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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第六十八話 忘れられた治癒師の最後の患者

雨の夜、診療所の扉が激しく叩かれた。

「子供が、崖から落ちたんです!」

運び込まれたのは、十歳ほどの少年だった。

名はユアン。

山道で足を滑らせ、石に体を打ちつけたという。

オルドが診察し、ハルが呼吸を確かめる。

少年は意識が鈍く、状態は重い。

治療のための準備が急がれた。

「オズマを呼ぶか」とハルが言った。

ミウは息を止めた。

父はようやく病から回復したばかりだ。

それでも、重い患者を前に奇跡の可能性を考えないわけにはいかない。

「呼びましょう。ただし、最初から魔法を使うと決めないでください」

オズマが到着したとき、ユアンの母親は泣きながら頭を下げた。

「助けてください。何でもします」

「何でも、とは言わないでください」とオズマ。

彼は少年の状態を見て、オルドに尋ねた。

「通常の治療で助かる可能性は?」

「ある。だが、危険も大きい。処置の経過を見て判断する必要がある」

オズマは掌を開いた。

かつてなら、すぐに光を呼んだだろう。

誰かが死ぬかもしれない時間に耐えられなかったからだ。

「私の魔法には、代償があります」

彼は母親に説明した。

治療を受けた者は、自分との個人的な記憶を失う。

少年はオズマを初めて見るため、失う記憶がどれほどあるかは分からない。

それでも、魔法には分かっていない部分がある。

「それでも、助かるなら」と母親は言った。

オズマは頷いた。

しかし、すぐには手をかざさなかった。

「今、医師たちができる処置をしています。必要になれば、私も力を使います」

ミウはその言葉を聞いて、胸が痛くなった。

父に魔法を使ってほしくない。

けれど、少年が助かってほしい気持ちも同じくらい強い。

処置室では、ハルが少年の状態を繰り返し確かめ、オルドが方針を指示した。

ネリは薬と器具を準備し、サーラが家族を支えた。

「脈が弱い」とハル。

「もう一度確認しよう」とオルド。

緊張した声が続く。

オズマは扉のそばに立ち、呼ばれれば動けるようにしていた。


やがて少年の呼吸が苦しそうになった。

オルドは処置を続けながら、オズマに目を向けた。

「まだ判断を急ぐな。今の変化が一時的なものか、見極める」

オズマは歯を食いしばった。

「もし、間に合わなかったら」

「その責任をお前一人に背負わせない」

オルドの声は低かった。

「ここにいる全員で診ている」

ミウは父の横に立った。

「お父さん。怖いですね」

「ああ」

「私もです。でも、先生たちを信じたい」

オズマは娘を見た。

彼女は泣きそうな顔をしている。

それでも目を逸らさない。

「……そうだね」

夜明け前、ユアンの状態に小さな改善が見られた。

まだ安心できないが、処置が効き始めている兆しだった。

「続けよう」とオルド。

オズマは掌を閉じた。

奇跡を使わないという決断は、何もしないことではない。

仲間の判断を聞き、必要ならいつでも動く覚悟を持ち続けることだった。

母親がそばへ来た。

「先生、まだ魔法を使わないんですか」

「必要になれば使います。ですが、今は別の治療が届き始めています」

オズマは彼女の目を見て言った。

「どうか、あの子の名前を呼んであげてください」

母親は頷き、処置室の外から何度も少年の名を呼んだ。

夜が明けた。

ユアンはまだ眠っている。

勝負は終わっていない。

オズマは椅子に座った。

ミウが隣へ来る。

「お父さん、手が震えています」

「君もだよ」

夜半、ハルが処置室から出てきた。

顔色が悪い。

「僕の判断が遅かったら、あの子は……」

オズマは青年を椅子に座らせた。

「何を見て、どう判断した?」

ハルは順を追って説明した。

オズマは聞き終えるまで口を挟まなかった。

「間違いがあれば、皆で検証しよう。今は次に必要なことを考えるんだ」

ハルは頷き、再び処置室へ戻った。

ミウは父に尋ねた。

「お父さんは、今まで一人でこういう夜を過ごしてきたんですか」

オズマはしばらく黙った。

「そうだね。助かった人が私を忘れると、あとで怖かったことを話せる相手もいなかった」

ミウは胸が苦しくなった。

「じゃあ、今日は話してください。怖いって」

オズマは息を吐いた。

「怖いよ。あの子が助からなかったら、きっと自分を許せない」

ミウは頷いた。

「私も怖い。でも、明日の朝まで一緒にいます」

二人は何も言わず、廊下の灯りの下で夜を待った。

明け方、母親は廊下でミウに尋ねた。

「あなたのお父さんが魔法を使わないのは、あなたのため?」

ミウは胸が詰まった。

「私も、使ってほしくないと思っています。でも、私だけのためではありません」

彼女は処置室の扉を見た。

「先生たちは、ユアン君を助けるためにできることをしています。魔法を使うかどうかは、状態を見て判断します」

母親は涙を拭った。

「待つのが、こんなに怖いなんて」

ミウは頷いた。

「私も、父が倒れたとき、同じでした」

母親は椅子に座り、少年が好きな歌を小さく口ずさんだ。

ミウは隣で耳を傾けた。

歌は途中で何度も途切れたが、母親はまた最初から歌った。

オズマは少し離れた場所でその声を聞いていた。

救うために何もできない時間だと思っていたものにも、誰かが誰かを支える仕事がある。

夜半、少年の母親は処置室の外で、オズマに古い噂を尋ねた。

「先生の術を受けると、先生を忘れるんでしょう」

オズマは頷いた。

「ええ。助けられた人の中には、私との記憶を失う人がいます」

母親は息をのんだ。

「うちの子も、あなたを忘れるの?」

「術を使えば、その可能性があります。ただ、今はまだ使うと決めていません」

母親は俯いた。

「命が助かるなら、忘れてもいいと思う。でも、あの子が何を失うか、私には分からない」

オズマも答えに迷った。

救命のために必要なことと、失うものへの恐れは、どちらも本当だった。

ミウは二人に温かい飲み物を渡した。

「今は、分からないことを分からないままにしないために、記録を続けています」

母親は紙を受け取り、少年が昨日好きだと言った食べ物を書いた。

もし記憶に変化が起きても、本人が後から確かめられるように。

オズマはその小さな文字を見つめた。

自分が娘を治した夜にも、誰かがこうして記録を残してくれた。

今は、その経験が別の家族を支えている。

オルドが出てきて、「呼吸が少し落ち着いた」と伝えた。

母親は両手で顔を覆った。

まだ喜ぶには早い。

けれど、夜明けの光が窓に差し込んだとき、ミウは初めて、待つことも治療の一部なのだと感じた。

オルドはユアンの呼吸、意識、手足の動きを繰り返し確かめた。

転落直後は動けても、後から状態が悪くなることがある。

「今は頭を揺らさず、呼吸を見て。飲み物はまだ与えないで」

ハルが寝台の脇で時刻を記録し、サーラは保温と搬送の準備を進めた。

オズマの魔法は最後の選択肢として残されたが、目の前の処置を遅らせる理由にはしなかった。

オルドは母親に、今夜の観察結果と急変したときの対応を説明した。

オズマも同席し、魔法を使うかどうかを一人で決めないと約束した。

二人は互いの手を握った。

この夜、オズマは初めて、奇跡を使わないまま最も恐ろしい時間を越えようとしていた。

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