第六話 娘の誕生日に、初めて嘘をついた
ミウの八歳の誕生日まで、あと三日。
オズマは市場で青いリボンを買った。
娘がずっと欲しがっていた色だった。
「今年は何が食べたい?」
「蜂蜜のケーキ!」
「任せておけ」
オズマは笑ったが、財布には銅貨が少ししかない。
治療費を払えない患者からは受け取らず、薬草代もかさんでいた。
サーラは事情を聞くと、粉と蜂蜜を貸してくれた。
「返すのはいつでもいい。あの子が生まれた日のこと、私も覚えてるから」
ミウの母マリアが亡くなったのは、出産から二年後だった。
病床で彼女は、娘の誕生日を毎年祝ってほしいと頼んだ。
『豪華なものはいらない。
あの子が生まれてきてよかったと思える日にして』。
オズマはその約束だけは守り続けている。
誕生日の前日、重症の鉱夫が運ばれた。
落盤で背骨を損傷し、足が動かない。
妻は赤ん坊を抱いて泣いていた。
「治せますか」
「可能性はあります。ただ、長い治療になります」
鉱夫はかすれた声で尋ねた。
「金は……」
「今は考えなくていい」
治癒には大量の魔力が必要だった。
オズマは日が暮れるまで集中し、夜になってようやく男の足先が動いた。
「……動く。俺の足が」
男は泣き、妻も泣いた。
オズマは壁に手をついて息を整えた。
治療が終わると、男は彼を忘れた。
妻が説明すると、男は赤ん坊を抱いて頭を下げた。
「先生、ありがとうございました」
オズマは微笑んだ。
だが膝が震え、立っているのもつらかった。
帰宅したとき、ミウはテーブルに座って待っていた。
「お父さん、明日は一緒に朝からケーキを作るんだよね」
「……もちろん」
その約束を口にした瞬間、視界が暗くなった。
翌朝、オズマは起き上がれなかった。
魔力の枯渇による高熱だ。
ミウは濡れ布を替え、サーラを呼びに走った。
「お父さん、私の誕生日、忘れた?」
「忘れていないよ」
「じゃあ、ケーキは?」
「……少し休めば作れる」
それは初めて娘についた、はっきりした嘘だった。
体は一日では戻らない。
ミウはうつむいたが、やがて顔を上げた。
「じゃあ、今日は私が作る」
サーラに教わりながら、粉だらけになって小さなケーキを焼いた。
形は傾き、蜂蜜は端から流れ落ちた。
「できたよ、お父さん」
オズマは寝台で身を起こした。
ミウは八本の小さな蝋燭を立て、一本ずつ火をつけた。
「お願いごと、何にしようかな」
「秘密にするものだろう」
「うん。でも、お父さんには教える」
ミウは息を吸い、火を吹き消した。
「来年は、お父さんと一緒に作れますように」
オズマは涙を隠せなかった。
娘は怒らず、ただ父の手を握った。
「約束を守れない日もあるんだよね」
「……ごめん」
「じゃあ、来年に取っておこう」
青いリボンを渡すと、ミウは目を輝かせた。
鏡の前で何度も結び直し、最後に父の枕元へ戻った。
「お父さん。今日は、私が生まれてきてよかった日?」
オズマは迷わず答えた。
「私の人生で、一番よかった日だよ」
その夜、彼はマリアの遺した小箱を開けた。
中には娘が生まれた日の記録がある。
小さな手形と、妻の筆跡。
『この子が大きくなったら、あなたがどれほど喜んだか教えてあげて』。
オズマは手形を見つめた。
娘に嘘をついたことは消えない。
それでも、明日からまた正直に生きようと思った。
翌朝、ミウは残ったケーキを二つに切った。
「お父さん、今日は一緒に食べられるね」
「そうだね」
蜂蜜は少し焦げていた。
それでも、これまで食べたどんな菓子より甘かった。
翌週、鉱夫の妻が赤ん坊を連れて訪れた。
夫はまだ杖を使っているが、仕事場の帳簿をつける手伝いを始めたという。
「先生が無理をしたと聞きました。本当に申し訳ありません」
「私が決めたことです」
「でも、娘さんの誕生日だったのでしょう」
オズマは驚いた。
サーラから聞いたらしい。
妻は小さな包みを差し出した。
中には白い布と、赤い糸で縫われた花模様の飾りがあった。
「夫は先生を覚えていません。けれど、私が毎日話すんです。あの夜、先生がどれだけ頑張ってくださったか。夫はいつも『礼を伝えてくれ』と言います」
オズマは包みを受け取った。
妻の目には疲れと喜びが同居していた。
「娘さんに、これを」
ミウが奥から出てくると、妻は膝を折った。
「あなたのお父さんのおかげで、うちの子は父親と一緒に暮らせるの。ありがとう」
ミウは飾りを見つめたあと、真剣な顔で言った。
「お父さんはすごいけど、休むのが下手なの」
妻は思わず笑い、オズマも頭をかいた。
その日の夕食後、ミウは白い布を父の枕元に置いた。
「これ、お父さんが使って。熱が出たら、私が濡らしてあげる」
「誕生日の贈り物を、私がもらっていいのかい」
「うん。お父さんが元気なのが、私のプレゼントだから」
オズマは娘を抱きしめた。
病人を救うことと、娘の約束を守ること。
どちらか一つしか選べない日が、これからもあるかもしれない。
だからこそ、助けを求めることを覚えようと思った。
翌朝、オズマはサーラとオルドに相談し、緊急患者が来たときの連絡方法を決めた。
治療後の見守りは二人に頼み、自分が倒れた場合は休ませてもらう。
奇跡の力があっても、一人で全てを背負う必要はない。
ミウは新しい紙に『お父さんのお休みの日』と書き、週に一度、丸い印をつけた。
「ここは絶対、一緒にご飯を食べる日」
「分かった。守るよ」
今度の約束は、誰かに助けてもらいながら守る約束だった。
誕生日から数日後、ミウは父の寝台の横に小さな紙を貼った。
『やくそくは、できるときにする』。
「これ、どういう意味?」
オズマが尋ねると、娘は少し困った顔になった。
「お父さんは、何でもできるって言っちゃうから。できないときは、できないって言っていいんだよ」
オズマは紙を見つめた。
自分が娘を守るつもりで重ねた言葉が、娘に余計な心配をさせていたのだろう。
「そうだね。今度から、正直に言うよ」
「じゃあ、来週のお休み、一緒に公園へ行ける?」
「今の体調なら行けそうだ。ただ、急な患者さんが来たらサーラさんに相談する」
「うん。それならいい」
ミウは納得した。
日曜日、二人は公園へ出かけた。
オズマはベンチに座り、娘が木の実を拾うのを見守った。
ミウは拾った実を五つ並べ、一つを父の掌に載せた。
「これ、お父さんの分」
ミウは青いリボンを外し、枕元の釘に掛けた。
「明日も結んでね」
オズマは「もちろん」と答えかけて、言葉を飲み込んだ。
今日は帰れないかもしれないと恐れて、娘に嘘をついたばかりだ。
「帰ってきたら、私が結ぶ。もし遅くなるなら、先に知らせる」
ミウは少し考えて頷いた。
「それなら待てる」
守れない約束を重ねるより、守るための方法を娘と一緒に考える。
父親として覚え直すべきことだった。
「何に使うんだい」
「来年の誕生日まで取っておくの」
オズマは誕生日の約束を守れなかった理由を、患者のせいにはしなかった。
「帰ると言ったのに遅くなった。ごめん」
ミウは少し考え、「来年は先にケーキを食べてもいい?」と尋ねた。
「もちろん」
許してもらうための立派な言葉より、次の約束を守れる工夫が必要なのだと父は思った。
「木の実が腐ってしまうよ」
「じゃあ、絵に描く!」
二人は笑い合った。
オズマは誕生日のために隠していた小さな青いリボンを取り出した。
「渡しそびれた」
ミウは髪に結んでくれと頼んだ。
結び目は不器用で、鏡の中の二人は顔を見合わせて笑った。
約束を守れなかった日があっても、次の一日を作ることはできる。
その当たり前のことを、オズマは久しぶりに思い出した。




