第五話 百人を救った治癒師に、友人はいない
帳面の百頁目に、オズマは赤い糸を挟んだ。
そこには十年前、初めて自分の力で命を救った男の名前がある。
その男、鍛冶師のベルトは、今も王都で店を開いていた。
オズマが前を通っても、彼はただの客として会釈する。
「お父さん、友達はいる?」
朝食の席でミウに尋ねられ、オズマは匙を止めた。
「サーラさんがいるよ」
「サーラさんはお店の人でしょ。お父さんと遊んだりする友達」
思い浮かぶ顔はあった。
だがそのほとんどが、治療した途端に自分を忘れた。
かつて同じ施療院で働いた同僚ルーカスも、その一人だ。
十年前、疫病に倒れた彼を治した。
二人で徹夜した夜も、初めて酒を飲んだ日も、彼の中から消えた。
「……今は、あまりいないかな」
「じゃあ、作ろうよ」
ミウの提案は単純だった。
彼女は父を連れて、広場の祭りへ出かけた。
広場では楽師が演奏し、屋台に人が集まっている。
ミウは焼き栗を二袋買わせ、一袋を父に渡した。
「誰かに話しかけてみて」
「急に言われても」
「私だってノアと初めて会った日は、こんにちはって言ったよ」
オズマは苦笑し、隣に座る老人に声を掛けた。
老人は昔の祭りの話をしてくれた。
オズマも、娘が木の看板を作った話をした。
しばらくすると老人が咳き込んだ。
長年の肺の病だった。
「先生だと聞いた。少し診てくれないか」
オズマはためらった。
今ここで治せば、せっかく交わした会話は消える。
「明日、治療院に来てください。今日は休みです」
老人はうなずいたが、咳は止まらなかった。
唇が紫色になり、息が詰まる。
オズマは迷いを捨てて手を伸ばした。
治癒の光が老人を包んだ。
呼吸が戻る。
老人は驚き、彼を見た。
「……あんた、誰だね」
ミウが目を伏せた。
さっきまで楽しそうに話していた二人が、突然他人になった。
オズマはいつものように説明した。
老人は礼を言い、家族のもとへ帰っていった。
「お父さん、せっかく友達になれそうだったのに」
「そうだね」
「治さなかったら、友達になれた?」
「たぶん」
「じゃあ……」
ミウは言葉を飲み込んだ。
治さなければ老人が苦しんだことも、見ていたからだ。
夕暮れ、二人は祭りの灯りを見ながら座った。
「お父さんは、寂しくない?」
オズマは答えを探した。
寂しくないと言えば嘘になる。
だが寂しさを娘に背負わせたくなかった。
「寂しい日もある。でも、今日お前と祭りに来られたことは嬉しいよ」
ミウは焼き栗を一つ、父の手に載せた。
「じゃあ、毎年一緒に来よう」
「約束だ」
帰宅すると、玄関に小さな紙袋があった。
中には祭りで売っていた木笛と、サーラの手紙。
『友達がいないなんて言ったら承知しないよ。
明日は夕飯を食べにおいで』。
オズマは声を上げて笑った。
娘が驚いて顔を上げる。
「どうしたの?」
「友達が一人、怒っているらしい」
「よかった!」
ミウは木笛を吹いた。
音はひどく外れたが、治療院に久しぶりに賑やかな笑いが響いた。
その夜、オズマは百頁目の赤い糸を結び直した。
救った百人の中に、今も彼を覚えている人はいない。
けれど救われた人の家族には、覚えている人がいる。
数えるべきものを間違えていたのかもしれない。
失った友人の数ではなく、残った繋がりを。
そう考えて帳面を閉じると、隣室から木笛の調子外れな音がした。
翌日、サーラの店で夕食を囲んだ。
彼女の弟一家も来ていた。
弟はオズマを見ると、丁寧に頭を下げた。
「姉から何度も聞いています。昔、私の腕を治してくださったそうですね」
「お元気そうで何よりです」
弟は袖をまくり、傷痕のない腕を見せた。
「この腕で子供の椅子を三脚作りました。仕事にも戻れた。覚えていないのが申し訳なくて」
「申し訳ないことはありません」
食卓には子供たちの笑い声があふれていた。
末の子が匙を落とすと、弟は素早く拾い上げた。
その何気ない動きに、オズマは目を奪われた。
五年前、あの腕は動かなかった。
今は子供の頬を拭き、パンを切り、肩を抱いている。
「先生、よければこれを」
弟が差し出したのは、小さな木の箱だった。
蓋には花模様が彫られている。
「姉から先生の娘さんの話を聞いて。お絵描き道具を入れるのに使ってください」
ミウは飛び上がって喜んだ。
「ありがとう!」
弟は少し照れたように笑った。
帰り道、オズマは箱を抱えた娘に尋ねた。
「今日は楽しかったかい」
「うん! お父さんのお友達、いっぱいいた」
「そう見えた?」
「だって、みんなお父さんとお話ししたがってた」
オズマは空を見上げた。
友人とは何か、長い間難しく考えすぎていたのかもしれない。
昨日のことを覚えていなくても、今日また話せる人がいる。
家に戻ると、ミウは木箱に色鉛筆を並べた。
一番短い青い鉛筆だけ、蓋の裏に入れた。
「これはお父さんの名前を書くとき用」
オズマは笑い、娘の頭を撫でた。
その週末、オズマはミウと一緒に広場の老人を訪ねた。
老人は二日前の治癒を覚えていなかったが、娘から事情を聞いていた。
「ほう。あんたが私を治した先生か。何だか妙な気分だな」
「体調はいかがですか」
「よく眠れるようになった。孫と散歩もできる」
老人は二人を庭へ招き、古い葡萄棚の下に椅子を並べた。
「この前は何を話したんだね」
オズマは祭りの話をした。
老人は大笑いし、自分が若い頃に楽師をしていたことを、もう一度話してくれた。
帰り道、ミウが尋ねた。
「同じお話だった?」
「ほとんどね」
「つまらなかった?」
「いいや。二度聞いても面白かった」
「じゃあ、また友達になれるね」
オズマは歩みを止めた。
失われた時間を取り戻そうとするから、苦しくなるのかもしれない。
新しい時間は、今日からまた作ればいい。
夕方、木笛の音を聞いた隣家の老人が窓を開けた。
「ずいぶん賑やかになったな」
ミウが誇らしげに胸を張る。
「お父さんのお友達ができたから!」
オズマは訂正しようとしてやめた。
友人かどうかを決めるのに、十年先の記憶まで確かめる必要はない。
今日、同じ机で茶を飲み、同じ冗談に笑った。
その事実を、明日の忘却に先回りして否定したくなかった。
翌月、老人から祭りへの招待状が届いた。
『前にお話ししたそうですが、よければまた聞いてください』。
オズマは返事を書いた。
『喜んで伺います』。
その文字を見たミウが笑った。
木笛の音はひどく外れていた。
けれどオズマは笑わなかった。
音を外したときにミウがこちらを見る、その一瞬が惜しかった。
友人に忘れられることを恐れて誘いを断ってきた自分は、まだ起きていない別れのために、今日の出会いまで捨てていたのだと気づいた。
「ほら、友達からお手紙!」
帰り際、オズマは友人に尋ねた。
「次に私を忘れたら、また最初から話してもいいか」
相手はしばらく考え、「いいさ。ただし、そのときは初対面の人間として、ちゃんと名乗ってくれ」と笑った。
永遠に続く友情の約束ではない。
それでも、明日会う勇気をくれる返事だった。
オズマも笑った。
オズマは、友人になる前から別れを数えていた自分に気づいた。
相手がいつか自分を忘れるとしても、今日の会話を自分まで無かったことにする必要はない。
返事の末尾に、次は一緒に茶を飲もうと書いた。
ミウはその夜、父に木笛を吹いてみせた。
まだ音程は外れていたが、オズマは最後まで聴いた。
友達がいるかと尋ねられた朝には想像できなかった、賑やかな一日の終わりだった。




