第七十話 世界中が忘れても、私はあなたの娘です
何年もの月日が流れた。
王都の片隅に、小さな診療所が建っていた。
かつての染物小屋は改修を重ね、今では町の人々が安心して訪れる場所になっている。
その入口には、新しい木製の看板が掛けられていた。
『オズマ記念治療院』。
オズマは看板を見上げ、困ったように笑った。
「まだ生きているのに、記念治療院はないだろう」
隣に立つミウが笑う。
今では医療を学び終え、若い医師たちの指導も手伝うようになっていた。
「だって、お父さんは自分の名前を残そうとしないんですもの」
「名前なんて、残らなくてもいいさ」
「駄目です」
ミウは首を振った。
「お父さんが救った人たちが、確かに生きていたこと。そして、お父さんが確かにここにいたことを、私は残したいんです」
看板の下には、小さな文字が刻まれている。
『一人で救わない。
一人を忘れない』。
名付けに最後まで反対したオズマも、その言葉には何も言えなかった。
診療所の中から、子供たちの声が聞こえた。
ミウが教える初学者の授業が始まる時間だった。
「先生、今日の最初の問題は何ですか?」
子供たちの一人が尋ねる。
ミウは三つの瓶を机に置いた。
どれも同じ色の液体が入っている。
「札が剥がれていたら、どうする?」
「使わない!」
子供たちが声を揃えた。
オズマは扉の外で笑った。
何年も前、娘が最初に学んだ授業と同じだった。
授業が終わると、一人の少年がオズマへ駆け寄った。
「オズマ先生! 橋ができたんだって!」
テオが修理に携わった川の橋は、今では多くの人が行き交う道になっている。
少年はその橋を渡って、診療所へ通っていた。
「そうか。立派な橋になったんだね」
「僕、大きくなったら橋を作るんだ」
オズマは少年の頭を撫でた。
昔、重い熱を治した子供が橋を造り、その橋を渡った子供が医療を学びに来る。
自分の知らないところで、命は次の命へつながっていた。
午後、ミウは書庫へオズマを案内した。
棚には治療記録が並んでいる。
古い帳面だけではない。
助かった人のその後、通常の医療で治療した記録、医師たちが失敗から学んだ記録もある。
「全部、君がまとめたのかい?」
「みんなでです。ネリさんも、ハル先生も、オルド先生も」
オルドは年を取り、今では若い医師の相談役になっている。
サーラは患者の家族に話を聞く役目を続け、エマは診療所の事務を任されていた。
「この本は?」とオズマ。
ミウは赤い日記を差し出した。
幼い字で書かれた頁から始まり、途中で文字の形が変わり、最後は今のミウの筆跡になっている。
『私は今日、オズマさんをお父さんと呼ぶことに決めた』。
オズマはその行を読んだ。
何年経っても、胸が熱くなる。
「まだ持っていたんだね」
「もちろんです。昔の私が書いた頁も、今の私が書いた頁も、どちらも大切ですから」
ミウは隣の棚から、もう一冊の帳面を取った。
『救われた人々の、その後』。
そこには、橋を造ったテオ、パン屋で働く女性、釣りへ行った親子、そして崖から落ちたユアンの名前があった。
ユアンは今、診療所で器具の手入れを学んでいる。
「お父さんの人生を、全部ここに閉じ込めたいわけじゃありません」とミウ。
「うん」
「ただ、誰かが忘れても、確かめられる場所を残したいんです」
夕暮れ、二人は診療所の前に並んだ。
町の鐘が鳴り、仕事を終えた人々が家へ向かっていく。
オズマは娘を見た。
「……ミウ」
「はい、お父さん」
「幸せかい?」
ミウは微笑んだ。
「はい。とても」
そして、父親の手を握った。
「お父さんは?」
オズマは答えようとして、言葉に詰まった。
数え切れないほどの命を救ってきた。
そのたびに忘れられた。
誰かを救うことは、自分が誰かの人生から消えることだった。
それでも、今は違う。
娘が隣にいる。
仲間たちがいる。
自分の名前を知っている人々がいる。
開院記念の日、ミウは古い手紙を一通、父に渡した。
差出人は、最初に助けられた少女の家族だった。
少女自身はオズマを覚えていない。
手紙には『あの子は今、子供たちに読み書きを教えています』とだけ書かれていた。
オズマは長いあいだ文字を見つめた。
「元気でいるんだね」「はい。会いに行きますか?」
オズマは首を振った。
「あの子が望むなら、いつか。でも、今はそれだけで十分だよ」
夕方、ミウは新しい診療所の記録帳を開いた。
最初の頁に、オズマの名前がある。
その下には、オルド、サーラ、ネリ、ハル、エマ、そしてミウの名前。
誰か一人の功績を示すためではなく、誰かが倒れても続いていく仕事を示すための名簿だった。
ミウは最後に『明日の当番』と書き、父の欄を空白にした。
「また休みかい?」とオズマが笑う。
「はい。海へ行くんです」
オズマは驚いた顔をしてから、嬉しそうに頷いた。
「今度は、仕事を気にせず行けそうだ」
二人は笑った。
海は、もう悲しい別れの場所ではない。
何度でも新しい約束を作れる場所になっていた。
「……幸せだよ」
オズマは、ゆっくりと答えた。
ミウは父親の手を強く握った。
「じゃあ、約束してください」
「何を?」
「これからは、お父さん自身の幸せも大切にするって」
オズマは目を閉じた。
昔、娘を救うために何でも捨てようとした自分がいた。
忘れられても構わないと、言い聞かせていた。
だが娘は、そんな父をただ称えるのではなく、生きて帰ってきてほしいと願っている。
「ああ。約束する」
そのとき、診療所から幼い少女が顔を出した。
「オズマ先生!」
少女は笑って手を振った。
オズマは振り返り、同じように手を振った。
かつて命を救った少女から『おじさん、誰?』と尋ねられた日があった。
あのとき彼は、自分の名前が世界から消えていくように感じた。
今、別の少女が、彼の名前を呼んでいる。
「先生、明日も来る?」
オズマは答えた。
「明日は休みなんだ。明後日、また会おう」
少女は元気よく頷いた。
ミウが笑う。
「ちゃんと休むって言えましたね」
「何年もかかったけれどね」
二人は手をつないだまま、家へ向かった。
夕食の支度が待っている。
窓辺には、海で拾った貝殻が今も飾られていた。
世界中が彼を忘れたとしても、娘は言うだろう。
『私は、あなたの娘です』。
それは、取り戻した記憶ではない。
二人が選び、育て、これからも生きていく約束だった。




