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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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番外編第一話 娘が父親を忘れる前夜、百の約束をした

番外編夕食のあと、ミウは赤い日記を膝に置き、父の袖を引いた。

「お父さん、約束を百個して」

オズマは湯呑みを持つ手を止めた。

窓の外では雨が降っている。

診療所の奥ではフェルが装置を調べ、オルドが今夜の薬を確かめていた。

誰も口にはしないが、残された時間が長くないことを、ミウも知っていた。

「百個は多いな」

「少ないと、忘れたときに困るもの」

笑おうとして失敗した娘の顔を見て、オズマは湯呑みを置いた。

「分かった。まず一つ目は?」

「明日の朝も、おはようって言って」

「それは約束する」

「二つ目。焦げたパンでも、一緒に食べること」

「焦がさない努力も約束に入れてくれ」

ミウが小さく笑った。

父はその笑い声を胸の奥にしまった。


ミウは一から番号を振り、思いつくままに書いた。

雨の日には窓辺に椅子を二つ並べること。

嫌いな薬を飲めた日は褒めすぎないこと。

エマと喧嘩したら、どちらが悪いか決める前に話を聞くこと。

日記を勝手に読まないこと。

誕生日には蝋燭を一本多く立てて、来年も生きられたと喜ぶこと。

「一本多いのは変じゃないか?」

「今年の私と、来年の私の分」

オズマは返事ができなかった。

娘は鉛筆の先を舐めようとして、父に止められた。

「じゃあ、それも書こう。鉛筆を舐めない」

「それは私の約束だ」

「お父さんも舐めないでね」

二人は同じ欄に丸を付けた。

いつもの親子のように、つまらないことで言い合えた時間が、オズマには何より惜しかった。


二十七個目で、ミウの手が止まった。

「忘れたあと、私はどこに住むの?」

「この家に住みたければ、ここに。ほかが安心なら、サーラさんのところでもいい」

「お父さんの家なのに?」

「君の家でもある。でも、知らない男と同じ屋根の下にいるのが怖いかもしれないだろう」

ミウは日記を閉じかけた。

「知らない男って言わないで」

オズマは謝った。

治療が成功しても、娘が自分を父と認めるとは限らない。

その現実を隠したくなくて、言葉を選び損ねた。

「怖かったら、怖いと言っていい。私が父親だと信じなくてもいい」

ミウはしばらく考え、二十七個目に書いた。

『私の話を、最後まで聞いてくれること』。


三十一個目は、海へ行くことだった。

「遠いんでしょう?」

「馬車で何日かかかる」

「じゃあ、途中で具合が悪くなったら帰ってもいいこと」

「もちろん」

「海を見られなくても、怒らないこと」

「怒らないよ」

ミウは首を横に振った。

「私が怒るかもしれない。だから、お父さんも怒らないで」

オズマは約束の横に小さく星を描いた。

いつか海へ行けると保証できるわけではない。

だからこそ、行けなかった日の扱いまで約束しておきたかった。


四十個目から先は、ミウが以前の日記を読み返して決めた。

母マリアが好きだった花を枯らさないこと。

母の話をするとき、悲しいことばかりにしないこと。

治療院の患者が来ても、食事を一口は食べてから出ること。

「それは難しいな」

「じゃあ、帰ってきたら食べること」

「それならできる」

「できなかったら?」

「次の日に君に叱られる」

「私が覚えていなかったら?」

「日記を見せて、叱ってもらう」

ミウは満足そうに頷いた。

約束は、記憶を戻す魔法ではない。

けれど、明日の自分が何を尋ねればいいか教える道しるべにはなる。


五十八個目は、サーラが持ってきた薬湯を冷ましてから飲むこと。

六十二個目は、フェルに危険な実験を一人でさせないこと。

七十一個目は、オルドの言うことを聞くこと。

ただし、分からない治療は必ず説明してもらうこと。

「先生の言うことを聞くのと、質問するのは両立するのね」

「そうだ。君の体のことだから」

ミウは真剣な顔で頷いた。

「じゃあ七十二個目。私が嫌だと言ったら、一回は止まって」

「命が危ないときは、止まれないかもしれない」

「そのときは、どうして止まれないか教えて」

オズマは日記に目を落とした。

娘は幼い。

それでも自分の命をめぐる話から締め出していい理由にはならなかった。


八十個を越えたころ、ミウの指が震え始めた。

オズマが休もうと言うと、娘は「あと少し」と首を振った。

文字は次第に傾き、数字の九が六のようになった。

父は日記を支え、書くのを代わろうかと尋ねた。

「自分で書く」

ミウはそう言って、八十九個目に『疲れたら休む』と書いた。

「今、約束を破ったな」

「まだ書いたばかりだから、次から」

二人は笑った。

笑いが終わると、部屋には雨音だけが残った。

九十五個目。

ミウは父に、昔の自分の話をしてほしいと頼んだ。

「でも、知らない私を責めないで。『前はできた』って言われたら、きっと悲しいから」

「分かった。今の君が何を好きか、また聞くよ」

九十六個目は、毎年同じ花を植えなくてもいいこと。

九十七個目は、昔の友達に会うかどうか自分で決めること。

九十八個目は、日記を読みたくない日には閉じておくこと。

九十九個目は、父が泣きたいときに一人で隠れないこと。

「お父さん、すぐ隠れるから」

「よく見ているな」

「娘だもの」

オズマはその一言で泣きそうになった。


百個目の欄だけ、ミウはなかなか埋めなかった。

やがて鉛筆を置き、父に手を伸ばした。

「これは書かない。耳元で言うから」

オズマが身をかがめると、娘は囁いた。

「私があなたを忘れても、私を嫌いにならないで」

胸の奥が裂けるようだった。

オズマは娘を抱きしめたいと思ったが、まず答えた。

「嫌いになれるわけがない。君が私を知らなくなっても、私は君を大切にする」

「もし私が、ひどいことを言ったら?」

「悲しくはなる。でも、その悲しさを君のせいにはしない」

ミウは安心したように息を吐いた。


日記の最後の頁に、オズマは娘の許しを得て一行だけ書いた。

『百個目は、ミウが口で伝えた約束。

内容は父が覚えておく。

いつか本人が聞きたくなったときだけ伝える』。

ミウはその下に小さな丸を描いた。

名前を書こうとして手が止まったが、父は急かさなかった。

やがてミウは、自分の名をゆっくり書き終えた。

「お父さん。約束って、全部守れなかったらどうなるの?」

「守れなかった理由を話して、また約束する」

「何度でも?」

「何度でも」

それは番号をつけない、二人だけの新しい約束になった。


夜更け、オルドが様子を見に来た。

ミウは眠り、赤い日記は枕元にあった。

オズマは百の約束を一つずつ読み返した。

守れないものがあるかもしれない。

娘が海へ行く前に体調を崩すかもしれない。

記憶が消えたあと、日記を拒む日もあるだろう。

それでも、約束は娘を縛る鎖ではない。

父が忘れずにいるための灯りだ。

オズマは日記を閉じ、眠る娘の額に手をかざしかけて、止めた。

今夜は奇跡を使わない。

まだ聞こえる呼吸に耳を澄ませ、朝が来るまでそばにいた。

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