番外編第六話 十年前、娘が忘れた最後の「おやすみ」を、父はずっと覚えていた
ミウが十七歳になった春、オズマは古い木箱を開けた。
中には、色あせた赤いリボン、小さな革靴、角の丸くなった積み木、そして一冊の薄い帳面が入っていた。
「お父さん、これ、私の?」
「ああ。お前が小さかったころのものだ」
ミウは革靴を手に取った。
「こんなに小さかったんだ」
「その靴で初めて三歩歩いた。四歩目で転んだんだ」
「そこまで覚えてるの?」
「もちろん」
オズマは笑った。
「お前のことだからな」
ミウも笑った。
だが、帳面を見つけた途端、その笑顔が少し変わった。
表紙には、父の字でこう書かれていた。
『ミウが忘れたもの』
「……これ、読んでもいい?」
オズマの手が止まった。
十年間、誰にも見せなかった帳面だった。
娘が病に苦しみ、少しずつ記憶を失っていった日々。
そして、自分を忘れてしまったあとの日々。
そこには、父親として最も弱かった自分が残っている。
「……つらいことも書いてあるぞ」
「うん」
「お前が覚えていないことも」
「だから、読みたいの」
オズマは少し迷ってから頷いた。
ミウは最初のページを開いた。
『今日、ミウは朝食に何を食べたか忘れた』
『昨日、一緒に焼いたパンを覚えていなかった』
『エマと仲直りしたことを忘れた』
ページをめくる。
『今日は、自分の誕生日を忘れた』
『今日は、母さんの声を思い出せなかった』
『今日は、俺の名前を三度書いた』
ミウの指が止まった。
「……三度?」
「ああ。忘れないようにって、何度も書いてくれた」
「でも、忘れたんだね」
「……ああ」
次のページには、短い一行があった。
『ミウが、俺を忘れた』
その文字だけ、紙に深く食い込んでいた。
何度もペンを押しつけたように。
けれど、その下には、別の一行が丁寧に書かれていた。
『今日、娘の命が助かった』
ミウは二つの文章を見比べた。
「……お父さん」
「うん」
「この日、嬉しかった?」
オズマはすぐには答えられなかった。
嬉しかった。
娘は生きていた。
熱は下がり、呼吸は落ち着き、もう命を失う心配はないとオルドが告げた。
けれど、その代償として、娘は父親を忘れた。
自分が誰なのか。
どれほど愛しているのか。
一緒に過ごした七年間さえ。
「……嬉しかったよ」
オズマは答えた。
「でも、悲しくもあった」
ミウは静かに頷いた。
そして続きを読んだ。
『今日は、ミウが俺の作ったスープを飲んだ』
『今日は、初めて俺に笑ってくれた』
『今日は、俺の名前を尋ねてくれた』
『今日は、同じ食卓で夕食を食べた』
忘れたものを記録していたはずの帳面が、いつの間にか、新しく生まれた思い出の記録に変わっていた。
「……お父さん」
「うん?」
「このころ、私が笑うだけで嬉しかったの?」
「ああ」
「名前を聞くだけでも?」
「ああ」
「そんなことで?」
オズマは微笑んだ。
「そんなことが、俺には宝物だったんだ」
ミウはしばらく黙っていた。
やがて、最後のページを開いた。
そこには、ほかの記録より古い日付と、一行だけが書かれていた。
『あの夜のことを、いつかミウに話せるだろうか』
それは、帳面を書き始めたころ、オズマが最後のページに残した言葉だった。
その後も、何度も続きを書こうとした。
けれど、結局、一文字も書き足せなかった。
「……あの夜?」
オズマの表情が変わった。
「それは……」
「話して」
「ミウ」
「お願い。私が忘れたことを、お父さん一人の思い出にしたくないの」
オズマは娘を見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
十年前。
治療を終えたミウは、三日間眠り続けていた。
熱は下がった。
呼吸も落ち着いた。
オルドは、命の危険は去ったと告げた。
けれど、オズマは娘の寝台から離れられなかった。
目を覚ましたとき、ミウは自分を覚えていないかもしれない。
治癒の代償は、いつもそうだった。
助けた相手の記憶から、自分が消える。
だが、これまで救ってきた誰とも違った。
今度は、娘だった。
自分が生まれたときから抱きしめてきた、たった一人の娘。
「……ミウ」
オズマは小さな手を握った。
「目を覚ましてくれ」
何度もそう願った。
けれど同時に、目を覚ますのが怖かった。
娘が最初に自分を見て、誰なのかと尋ねることが。
三日目の夜。
ミウの指が動いた。
オズマは顔を上げた。
「……ミウ?」
娘のまぶたが、ゆっくりと開いた。
「……ここ、どこ?」
「治療院だよ」
「……だれ?」
オズマは息を止めた。
覚悟していた。
何度も想像していた。
それでも、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
「……オズマだよ」
「おいしゃさん?」
「……ああ」
嘘ではなかった。
ただ、一番伝えたかったことを言えなかった。
俺がお父さんだ。
お前が生まれた日、初めて抱き上げたのは俺だ。
夜泣きするお前を、何時間も抱いて歩いた。
初めて笑った日も、初めて歩いた日も、全部覚えている。
そう言いたかった。
けれど、娘の目には、目の前の男と父親を結びつける記憶がなかった。
「……わたし、びょうきだったの?」
「ああ。でも、もう大丈夫だ」
「よかった」
ミウは笑った。
その笑顔は、昨日までと何も変わらなかった。
変わってしまったのは、娘の中にいる自分だけだった。
その夜、ミウは何度も目を覚ました。
知らない部屋が怖かったのだろう。
そのたびに、オズマは水を飲ませ、毛布を掛け直した。
夜が深くなったころ。
ミウが小さな声で尋ねた。
「……ねえ、おいしゃさん」
「どうした?」
「おとうさんは?」
オズマの手が止まった。
「……お父さん?」
「うん」
「どうして?」
「おとうさん、きてくれないの?」
ミウは不思議そうだった。
病気で眠っていたのだから、目を覚ませば父親が迎えに来る。
七歳の少女にとって、それは当たり前のことだった。
オズマは唇を噛んだ。
ここにいる。
ずっと、ここにいる。
けれど、娘にとって自分は知らない男だった。
「……お父さんは」
声が震えた。
「お前のことを、とても大切に思っているよ」
ミウは頷いた。
「しってる」
オズマは顔を上げた。
「……知ってる?」
「うん」
「どうして?」
ミウは少し考えた。
「……わかんない」
そして、眠そうな目をこすりながら言った。
「でも、だいじにされてたきがする」
オズマは何も言えなかった。
娘は自分を覚えていない。
顔も、名前も、声も。
一緒に過ごした七年間も。
それなのに。
大切にされていたという感覚だけが、どこかに残っているのだろうか。
ミウは毛布に潜り込んだ。
「ねえ、おいしゃさん」
「うん」
「おとうさん、あしたくる?」
オズマは答えた。
「……ああ」
「ほんと?」
「必ず」
「じゃあ、まってる」
ミウは安心したように目を閉じた。
オズマは娘の手を握った。
温かかった。
生きている。
その事実だけで、十分なはずだった。
けれど、眠りに落ちる直前。
ミウの唇が、小さく動いた。
「……おやすみ、おとうさん」
オズマは動けなかった。
娘は目を閉じていた。
誰に向かって言ったのか、分からなかった。
眠る前の習慣が、口をついて出ただけかもしれない。
目の前の男を父親だと思い出したわけではない。
それでも。
オズマは娘の手を握りしめた。
「……おやすみ、ミウ」
声が震えた。
「お父さんは、ここにいるよ」
返事はなかった。
穏やかな寝息だけが聞こえた。
オズマは娘の寝台に顔を伏せた。
声を出さずに泣いた。
娘が目を覚まさないように。
怖がらせないように。
自分が父親だったことを、無理に思い出させないように。
ただ、泣いた。
その夜、オズマは帳面を開いた。
最後のページに、こう書いた。
『あの夜のことを、いつかミウに話せるだろうか』
その下に、もう一行を書こうとした。
けれど、書けなかった。
『娘が、俺をお父さんと呼んでくれた』
そう書いてしまえば、まるで娘が自分を思い出したかのようだった。
それは違う。
娘は、まだ自分を知らない。
だから、書かなかった。
ただ、あの小さな声だけを胸にしまった。
明日の朝、娘がまた「だれ?」と聞いても。
明後日も、その次の日も。
自分はここにいる。
父親として。
たとえ、娘が知らなくても。
話し終えたオズマは、長く息を吐いた。
ミウは俯いたままだった。
帳面の最後のページに、涙が一粒落ちた。
「……そのあと、どうしたの?」
「そのあと?」
「次の朝」
オズマは微笑んだ。
「お前は俺を見て、また『だれ?』と聞いたよ」
ミウの目から、もう一粒涙が落ちた。
「……ごめんね」
「謝ることじゃない」
「でも……」
「ミウ」
オズマは娘の手を取った。
「お前は生きていてくれた。それだけで、俺は救われたんだ」
ミウは首を振った。
「違うの」
「……何が?」
「私が謝りたいのは、忘れたことじゃない」
ミウは顔を上げた。
「お父さんが、一人で泣いていたことを知らなかったこと」
オズマは目を見開いた。
「私、ずっと思ってた。お父さんは強い人だって。どんなにつらいことがあっても、誰かを助けられる人だって」
ミウは父の手を握り返した。
「でも、本当は怖かったんだね」
「……ああ」
「悲しかったんだね」
「……ああ」
「私に、忘れられたくなかったんだね」
オズマは答えられなかった。
十年前、誰にも言えなかった言葉が、胸の奥で震えていた。
忘れられたくなかった。
娘にだけは。
自分が父親だったことを。
一緒に笑った日々を。
妻と三人で過ごした短い時間を。
何一つ、失いたくなかった。
けれど、娘を救うために、そのすべてを差し出した。
ミウは立ち上がった。
そして、父親を抱きしめた。
「お父さん」
オズマの背中に、娘の腕が回った。
七歳だった少女の腕は、もう小さくなかった。
「十年前の私の代わりに、言ってもいい?」
オズマは頷いた。
ミウは父の耳元で、ゆっくりと言った。
「お父さん、ただいま」
オズマの肩が震えた。
「……おかえり」
「ずっと待っててくれて、ありがとう」
「……ああ」
「私が忘れても、迎えに来てくれて、ありがとう」
オズマは娘を抱きしめ返した。
「……おかえり、ミウ」
十年前に言えなかった言葉だった。
娘が目を覚ましたあの日。
父親として迎えたかった。
おかえり、と言いたかった。
その願いが、十年かけて叶った。
しばらくして、ミウは父から離れた。
涙で赤くなった目をこすり、古い帳面を開く。
最後のページ。
『あの夜のことを、いつかミウに話せるだろうか』
その下の空白に、ミウはペンを走らせた。
『十年後、聞きました』
少し考え、もう一行。
『あの夜の私は、お父さんを忘れていました』
そして最後に、こう書いた。
『でも、今日の私は、お父さんが泣いたことを忘れません』
オズマはその文字を見つめた。
「……ありがとう」
ミウは首を振った。
「まだあるの」
「何が?」
「十年前の私が、ちゃんと言えなかったこと」
ミウは父の両手を握った。
そして、七歳の少女が言うはずだった言葉を、十七歳になった娘が口にした。
「お父さん」
「うん」
「私を助けてくれて、ありがとう」
オズマの目から涙が落ちた。
「……ああ」
「私のお父さんでいてくれて、ありがとう」
オズマは声を出して泣いた。
今度は、隠さなかった。
娘が目を覚まさないように気を遣う必要もなかった。
自分が父親だと名乗ることをためらう必要もなかった。
娘は知っている。
目の前の男が、自分の父親だと。
その夜。
ミウは寝室へ向かう途中、廊下で振り返った。
「お父さん」
「どうした?」
「おやすみなさい」
オズマは微笑んだ。
「おやすみ、ミウ」
娘は一度頷いた。
けれど、すぐには部屋へ入らなかった。
「……ねえ、お父さん」
「うん?」
「十年前の私が言った『おやすみ』、覚えてる?」
「ああ」
「じゃあ、今日のも覚えててね」
「もちろんだ」
ミウは少し笑った。
「私も覚えていたい。でも、もしまた忘れたら……」
オズマは娘を見つめた。
「そのときは、また教えるよ」
「ううん」
ミウは首を振った。
「そのときは、もう一度、お父さんに『おやすみ』って言うね」
オズマは、しばらく言葉を失った。
そして、ゆっくり頷いた。
「……ああ。何度でも聞かせてくれ」
ミウは笑った。
「約束ね」
扉が静かに閉まった。
オズマは廊下に一人残った。
十年前。
娘が眠りながら口にした「おやすみ」を、彼はずっと覚えていた。
あのとき、娘は父親を覚えていなかった。
けれど今夜。
娘は自分の意思で振り返り、父親の名前を呼んだ。
そして、たとえ忘れても、また言うと約束してくれた。
オズマは古い帳面を胸に抱いた。
最後のページには、娘の文字が増えている。
もう、『ミウが忘れたもの』だけの帳面ではなかった。
二人が、もう一度手に入れたものの記録だった。
オズマは表紙の下に、小さく新しい題名を書き添えた。
『ミウと、もう一度生きた日々』
そして、誰もいない廊下で、静かに呟いた。
「……おやすみ、俺の娘」
十年前には、返事のなかった言葉。
けれど今夜は、扉の向こうから声が返ってきた。
「おやすみ、お父さん」
オズマは顔を覆った。
今度の涙は、もう、悲しみだけではなかった。




