番外編第三話 父親を忘れた娘に、町の人々が教えてくれたこと
「お嬢さん、こちらはオズマ先生ですよ」
パン屋の主人に言われ、ミウは思わずオズマの顔を見た。
「知っています。今、一緒に来ましたから」
主人は慌てて頭を下げた。
「そうでした。失礼しました」
オズマは笑って取り繕ったが、ミウの肩がわずかに強張ったことを見逃さなかった。
海から戻って、娘は時折彼を「お父さん」と呼べるようになった。
それでも昔の記憶が戻ったわけではない。
町の人が善意で過去を教えようとするたび、ミウは自分が何か大切なものを忘れていると突きつけられた。
帰り道、ミウはパンの包みを抱えて言った。
「みんな、私が忘れていることを知っているんですね」
「噂が広まったんだろう」
「優しくしてくれるのは嬉しい。でも、毎回紹介されると、試験を受けているみたい」
オズマは足を止めた。
町の人々は、忘れられてきた治癒師のために何かしたいのだろう。
しかし、娘を助けるつもりが、娘に答えを強いてしまうこともある。
「嫌だったら、そう伝えよう」
「みんなを傷つけない?」
「少し困らせるかもしれない。でも、君が困っていることを知らないままよりいい」
翌日、サーラは小さな集まりを開いた。
パン屋、肉屋、時計師、近所の仕立屋。
オズマの治療記録に名が残る人もいたが、本人を覚えている人ばかりではない。
家族から聞いた話や、診療所の控えを手掛かりにしていた。
「先生に恩返しをしたいんです」とパン屋が言った。
「それなら、娘に過去を思い出させようとしないでください」とオズマは答えた。
場が静まった。
「私は忘れられても、娘が安心して暮らせるならそれでいい。彼女が知らない話を聞きたいときは、自分で尋ねます」
ミウは膝の上で手を握った。
仕立屋の女が、おずおずと口を開いた。
「でも、何もしないのも辛いんです。先生に助けられたと、母から聞きました。母は先生の顔を覚えていませんでしたけど、私が今ここにいるのは先生のおかげかもしれない」
「何もしないでほしいわけじゃないんです」
ミウが顔を上げた。
「私が道に迷ったら、道を教えてください。困っていたら、どうしたのって聞いてください。お父さんのことを知りたいときは、私から聞きます」
パン屋は深く頷いた。
「それなら、明日は新しいパンの味見を頼んでもいいかな」
「はい。それならできます」
最初に変わったのは、挨拶だった。
「オズマ先生のお嬢さん」ではなく、「ミウ、おはよう」と呼ばれるようになった。
パン屋は焼きたての小さな丸パンを一つ渡し、味を聞いた。
肉屋は夕食の相談に乗った。
仕立屋はミウの袖が短くなっていることに気づき、直し方を教えた。
オズマは何度か、昔の娘ならこう言うだろうと口を出しかけた。
そのたびにミウが自分で答えるのを待った。
娘の好みは変わっていた。
以前は甘いパンが好きだったが、今は塩を少し振ったものを選んだ。
父は新しい好みを日記に書き足した。
ある朝、ミウが一人でパンを買いに行くと、店先で立ち止まった。
昨日まで覚えていた道順が、急に曖昧になったのだ。
店の中から主人が出てきた。
「大丈夫かい?」
「帰り道が分からなくなりました」
主人は昔のミウなら一人で帰れたとは言わなかった。
「それなら、通りの角まで一緒に行こう。そこから家が見えるよ」
ミウは頷いた。
角に着くと、主人は帰り道を指さし、それ以上ついてこなかった。
「ありがとう。明日もパンを買いに来ます」
「明日も待ってるよ」
昼すぎ、オズマはその話を聞き、主人に礼を言いに行った。
「私は特別なことはしていません」と主人は言った。
「それが助かったんです」
主人はしばらく黙り、棚の奥から古い紙を取り出した。
数年前、娘が重い病にかかったときの支払い控えだった。
治療者の欄にはオズマの署名がある。
「娘は先生を覚えていない。でも、今朝も元気に店を手伝っています。だから、先生が困ったときには、できることをしたい」
オズマは控えを返した。
記録は証拠になる。
しかし、礼を言わせるための札にしてはいけないと思った。
その週の終わり、ミウは小さな紙を作った。
『私は昔のことを忘れていることがあります。
困っていたら、まず何が必要か聞いてください。
知りたいことは私から尋ねます』。
町の掲示板に貼ろうとすると、オズマは心配した。
「誰にでも病気のことを知らせなくてもいいんだよ」
「分かってる。これは私が選んだこと」
ミウは少し考え、最後の一文を加えた。
『この紙を外したくなったら、自分で外します』。
オズマは頷き、掲示板の低い位置に紙を留めた。
掲示板の紙を見た少年が、ミウに「忘れるって、寝坊みたいなもの?」と尋ねたことがあった。
ミウはすぐに説明できず、近くにいたオズマを見た。
父は代わりに答えようとしなかった。
ミウは少し考えて言った。
「寝坊なら起きたら分かるでしょう。私のは、起きても思い出せないことがあるの」。
少年は「それは怖いね」と言ったあと、「じゃあ、昨日遊んだことを今日も話すよ」と笑った。
ミウは頷いた。
少年は翌日、本当に昨日の遊びを話してくれた。
ただし、続きを遊ぶかどうかはミウに聞いた。
町の助け合いは、大きな約束より、そんな小さな問いかけから形になっていった。
数日後、ミウは肉屋の前でオズマとはぐれた。
店の主人は、彼女を見てすぐに父親を探しに走ろうとしたが、足を止めた。
「どうしたい?」
「ここで待ちたいです。オズマさんは、きっと戻ってきます」
主人は店の軒先に椅子を置いた。
ミウはそこで待ち、通りを歩く人々を眺めた。
誰も「お父さんを忘れたのか」とは聞かなかった。
しばらくしてオズマが駆け戻ると、ミウは手を振った。
「ここで待てたよ」
「よかった」
「オズマさん、心配しすぎです」
オズマは少し寂しく、それ以上に嬉しかった。
娘は誰かに教えられたからではなく、自分の判断で待っていてくれたのだ。
夕方、町の小さな集まりで、パン屋がオズマに言った。
「先生を覚えていない人がいても、先生がしてくれたことまで消えたわけじゃありません。これからは、お嬢さんが困らない町にしたい」
オズマは礼を言いかけ、首を振った。
「ミウだけじゃない。忘れてしまう人も、覚えている人も、困ったときに助けを頼める町ならいい」
ミウは隣で頷いた。
父を知っているかどうかを問われるより、今ここで何をしたいか聞かれるほうが嬉しい。
その夜、彼女は日記に書いた。
『今日、町の人たちは私に父親を紹介しなかった。
でも私は、少しだけ父を知ることができた』。




