第六十九話 誰も忘れない、最後の奇跡
ユアンが目を開けたのは、雨が上がった翌日の午後だった。
「……母さん?」
その声を聞いた母親は、寝台に駆け寄ろうとして足を止めた。
オルドがまだ安静を保つよう伝える。
「ここにいるよ」
母親は少年の手を握った。
ユアンは弱々しく握り返した。
診療所の廊下で、ミウは壁に背を預けた。
膝が震えている。
何度も悪い想像をした。
父が魔法を使い、その代償をまた一人で抱える姿まで思い浮かべた。
「助かったんですね」とミウ。
「まだ経過を見なければならない」とオルド。
「だが、峠は越えた」
オズマはその場に座り込んだ。
胸の奥に溜めていた息が、ようやく抜けた。
「よかった……」
誰かが拍手するわけでも、光が天井を照らすわけでもない。
薬の匂いがする小さな部屋で、一人の少年が目を覚ました。
それだけだった。
数日後、ユアンは少しずつ食事を取れるようになった。
ハルは回復の経過を記し、ネリは薬の量を確認した。
サーラは母親に、家での見守り方を説明した。
ミウは少年に尋ねた。
「崖のこと、覚えてる?」
「途中まで。足が滑ったところは、怖かった」
「無理に思い出さなくていいよ」
ユアンは頷いたあと、言った。
「でも、母さんが僕の名前を呼んでたのは覚えてる」
ミウは言葉に詰まった。
オズマの治癒を受けた人は、彼のことを忘れる。
けれどこの少年は、苦しい夜に聞こえた母の声を、自分の記憶として持っている。
オズマが部屋へ入ると、ユアンは顔を上げた。
「先生、ありがとう」
「私は何もしていないよ」
「母さんが言ってた。先生もずっと待っててくれたって」
オズマは答えられなかった。
「お医者さんたちにも、ありがとうって言いたい」
「うん。皆、喜ぶよ」
その夕方、診療所の人々が小さな食卓を囲んだ。
豪華な祝いではない。
サーラが焼いたパンと、ネリが持ってきた果物だけだった。
「奇跡を使わずに助かった」とハルが言った。
オルドは首を振った。
「それだけを喜ぶな。次の患者も同じように助かるとは限らない。今回の判断を記録し、良かったことも危なかったことも残すんだ」
ミウは頷いた。
成功を誇るだけなら、また誰か一人の腕に頼ることになる。
「全員の名前を書きましょう」とミウが言った。
「患者の名前か?」
「患者さんと、治療に関わった人たちの名前です。もちろん、本人が望む範囲で」
ネリが笑った。
「私の名前まで?」
「薬を間違えないように確認してくれたでしょう」
ハルは少し照れた顔で記録を見た。
「僕は途中で迷った」
「迷ったことも書こう」とオルド。
「次に迷う人の役に立つ」
オズマは紙の端に自分の名を記した。
これまでの治療記録には、患者の名と病状ばかり書いてきた。
自分が消えることを、最初から受け入れていたのかもしれない。
「私は、何をしたと書けばいい?」
ミウは少し考えた。
「最後まで、みんなと一緒にいた」
オズマは笑った。
「それも仕事になるのかな」
「なります」
ユアンが夜明けまでの記録には、意識の変化、呼吸の回数、薬を与えた時刻が途切れず残っていた。
ユアンが目を覚ましても、オルドは「助かった」と断言せず、再び意識が悪くならないか観察を続けた。
ミウは母親に、今できることと、まだ分からないことを分けて伝えた。
奇跡を使わなかったのは我慢比べのためではない。
状態を見て判断し、必要なら助けを求める体制があったからだ。
少年が退院する日、母親は礼状を差し出した。
宛名にはオズマだけでなく、夜通し脈を測ったサーラ、薬を調整したオルド、記録を続けたミウの名もあった。
「誰にお礼を言えばいいのか、迷ってしまって」
ミウは笑った。
「そのままでいいんです」
オズマは手紙を受け取り、今度は誰の名前も消えないように、診療所の共有記録へ写した。
退院する日、母親は診療所の入口で立ち止まった。
「先生方の名前を、家で子供に教えてもいいですか」
「もちろん」とオルド。
母親は一人ずつ名前を聞き、覚えようと何度も繰り返した。
オズマはその光景を見つめた。
奇跡の光は一度も使われなかった。
それでも、誰かが生きて帰り、その日の出来事を覚えている。
ミウが隣で言った。
退院の前日、ユアンはオズマに小さな石を渡した。
崖から落ちる前に拾った、青い筋の入った石だった。
「持ってると怖いことを思い出すから、先生に預けたい」
オズマは受け取ろうとして、手を止めた。
「君が嫌な記憶を持っているのは、石のせいだけかな」
ユアンは考え込んだ。
「崖のことを思い出すから」
オズマは頷いた。
「預かることはできる。でも、君が取り戻したくなったら、いつでも返すよ」
少年は少し迷い、石をポケットへ戻した。
「やっぱり、僕が持ってる。怖かったけど、生きて帰ってきたことも覚えていたい」
ミウはその会話を記録には書かなかった。
少年が自分で決めたことだから、誰かに見せる必要はないと思った。
夕方、オズマは「今日は私の出番がなかった」と笑った。
ミウは首を振る。
「ありました。あの子が自分の記憶をどう扱うか、一緒に考えたでしょう」
オズマは窓の外を見た。
光を使わない治療にも、人の人生に寄り添う仕事は残っている。
一か月後、ユアンは診療所へ自分の足でやってきた。
歩き方はまだ慎重だったが、顔色は良い。
「先生、学校に戻れました」
母親が後ろで笑っている。
ハルは少年の経過を確かめ、無理をしないよう説明した。
ネリは薬の記録を閉じた。
ミウは退院後の暮らしを尋ね、困っていることがないか聞いた。
ユアンは少し考えて言った。
「崖の近くを通ると怖い。でも、友達が遠回りしてくれる」
オズマは頷いた。
「怖くなくなることを急がなくていい。安全な道を選べばいいんだ」
少年はほっとした顔になった。
退院の前日、少年はオズマに尋ねた。
「先生は、僕のことを治してくれなかったの?」
オズマは少し考えた。
「皆と一緒に、君がよくなるための仕事をしたよ。でも、特別な魔法は使わなかった」
少年は不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、どうして先生って呼ばれるの?」
「病気や怪我をした人のそばで、何が必要か考える仕事をしているからかな」
少年は頷いた。
「それなら、僕も大きくなったら先生になれる?」
オズマは笑った。
「もちろん。勉強することは多いけどね」
帰り際、少年の母親はミウへ小さな紙を渡した。
そこには、処置室で働いていた人の名前が並んでいる。
「息子が、忘れたくないと言うんです」
ミウは胸が熱くなった。
「ありがとうございます。でも、名前を全部覚えなくても大丈夫です」
母親は首を振った。
「あの子が、自分で書きたいと言ったんです」
その夜、オズマは紙の写しを見て長く黙っていた。
誰かの記憶から消えることを受け入れてきた自分が、今は誰かの記憶に残ることを、こんなにも嬉しく思う。
彼はその気持ちを否定せず、静かに笑った。
その日の夕方、ミウは父に尋ねた。
「お父さんは、魔法を使わなかったことを後悔していませんか」
オズマはすぐには答えなかった。
「あの夜は、何度も使おうと思った。今でも、もし状態が違っていたら使っただろう」
ミウは頷いた。
「それでいいんだと思います」
奇跡を封じることが目的ではない。
誰かの命と尊厳を守るため、できることを皆で考え続ける。
その選び方を、親子はようやく手に入れた。
「お父さん。これが、私たちの奇跡ですね」
「そうだね」
彼は診療所の扉を閉めた。
今夜は、帰って夕食を食べる。
誰にも忘れられない、ごく普通の一日を終えるために。




