第六十七話 お父さん、今度は私が治します
市場で買った梨を、オズマは一つも食べられなかった。
帰宅してから顔色が悪く、夕食の途中で匙を置いた。
ミウが額に触れると熱がある。
「お父さん?」
「少し疲れただけだよ」
立ち上がろうとした瞬間、オズマの膝が折れた。
椅子が倒れ、皿が割れる音がした。
「お父さん!」
ミウは駆け寄り、呼びかけに反応があることを確かめた。
呼吸はしている。
けれど体が熱く、ひどく弱っている。
一瞬、頭が真っ白になった。
父を失うかもしれない。
せっかくもう一度家族になれたのに。
ミウは息を吸った。
『分からないことを、分からないと言う』。
最初の授業の言葉が浮かんだ。
「エマ! オルド先生を呼んで!」
近くにいたエマが走り出す。
ミウはオズマを無理に立たせず、周囲の危ない物をどけ、呼吸と反応を見守った。
「ミウ……」
「話さなくていいです。先生が来ます」
「診療所が……」
「開いてます。お父さんがいなくても」
オズマはかすかに笑った。
オルドとハルが到着し、診察を始めた。
長く続いた疲労に加え、感染症による発熱が疑われた。
すぐに命を脅かす兆候は見られなかったが、脱水と衰弱が強く、慎重な経過観察が必要だった。
「病名を決めつけない。変化があれば、すぐ知らせる」とオルド。
ミウは頷いた。
水分を取れるか、意識が変わらないか、呼吸が苦しくならないか。
教わった項目を紙に書いた。
夜、オズマは目を開けた。
「私が寝ていたら、患者が……」
「ハル先生とネリさんがいます」
「でも、重い患者が来たら」
「そのときは、先生たちが判断します」
ミウは父の手を握った。
「今の患者さんは、お父さんです」
オズマは黙った。
「お父さんが私に言ってくれたでしょう。助けてもらうことは、弱いことじゃないって」
「……言ったね」
「じゃあ、今度は聞いてください」
オズマの熱は翌日も続いた。
ミウは診療所へ行かず、オルドの指示を受けながら看病した。
冷ました飲み物を少しずつ渡し、薬の時刻を記し、無理に食べさせない。
夜にはサーラと交代して眠った。
三日目、熱が下がり始めた。
オズマは枕元の記録を見て驚いた。
「ずいぶん細かいね」
「お父さんの治療記録を読んで、真似しました」
「私の字より読みやすい」
「それは知ってます」
二人は小さく笑った。
回復しかけた午後、診療所から伝言が来た。
山道で怪我をした人が運ばれたという。
オズマは布団をめくろうとした。
「行かなくちゃ」
「行きません」
「でも」
「先生たちからの伝言は、『心配しなくていい』です」
ミウは紙を見せた。
そこにはオルドの荒い字で『こちらで処置中。
寝ていろ』とあった。
オズマは紙を読み、ゆっくり布団に戻った。
「怖いんだ。自分が動かなければ、誰かが助からないかもしれないと思うと」
「私も怖かったです。お父さんが倒れたとき、何もできないかもしれないって」
ミウの目に涙が浮かんだ。
「でも、私一人では治せませんでした。オルド先生が来てくれたから、今こうして話せます」
オズマは娘の手を握り返した。
「ありがとう、ミウ」
「まだ治療は終わってません。ちゃんと休んでください」
一週間後、オズマはようやく外へ出られた。
庭の椅子に座ると、ミウが梨を切って持ってきた。
「市場で買った梨です。あの日、食べられなかったから」
「覚えていてくれたんだね」
「もちろん。私が買ったんですもの」
オズマは一切れ口に運んだ。
甘さがゆっくり広がった。
「おいしい」
「よかった」
ミウは父の隣に座った。
自分の手に魔法はない。
それでも、父を一人にせず、回復するまで支えられた。
「お父さん、今度は私が治します」
あの日の言葉を、ミウはもう一度口にした。
回復後の診察で、オルドはオズマに厳しく言った。
「熱が下がったからといって、すぐ働けるわけではない」
オズマは反論しかけたが、ミウが記録帳を開いた。
倒れた日からの体温と食事、眠れた時間が並んでいる。
「お父さんは、患者さんには休むように言いますよね」
オズマは観念した。
「私も患者なんだね」
数日後、ユアンの母親になる女性が診療所へ相談に来た。
まだその名を知らないミウは、診察室への案内を手伝った。
オズマは休憩室からその姿を見て、立ち上がりかけた。
しかしネリが「今は私たちの番です」と言った。
彼は椅子に座り直した。
誰かに任せることは、諦めることではない。
自分が元気になってから、また必要な場所で力を貸せるようにすることだ。
夕食には、ミウが焼いたパンが並んだ。
少し固かったが、オズマは残さず食べた。
「明日は何をする?」とミウ。
「散歩かな」「それがいいです」
二人は明日の予定を、仕事以外の言葉で決めた。
熱が下がっても、オズマは何度も夜中に目を覚ました。
診療所で誰かが呼んでいる夢を見るのだ。
ミウはそれを聞いて、眠る前に翌日の当番表を読み上げることにした。
「朝はオルド先生、午後はハル先生。ネリさんは薬棚。私は記録の整理」
オズマは苦笑した。
「子供みたいだね」「子供の頃、私が眠れないとき、お父さんが話してくれたんでしょう」
「覚えているのかい?」とオズマは尋ねた。
ミウは首を振った。
「日記に書いてありました。だから、今度は私がやります」
オズマは目を閉じた。
昔の記憶は戻らない。
それでも、書き残された優しさを、今の娘が新しい形で返してくれる。
翌朝、彼は久しぶりに朝まで眠れた。
休養中のある晩、オズマは眠れずに窓を開けた。
診療所の灯りが遠くに見える。
誰かが今も働いている。
自分がそこにいないことが、ひどく落ち着かなかった。
「起きていたんですか」
水を持ってきたミウが尋ねる。
オズマは頷いた。
「仕事をしていないと、役に立たない気がするんだ」
ミウは水差しを置いた。
「私は、お父さんが何もしていなくても、帰ってきてくれるだけで嬉しいです」
オズマは返事ができなかった。
「でも、患者さんたちも同じことを思っているかもしれません。家に帰って、また明日を迎えたいって」
ミウは窓を閉めた。
「だから、休むことも仕事の続きです」
オズマはその言葉を、すぐには受け入れられなかった。
それでも、寝台へ戻った。
翌朝、オルドが様子を見に来た。
オズマは昨夜の不安を隠さず話した。
オルドは頷いた。
「なら、仕事に戻る前に、仕事を減らす練習から始めよう」
ミウは二人の会話を聞き、父の回復には薬や休息だけでなく、長年の考え方を変える時間も必要なのだと知った。
診療所に復帰する日、ミウは父の鞄へ一枚の紙を入れた。
『帰る時間を忘れないで』。
以前の誕生日に書いたものと同じ言葉だったが、今度は下に一行が増えていた。
『困ったら、誰かに助けてもらって』。
オズマはその紙を読み、鞄の内側に留めた。
父の熱が下がった朝、ミウは自分の手が震えていたことをようやく認めた。
診療所では平気な顔をしていたのに、湯呑みを持つ指がうまく動かない。
「怖かったんだね」とオズマが言った。
ミウは頷いた。
「お父さんが患者になったら、私は何もできなくなるかと思った」
オズマは娘の手を包んだ。
「怖いまま、できることをしてくれた」
その言葉でミウは初めて泣いた。
「一度に全部じゃありません。明日も、明後日も、少しずつ」
オズマは娘の肩にそっと手を置いた。
救われる側にいることを、もう恥ずかしいとは思わなかった。




