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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第四話 救った少年が、俺を泥棒と呼んだ

王都の市場で財布が盗まれた。

騒ぎの中心にいたのは、パン屋の息子トルだった。

十二歳の少年は、倒れた老人の荷物を抱えて走っていたところを衛兵に捕まった。

「違う! これはじいちゃんの荷物だ!」

オズマが人垣を分けると、トルは彼を指差した。

「そいつだ! 昨日、俺の家に入って、銀貨を持っていった!」

市場が静まり返った。

オズマは少年の顔を見て、昨日の出来事を思い出した。

トルは屋根から落ち、胸を強く打っていた。

父親が運び込み、オズマは潰れた肺を治した。

治療費は受け取っていない。

「昨日、君は私の治療院に来た」

「嘘だ! 俺はお前なんか知らない!」

少年の叫びは正しかった。

本人にとっては、初めて見る男なのだ。

衛兵が近づく。

「証人はいるのか」

「父親がいました。記録もあります」

「帳面など後から書ける」

トルは興奮していた。

自宅の銀貨がなくなり、母親から知らない男の名を聞かされ、頭の中で二つの出来事を結びつけたらしい。

「俺の胸に手を当てて、何かしたんだろ! その隙に盗んだんだ!」

人々がざわめいた。

オズマの魔法について噂を知る者もいる。

記憶を消す魔法なら、盗みの証拠まで消せるのではないか、と。

オズマは逃げず、衛兵と一緒にパン屋へ向かった。

家の奥では、トルの父親が青い顔で待っていた。

「先生、申し訳ありません。息子には説明したんですが……」

「まず、銀貨を探しましょう」

オズマは店内を見回した。

戸棚の錠は壊れていない。

窓も閉まっている。

昨日、トルが運ばれたとき、母親は銀貨をどこに置いたのか。

「医者を呼びに行く前、何かしましたか」

母親は涙を拭った。

「お金を布に包んで……あの子の上着の内側へ。治療代になると思って」

上着は洗濯籠にあった。

縫い目の奥に布包みが引っかかっていた。

銀貨は一枚も減っていない。

トルは真っ赤になった。

「俺……」

「見つかってよかった」

オズマはそれだけ言った。

少年は下を向き、唇を噛んだ。

「……ごめん。でも、やっぱりあんたのことは覚えてない」

「謝る必要があるのは、泥棒と決めつけたことだけだ。覚えていないことは、君のせいじゃない」

トルの父親が泣き出した。

息子が助かった昨日の恐怖が、ようやくほどけたのだろう。

帰り道、衛兵はオズマに尋ねた。

「腹は立たないのか」

「立ちましたよ」

「なら、なぜ怒らない」

「私が怒ったら、あの子は一生、自分の命を救った治療を恐れるかもしれません」

衛兵はしばらく黙っていた。

治療院の前で、ミウが待っていた。

市場の噂を聞いたらしい。

「お父さんは泥棒じゃない!」

小さな声は震えていた。

オズマはしゃがみ、娘の目を見た。

「知っているよ。ありがとう」

「でも、みんなが言ってた」

「みんなが間違うこともある」

「お父さんは間違わない?」

「間違うよ。だから、間違えたら謝らなくちゃいけない」

ミウは涙を拭き、父の手を引いた。

夕方、扉の前に焼きたてのパンが置かれていた。

包みには不揃いな文字で『ごめんなさい』と書かれている。

差出人の名はなかった。

オズマはパンを半分に割り、娘に渡した。

「おいしいね」

「うん。でも、あの子、ちゃんと謝りに来ればよかったのに」

「怖かったんだろう」

「お父さんだって怖かった?」

「少しね」

ミウはパンを置き、父の手を両手で包んだ。

「じゃあ、今日は私が守る」

その手は小さく、温かかった。

オズマは守られていることを、確かに感じた。


翌朝、トルの父親が治療院を訪れた。

手には店の帳簿と、昨夜焼いたパンがあった。

「息子を連れてくるべきでした。でも、まだ外へ出るのを怖がっているんです」

「無理に来させなくていいですよ」

父親は深く頭を下げた。

「昨日は、命を救っていただいた人に疑いをかけてしまった」

「疑うのは自然なことです。覚えていない出来事を信じろと言われても、難しいでしょう」

「でも、先生は息子の名前を覚えていた」

オズマは頷いた。

トルが屋根から落ちた日のことを話した。

治療前、少年は自分の父親が怒っているかを心配していた。

意識を失いかけても『屋根を直すつもりだった』と言い張っていた。

父親は目を見開いた。

「私には、そんなこと一言も……」

「怖かったんでしょう。叱られると思って」

父親はパンを置き、目を伏せた。

「私はあの日、息子を叱りました。怪我が治ったあとも、屋根に登るなと怒鳴った。息子が何をしようとしたのか、聞かなかった」

「今から聞いてあげてください」

男は何度もうなずいて帰った。

夕方、トルが一人で来た。

手には短い木片がある。

「これ、屋根の壊れたところを測ったやつ。雨漏りを直したかったんだ」

「そうか」

「父ちゃんに話したら、一緒に直そうって」

少年は木片を握りしめたまま続けた。

「昨日、泥棒って言ってごめん」

「もう大丈夫だよ」

「俺、先生のことを覚えてない。でも、父ちゃんが泣きながら話してくれた。だから、信じる」

オズマは微笑んだ。

「それでいい」

トルは帰り際、看板を見上げた。

「オズマ先生。今度は名前、ちゃんと覚える」

オズマは返事をしなかった。

また治療すれば、その約束も消える。

だが少年が今、名前を覚えようとしてくれたことだけで十分だった。


その晩、オズマはミウに尋ねた。

「もし誰かが、お前のことを知らないと言ったらどうする?」

「本当に知らないなら、名前を教える」

「前に会ったことがあるのに、忘れていたら?」

ミウは少し考えた。

「悲しいけど、もう一回こんにちはって言う」

「怒らないのかい」

「忘れたのがわざとじゃないなら、怒ってもしょうがないよ」

オズマは娘の言葉に救われる気がした。

トルは、命を救われた記憶を失ったうえ、知らない男に恩を着せられたと思って怖かったのだ。

翌日、トルの母親から短い手紙が届いた。

『息子は先生の名前を紙に書いて、寝台の横に貼りました。

昨日は何度も読み返していました』。

オズマは手紙を読み、思わず笑った。

少年の努力が嬉しかった。

同時に、また病気になればその努力も消えると知っている自分が切なかった。

少年の母親が手紙を取りに来たとき、オズマは封を閉じた返事を渡した。

「息子は、先生にひどいことを言ったと泣いていました」

オズマは首を振った。

「記憶のない相手を怖がったのは、少年のせいではありません」

母親はしばらく黙り、「それでも、謝りたいと思った気持ちは受け取ってください」と言った。

オズマは返事を母親の手に託した。

許すという言葉を口にしなくても、次に会う道は開けるのだと思った。

ミウは手紙を読み終えると、父の帳面に挟んだ。

封筒の角には、少年が何度も書き直した跡があった。

謝罪の文字は歪んでいたが、投げつけられた疑いの言葉より、ずっと重かった。

オズマは返事の宛名を書き、まず「元気でいてくれて嬉しい」と記した。

「ねえ、お父さん。忘れちゃうことと、忘れようとすることは違うよね」

少年が盗難を訴えたとき、オズマはまず帳簿と薬棚の鍵を人前に出した。

無実を証明するためだけではない。

忘却を理由に、患者の訴えを最初から退けてしまえば、治癒師としての信頼を自分で壊す。

「疑っていい。だから一緒に確かめよう」

その言葉を聞いて、少年は初めて怒鳴るのをやめた。

「ああ。全然違う」

オズマは少年の前に膝をつき、盗んでいないと証明できる品を一つずつ並べた。

少年が怯えたのは、知らない大人に自分の持ち物を預けたと思ったからだ。

記憶を失った者の恐怖まで「恩知らず」の一言で片づけてはいけない。

少年が自分で品を数え終えるまで、オズマは弁解を控えた。

「だったら、あの子はもうお父さんの味方だよ」

オズマは静かにうなずいた。

誰かを責めるより、理解しようとする娘の心を、何より大切にしたかった。

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