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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第三話 娘だけは、俺の名前を呼んでくれる

ミウは朝から、木の板に何かを書いていた。

消しては書き、書いては消す。

オズマが覗くと、娘は慌てて背中で隠した。

「内緒!」

「では、見ないことにしよう」

今日は休診日だった。

オズマは薬草の根を洗い、ミウは窓辺で作業を続けた。

小さな家に、久しぶりに静かな時間が流れる。

昼前、二人は丘の上へ出かけた。

亡き妻マリアの墓がある場所だ。

道端には白い花が咲き、遠くに王都の城壁が見える。

ミウは墓前に花を置いた。

「お母さん。私、もう字が書けるよ」

風が吹き、花弁が一枚転がった。

オズマは墓石に刻まれた妻の名前を見つめた。

妻は病を患ったとき、治癒を拒まなかった。

むしろ『試して』と言った。

だが彼の力が届かなかったのだ。

「お母さんは、どうして死んじゃったの?」

ミウの問いは何度目だろう。

「身体の中に、私にも治せない病があったからだよ」

「お父さん、何でも治せるんじゃないの?」

「何でもじゃない。できないこともある」

ミウは長く考えてから、父の手を握った。

「じゃあ、できないときは一緒に泣こうね」

オズマはうなずいた。

娘は時々、大人が長い年月をかけても言えないことを、簡単に言ってしまう。

帰り道、ミウが転んだ。

膝を擦りむき、血が滲む。

オズマは反射的に手を伸ばし、途中で止めた。

「痛いかい」

「ちょっと」

「家で洗って、薬を塗ろう」

「魔法じゃだめなの?」

「……私の魔法を使うと、ミウは私を忘れてしまう」

娘は真剣な顔になった。

「どれくらい?」

「生まれてから今まで、私と一緒に過ごしたことを全部」

「お父さんって呼んだことも?」

「ああ」

「誕生日の歌も?」

「それも」

ミウは膝の痛みをこらえながら立ち上がった。

「じゃあ、薬がいい。痛いのは、ちょっとだけだもん」

家で傷を洗うと、ミウは泣きそうになりながらもじっと耐えた。

オズマは包帯を巻き、白い布に小さな花を描いた。

「特別な包帯だ」

「どこが?」

「世界に一つしかない」

「お父さんの絵、へたっぴ」

二人で笑った。


午後、ミウの友達のノアが遊びに来た。

ノアの母親は二年前、重い肺炎でオズマに救われた人だった。

彼女は今でもオズマを見るたび、初対面のように頭を下げる。

「先生、いつもノアがお世話になっています」

「こちらこそ」

ノアは二人の会話を聞いて不思議そうに尋ねた。

「ミウのお父さんって、すごい魔法使いなの?」

「うん。世界で一番」

「でも、お母さんは知らないって」

ミウは唇を尖らせた。

「忘れちゃっただけだよ。知らなかったのとは違う」

ノアには意味が分からなかった。

それでもミウは怒らなかった。

父から何度も教わったからだ。

忘れた人を責めても、思い出は戻らない。

夕方、ノアが帰ると、ミウは朝から作っていた木の板を差し出した。

『オズマの治療院』。

字は曲がっていたが、丁寧に色が塗られていた。

「看板が古いから、作ったの」

「一人で?」

「サーラさんに木を切ってもらった。字は私が書いたよ」

オズマは看板を抱きしめた。

名前を書かれたものが、こんなに嬉しいとは思わなかった。

「ありがとう」

「忘れちゃう人がいても、ここに来たら名前が分かるでしょ?」

娘の考えた小さな解決策が、彼の胸を温めた。

二人で玄関に看板を取り付けた。

夕陽が文字を照らす。

通りかかった人が『オズマの治療院』と声に出して読んだ。

その声を聞いて、ミウは満足そうに笑った。

「ほら。お父さんの名前、ちゃんとある」

オズマは娘の肩を抱いた。

看板はいつか風雨で朽ちるだろう。

それでも、今日のことは忘れない。

夜、ミウが寝る前に尋ねた。

「もし私がお父さんを忘れたら、どうする?」

オズマは答えられなかった。

娘は少し考え、先に答えを出した。

「そしたら、もう一回お友達から始めようね」

彼は娘の髪を撫でた。

「……そうだね」

口にした返事は小さかった。

そんな日が来ないようにと、心の底で祈っていた。

看板を掲げたあと、ミウは何度も外へ出ては文字を確かめた。

通りを歩く人が見上げるたび、彼女は窓から顔を出した。

「ここ、私が書いたんだよ!」

知らない商人が笑って手を振る。

オズマは娘を抱き下ろし、風邪を引くから窓を閉めようと言った。

夕食の支度をしながら、彼はマリアのことを思い出した。

妻は生前、何でも名前を付けたがる人だった。

庭の白い花には『朝の星』、古い椅子には『頑固者』。

オズマが笑うと、妻は言った。

『名前を呼ぶと、そこにあるものを大切にできる気がするの』。

ミウが父の名前を看板に書いたのも、同じ気持ちなのだろう。

「お父さん、お母さんは私に何て名前を付けたかったの?」

「ミウだよ。最初から、それしか考えていなかった」

「どうして?」

「『小さな光』という意味がある古い言葉から取ったんだ。お前が生まれた朝、窓から光が差していた」

「じゃあ、お父さんの名前は?」

「祖父さんが付けたそうだ。『人を支える者』という意味だって」

ミウは得意げに胸を張った。

「ぴったりだね」

オズマは苦笑した。

名前の意味にふさわしく生きられているか、分からなかったからだ。

「私はまだまだだよ」

「でも、今日もちゃんと私の膝を治してくれた」

「魔法は使っていないぞ」

「それでも治してくれたよ」

オズマは包帯を見た。

娘は治癒を、奇跡の光だけだとは思っていない。

傷を洗い、そばに座り、痛いときに手を握ることも治療なのだ。

寝る前、ミウは父の名前を三度唱えた。

忘れないためではなく、響きが好きだからだと言った。

オズマはその声を聞きながら、名前を呼ばれることの幸せを静かに噛みしめた。


翌朝、ミウは膝の包帯を外してほしいと言った。

傷は薄いかさぶたになっていた。

オズマは水で布を湿らせ、ゆっくりほどいた。

「もう走っていい?」

「今日は歩くだけ。明日、痛くなければ少しずつ」

「魔法ならすぐ走れるのにね」

ミウは何気なく言ったあと、父の顔を見て口をつぐんだ。

「ごめん。魔法を使ってほしいわけじゃないよ」

「分かってる。痛いのは嫌だものね」

オズマは娘の膝を優しく拭いた。

「私は、早く治すことばかり考えていた。けれど、待つことも治療なんだと、お前に教えられたよ」

「じゃあ、私も治癒師?」

「立派な先生だ」

ミウは嬉しそうに笑い、父の首に抱きついた。


午後、二人は看板の裏に日付を書いた。

『ミウが八歳になる前の春、二人で取り付けた』。

表からは見えない文字だ。

ミウは看板の星の隣に、小さな空白を残した。

「ここは誰の場所?」とオズマが聞くと、「まだ来てない人」と答えた。

「お父さんを知らない人でも、ここに来たら名前を書けるでしょ」

オズマは自分の名前が消えていくことばかり恐れていた。

娘はまだ出会っていない人の名前が増えることを考えている。

その違いに気づいて、胸の奥の固いものが少しほどけた。

「どうして裏に書くの?」

「いつか看板が古くなって外したとき、今日のことを思い出せるように」

オズマは娘に自分の名を何度も言わせかけ、口を閉じた。

記憶を試すたび、ミウの笑顔を検査の結果に変えてしまう。

「名前は言わなくていいよ」と彼は言い直した。

「今日は何をしたい?」

ミウは即座に「看板を一緒に直したい」と答えた。

父はその願いを、記録ではなく今日の時間として受け取った。

「じゃあ、ずっと外さなかったら?」

「そのときは、ずっとここにあるということだ」

ミウは満足して頷いた。

夕陽の中、二人の影が看板の下で重なった。

ミウは背伸びして自分の名前の下に小さな星を描いた。

「もし私が字を忘れても、これなら分かるね」

オズマは筆を取りかけ、何も言わず置いた。

今はただ、星を描く娘の手元を見ていたかった。

オズマはその影を見て、娘と過ごす何でもない時間こそ、記録しておくべきものなのだと思った。

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