の自分がそのまま感じられるわけではない。
けれど、見知らぬ誰かが書いた言葉ではないことは分かった。
「お父さん。私、昔の私になれなくてもいい?」
「もちろん」
「でも、この言葉は大事にしたい」
「ありがとう」
ミウは九十九通の手紙と自分の一通を箱に戻し、蓋の内側に新しい紙を貼った。
『救われたあとも、みんなの人生は続いている』。
そして最後に、自分の字で一行を足した。
『私とお父さんの人生も、今日から続いていく』。




