第七話 忘れられた母親が残した一冊の日記
サーラが古い革鞄を持ってきたのは、雨上がりの午後だった。
「マリアのものだよ。店の倉庫を整理していたら出てきた」
中には、薄い日記が一冊と、青い糸で縫われた子供服が入っていた。
ミウは服を胸に当て、目を輝かせた。
「これ、お母さんが作ったの?」
「そうだよ。お前が小さいころ着ていた」
オズマは日記の表紙を撫でた。
妻の字は、結婚した頃と同じように少し右へ傾いている。
最初の頁には、娘が生まれた日のことが書かれていた。
『オズマは泣きながら笑っていた。
こんな顔をする人だったのね』。
次の頁には、初めて寝返りを打った日。
初めて熱を出した日。
初めて『まま』と呼んだ日。
ミウは父の横で、文字を一つずつ読んだ。
「お母さん、私のこと、いっぱい書いてる」
「ああ。毎日書いていたんだ」
頁が進むにつれ、文章は短くなった。
妻の病が進んだ頃だ。
ある日付の欄には、たった二行しかなかった。
『今日はミウの髪を結べなかった。
手が震えてしまう。
明日はできるといいな』。
オズマは息を止めた。
あの日、彼は病院で夜勤をしていた。
妻が一人で娘の髪を結ぼうとしたことさえ知らなかった。
さらに読み進めると、見覚えのない一節があった。
『もし私がオズマの治療を受けて、彼を忘れてしまっても、日記を読めば愛したことは分かるのだろうか』。
オズマは日記を閉じた。
ミウが尋ねた。
「お母さんも、お父さんを忘れるのが怖かった?」
「……そうだったんだろうね」
妻は自分の病が治らないことを知っていた。
それでも治癒を試してほしいと願った。
死ぬより、夫を忘れて生きるほうを選ぼうとしたのだ。
「お父さん、泣いてる?」
「少しだけ」
ミウは日記を抱えた。
「私も書こうかな。お父さんとしたこと、全部」
「大変だぞ」
「大丈夫。今日のことから書く」
夕方、二人は文具店へ行った。
ミウは赤い表紙の帳面を選んだ。
最初の頁に『お父さんと私の日記』と書き、その下に今日の日付を入れた。
帰り道、橋の上で立ち止まった。
川には夕陽が映り、遠くで鐘が鳴っている。
「お父さん、今日のこと、何て書けばいい?」
「お母さんの日記を見つけた日」
「それだけ?」
「それから、一緒に夕陽を見た日」
ミウは笑った。
「じゃあ、お父さんが泣いた日って書く」
「それは勘弁してくれ」
二人は笑い合った。
夜、ミウが寝たあと、オズマは日記の最後の頁を開いた。
妻の文字は弱々しく、途中で何度も途切れていた。
『あなたが誰かを救うたび、誰かの世界から消えることを私は知っています。
でも、私の世界にはずっとあなたがいました』。
その次の行には、インクの染みが残っていた。
『どうか、忘れられることを恐れるあまり、生きる人を遠ざけないで』。
オズマは長い間、その言葉を見つめた。
妻は死を前にしても、彼が一人にならないことを願っていた。
翌朝、ミウは赤い日記を見せに来た。
『きょう、おとうさんとゆうひをみた。
おとうさんはないた。
でも、わたしもたのしかった』。
オズマはその文章を読み、娘を抱きしめた。
「ありがとう。とてもいい日記だ」
「明日も書くよ」
「明後日も?」
「もちろん!」
小さな帳面の最初の頁が、二人の新しい約束になった。
日記を読み終えた翌日、オズマは妻の墓へ行った。
ミウは学校に出かけている。
久しぶりに一人で歩く坂道だった。
墓前には誰かが置いた野の花があった。
サーラだろうか。
オズマはその横に小さな青い花を添えた。
「マリア。君の日記を見つけたよ」
返事はない。
風が草を揺らすだけだった。
「私は、君が苦しかった日に仕事へ行っていた。君が娘の髪を結べなかったことも知らなかった」
言葉にすると、胸の奥の後悔が輪郭を持った。
妻は生きている間、一度も責めなかった。
だからこそ彼は、何も知らなかった自分を許せなかった。
「救える人がいると思うと、帰るのが怖かった。帰って君の病気を見れば、私にできないことがあると分かってしまうから」
墓石に手を置く。
冷たい石の感触が掌に残った。
「ごめん。君は私に、そばにいてほしかった日もあっただろう」
そのとき背後から声がした。
「マリアは、あんたが帰るといつも嬉しそうだったよ」
サーラだった。
彼女は花を持って立っていた。
「でも、寂しいとも言ってた。両方、本当だったんだろうね」
オズマはうなずいた。
妻を美しい思い出に閉じ込め、寂しさをなかったことにしていたのかもしれない。
「これからは、ミウの寂しいも聞くよ」
「そうしな。あの子は強いけど、まだ子供だ」
帰宅すると、ミウは赤い日記を開いて待っていた。
「お父さん、今日どこに行ったの?」
「お母さんに会ってきた」
「私も行きたかった」
「ごめん。次は一緒に行こう」
ミウは少し考えてから、日記に書いた。
『お父さんは、きょうひとりでお母さんにあいにいった。
つぎはわたしもいく』。
オズマはそれを読んで笑った。
娘の寂しさは、こうして言葉になった。
週末、ミウはマリアの墓前で日記を読んだ。
最初は声が小さかったが、途中からはっきりした声になった。
「お母さん。私、お父さんと毎日ご飯を食べてるよ。お父さんは野菜を細かく切るのが下手だけど、スープはおいしいよ」
オズマは横で黙って聞いていた。
娘の声は墓石に向けられているが、言葉は自分にも届いている。
「お母さん、私のこと、覚えててくれるかな」
ミウが尋ねた。
「きっと覚えているよ」
「どうして分かるの?」
「お母さんが書いた日記を読んだから。あんなに毎日、お前のことを考えていた」
ミウは日記を抱きしめた。
「じゃあ、私も書き続ける。お父さんにも、お母さんにも、今日のことが分かるように」
帰り道、オズマは娘の手を握った。
日記に残せるのは出来事だけだ。
けれど書く人が何を大切にしていたかは、文字の間に残る。
家に着くと、ミウは机に向かって一行を書いた。
『お母さんのおはかで、お父さんと手をつないだ』。
その下に小さな花を描いた。
オズマは横から覗き、花の名前を教えた。
「忘れな草というんだ」
ミウは目を丸くした。
オズマは花の名を教えながら、妻が日記に書き残した一文を思い出した。
『記録は過去を閉じ込めるためでなく、明日を選ぶ人のためにある』。
妻の文字を娘が読む日は、思っていたより早く来るのかもしれなかった。
押し花を作る前に、ミウは日記の頁を一枚めくった。
「お母さんも、怖いときがあったのかな」
オズマはすぐには答えられなかった。
妻の字はいつも整っていて、何でも分かっていたように見えた。
だが日記には、娘を残していくことへの恐れが率直に書かれていた。
「あったよ。とても」
ミウは花を紙に挟んだ。
「じゃあ、怖いって書いてもいいんだね」
オズマは頷いた。
立派に見せるための記録ではなく、怖かったことまで正直に残せる記録を、娘に渡したかった。
「そんな名前の花があるの?」
「ああ。小さな青い花だよ」
日記の紙の端には、マリアが急いで書いたためにできたインクのしみがあった。
オズマはそのしみを指でなぞらず、頁をそっと戻した。
亡き妻の言葉を「答え」にしてしまえば、彼女が迷いながら生きた時間まで消してしまう。
ミウには、母も怖がり、間違え、それでも家族を守ろうとした人だったと伝えた。
「今度、一緒に探そうね」
日記の余白には、マリアの癖のある小さな文字で「ミウが自分の意思を持ったら、私たちの怖さを押しつけないで」とあった。
オズマは何度も読み直した。
娘を忘れられたくないのは自分の願いだ。
娘が生きたいと願う日が来たなら、その願いを聞く父でいられるだろうか。
答えはまだ書けなかった。
オズマは頷いた。
娘との約束が、また一つ増えた。
帰り道の青い花を、ミウは大切に押し花にした。




